クエンティン・タランティーノ監督の最新作『ヘイトフル・エイト』は、西部劇と密室ミステリーを掛けあわせた痛快作(日本公開は2月27日)。雪嵐の山中でロッジに閉じ込められたクセ者8人が、ある殺人をめぐってだまし合いを繰り広げる。多彩な俳優陣、タランティーノらしいせりふの応酬、ブラックな笑いとバイオレンス――3時間近い上映時間だが決して飽きさせない。
この映画で美術監督を務めているのが種田陽平だ。タランティーノ作品は『キル・ビルVol.1』(03年)以来、二度目となる。
種田はこれまで国内外のさまざまな映画監督と組み、その世界観を具現化してきた。三谷幸喜監督の『清州会議』『ザ・マジックアワー』、米林宏昌監督の『思い出のマーニー』のほか、チャン・イーモウ監督の『金陵十三釵』、ウェイ・ダーション監督の『セデック・バレ』などなど、数えきれないほどの参加作品がある。
監督や俳優のように目立つ存在ではないが、映画に対する印象を大きく左右するのが美術監督の仕事。その醍醐味から「タランティーノ組」の現場の楽しさまで、存分に語ってもらった。
――『ヘイトフル・エイト』はどんな製作現場だった?
ハリウッド映画ではたいていスタジオやプロデューサーが力を持っていて、監督が決定権をすべて持っている訳ではない。でもタランティーノ映画は、タランティーノが全部決める。何もかも。プロデューサーたちは、タランティーノがやりたいことを実現させるために集まっているという感じです。
『ヘイトフル・エイト』はアメリカの南北戦争後、1800年代の物語で、そこでわざわざアジア人のプロダクションデザイナーを使うという発想は今のハリウッドにはないと思う。クエンティンは――ここは重要なんだけど――クレイジーだってよく言われるが、それとは違っていて、彼はすごく公平な人なんです。人種差別や偏見のない男なのね。だから、「今回のこの映画の美術には種田陽平がいいと思うんだ」っていう発想になる。
クエンティンに言われたのは、例えばアメリカの1980年代の映画なら種田がやる意味はあまりない、でも西部劇の時代なんて誰も実際には知らないから、自由に製作できるだろう、ということだった。
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――タランティーノと組むのは『キル・ビルVol.1』以来だが、彼の変わったところ、変わらないところは。
『キル・ビル』のとき彼は39歳か40歳だったと思う。だからまだ若手監督の感じが残っていた。もちろんすでに有名で、正確には若手ではなかったが、若手っぽいノリもあった。
でも今回は、本人の態度もそうだけど、周りの扱いも巨匠監督になっていてびっくりした。そこが変わったな、と思うところです。日本では、タランティーノというとコミカルなイメージがあるかもしれない。でもあれは本人のサービス精神のなせるわざで、本当はそういう人じゃない。
種田による「ミニーの紳士服飾店」のデザイン画(上)と、それを基に作られたセット(下) (C)Copyright MMXV Visiona Romantica, Inc. All rights reserved.
オーソン・ウェルズみたいな巨匠になってきた、という印象で、僕はそれがとても嬉しかった。僕は巨匠監督という存在が好きなんです。いつの時代も新人監督はたくさん出てくるけど、彼らが全員、巨匠になることってないですよね。中堅まで行くことができても、巨匠になる人はそうそういないというのが今の映画界の実情だと思う。監督の資質というよりも、映画作りの環境が変わってしまったから。昔はハリウッドにもフランスにも、日本にだって黒澤(明)、溝口(健二)、小津(安二郎)とか巨匠監督がごろごろいました。
クエンティンが以前と変わらないのは、ご機嫌になると大笑いするところかな。げらげら笑いながら撮影している。大しておかしくなくて、誰も笑っていないんだけど(笑)、本人は「いやー、面白かった。だから、もっと面白いのをもう一回」って言いながら、延々と撮っている。そんなところは同じだった。
――テイクが多いようだが、現場としては過酷なのか。
クエンティンは役者のすぐそばでげらげら笑いながら、「もう一回、もう一回」みたいな感じでやっている。だから役者もピリピリしない。現場は過酷という雰囲気にはならない。
OKテイクが出ると、彼が「今のは『ジェシカ』だな!」って。ジェシカは「OK」のことで、なぜそう言うのかは忘れたけど(笑)。「じゃあ、OKだ。OKだからもう一回撮影しよう。なぜなら......」ってクエンティンが言うと、スタッフがみんなで、「Because we love making movies!(だって僕たちは映画を作るのが大好きだから!)」って叫ぶ。
映画作りが好きだから、撮影が好きだから何度も撮っているんだよね、と。傍から見るとクレイジーかもしれないけど、その場にいると本当に明るい雰囲気です。
――今回の作品で、タランティーノからはどんな注文が?
彼の場合、撮影の準備をしているときは「脚本家」なんです。「映画のバイブルは脚本だ」と。これは実は当たり前のことだけど、そういう監督はいま意外と少ないかもしれない。
すでに脚本に細かく書かれてあるから、脚本を読めばすべて分かる。例えば、密室劇の舞台となる「『ミニーの紳士服飾店』にはバーカウンターがある。ボトルは3本しかないが、ここをバーと呼ぶならバーといえよう。シチューが作ってあって、シチューしかないが、ここをレストランと呼ぶならレストランといえよう。雑貨や生活用品があり、何でもそろっているが、ただ1つ、ミニーの紳士服飾店にないものがある。それは紳士服だ」って書いてある。
紳士服飾店(haberdashery)って、都会にあるテーラーみたいなものだけど、それをど田舎にわざわざ置いて、「紳士服飾店」って看板なのに紳士服を置いていない。そういう店を作ってね、というのがクエンティンの希望で、ひねりが効いている。
――デジタルではなく、最近では珍しい70ミリフィルムで全編を撮影している。そのことを初めて聞いた時はどう思ったか。
初めて聞いた時というか、台本1ページ目に「70ミリの大画面」って書いてある。「70ミリの大画面に広がるワイオミングの広大な山々。6頭立ての駅馬車が走っているのが小さく見える......」みたいな書き方で始まっていて。しかも一回だけでなく、何度も「またも70ミリの大画面に」って書いてあるんです(笑)。
クエンティンのこだわりは本当にすごくて、台本の表紙にも、ティーザー・ポスターにも「70ミリのシネマスコープ」とあり、もうあらゆるところに70ミリ、70ミリって書いてある。
いま日本には、70ミリのフィルムを上映できる映画館がない(今回はデジタル版の上映)。だから、せめてスクリーンの大きい丸の内ピカデリーなんかで観てほしい。そうするとオリジナルの雰囲気、クエンティンが70ミリで狙った世界が分かってもらえると思う。
国内外のさまざまな監督と組み、大きな信頼を得ている種田は「映画愛」にあふれた人 (C)Copyright MMXV Visiona Romantica, Inc. All rights reserved.
『ドクトル・ジバゴ』のように山や川や町といったいろいろなシチュエーションがあるとき、70ミリは最高なんです。本来、密室劇にはあまり向いていない。それなのになぜ『ヘイトフル・エイト』を70ミリで? と不思議に思うかもしれない。
ところが仕上がった作品を見て、僕は分かったんです。デジタル撮影と違い、70ミリフィルムでの撮影はピントが合いにくい。例えば顔にピントを合わせると、奥がぼけぼけになる。だから肉眼で見たときとは全然違う空間として撮影できる。
しかもワンカットごとに照明も変えてある。するとあるときはイスが近くに見え、あるときは窓が遠くに見え、あるときは細部がすごくよく分かる......と空間に多様性が生まれ、ワンセットでやっているように見えないんですね。これが普通のデジタルカメラだったら、すぐに「どこを撮っても同じだな」ってなっちゃう。
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1部屋のセットでも、ちょっとしたパーティションや廊下や中2階などの、凹凸があったほうが面白い。でもクエンティンが「死角は作りたくない」と言うので、美術面ではいろいろな手が使えなかった。本当は前菜が出て、スープが出て、お魚の次はお肉......ってやったほうがゴージャスで楽しめるが、今回は一杯のラーメンどんぶりの中にすべての宇宙がある(笑)、みたいなやり方だった。
彼は役者がリハーサルに入る前、スタッフをセットの外に出して、自分1人で演じてみるんです。ドアを開けて入ったり、歩数を数えたり、イスに座ってみたり。登場人物になりきって、あらゆるものをチェックしている。それで「種田を呼んでくれ。このテーブルはもうちょっと高くしたい」とか指示が来る。こだわりのラーメン屋の店主が、チャーシューの位置を直すといった風で、その修正は厳密で迷いがない。
――製作中の失敗や成功など、印象的な逸話はある?
いっぱいありすぎて話し切れないけれど......。例えば美術的なことではないが、ジェニファー・ジェイソン・リーが弾いていたギターを壊しちゃった件。
1800年代の貴重なアンティークだということは本人も、助監督も知っていた。彼女はそれでずっと練習していて、本番では彼女が歌い終わったら「カット」、カットしたら別のギターに変えて壊すという段取りになっていた。でも監督がそれを知らなくて、「カット」の声を掛けなかった。だから(アンティークであることも、段取りも知らなかった)カート・ラッセルが芝居を続けて、ギターを奪って壊した。ジェニファーが「ぎゃー」と叫んだのは、本物のリアクションだった。
「壊しちゃった!!」と彼女が大騒ぎしたから、クエンティンとカートは「何?」「なんで教えないんだよ」ってなったらしく......。みんなで破片をひろい集めて、そこにサインして博物館に寄贈し、「『ヘイトフル・エイト』で壊された本物のギター」として展示されることになったそうです。
――撮影現場にはしょっちゅう足を運んだのか。
たいてい朝に現場に行き、撮影が始まるのを見届ける。今回はシチュエーションが少ないが、それでもクエンティン組は次から次に解決すべき課題が生じるから。なんといっても監督が完璧主義だし、妥協するタイプじゃない。
それでいうとクエンティンは、21世紀のコンピュータに管理された映画の世界に、ドン・キホーテのように立ち向かっていると思う。そんなクエンティンの意気に感じ、僕たちも図面はすべて手描きで描いた。今はみんなコンピュータで描くのが普通だけど。すたれていく技術をあえて使うことで映画に人間の息吹を与え、次世代に伝えようということだと思う。
――そのあたりは共感する?
彼も僕も原体験が一緒で、昔の映画が好きだから話は合う。あうんの呼吸でいく部分もある。僕がセルジオ・レオーネ監督の『ウエスタン』の場面写真を美術の提案に使ったら、「その映画はフィルムで持っているから、うちの試写室で一緒に観ようぜ」と言われて。映画を一緒に観ることも打ち合わせになる。
彼が経営しているフィルム上映の名画座で『モロッコ』を観た時は、「途中でこういうショットが出てくるから、観ておいてくれ」と言われて、「じゃあ、あの感じでやろう」と話し合った。でもそれで作った棚は最終的に、「邪魔だな」ってはずしてしまった。『モロッコ』を観たことは忘れちゃったみたいに(笑)。
――美術監督の仕事はどの段階が楽しいのか。また大変な点は?
僕の場合は脚本を読んでスケッチを書き、それを基にセットデザイナーと図面を起こし、模型に組み立てていく、その間がいちばんわくわくするんだ。子供のときのおもちゃ遊びみたいな感覚かな。
監督も巻き込んで、その模型の中でイスの位置を変えたり、光をいじったりしながらやっていく。それが「映画ごっこ」みたいで、そのときがいちばん楽しい。
監督やカメラマンが実際にセットに入り、不具合が起こるときが大変だ。了解を得て作ったセットだが、現実には「これがあると撮りづらい。代わりの物を考えて」という話が必ず出てくる。明日からカメラが入って、リハーサルが始まるというようなタイミングであまり時間もない。そこでおもちゃ遊びから、現実に引き戻される(笑)。
さらに役者がそろったところで、「ちょっとあそこを変えたい」みたいな話も出てくる。ブルース・ダンは背が高いからテーブルの高さも変えようとかね。綿密にやってきたつもりでも微妙な食い違いが出てくる。美術監督にとっては撮影が始まればゴールだけど、そのゴール間近のところが一番きついかもしれない。
だからこそ、ライティングの終わったセットに役者が入り、撮影が始まると心からほっとする。そしてまた別の遊びに夢中になりたいと思うんだ。
大橋 希(本誌記者)
この映画で美術監督を務めているのが種田陽平だ。タランティーノ作品は『キル・ビルVol.1』(03年)以来、二度目となる。
種田はこれまで国内外のさまざまな映画監督と組み、その世界観を具現化してきた。三谷幸喜監督の『清州会議』『ザ・マジックアワー』、米林宏昌監督の『思い出のマーニー』のほか、チャン・イーモウ監督の『金陵十三釵』、ウェイ・ダーション監督の『セデック・バレ』などなど、数えきれないほどの参加作品がある。
監督や俳優のように目立つ存在ではないが、映画に対する印象を大きく左右するのが美術監督の仕事。その醍醐味から「タランティーノ組」の現場の楽しさまで、存分に語ってもらった。
――『ヘイトフル・エイト』はどんな製作現場だった?
ハリウッド映画ではたいていスタジオやプロデューサーが力を持っていて、監督が決定権をすべて持っている訳ではない。でもタランティーノ映画は、タランティーノが全部決める。何もかも。プロデューサーたちは、タランティーノがやりたいことを実現させるために集まっているという感じです。
『ヘイトフル・エイト』はアメリカの南北戦争後、1800年代の物語で、そこでわざわざアジア人のプロダクションデザイナーを使うという発想は今のハリウッドにはないと思う。クエンティンは――ここは重要なんだけど――クレイジーだってよく言われるが、それとは違っていて、彼はすごく公平な人なんです。人種差別や偏見のない男なのね。だから、「今回のこの映画の美術には種田陽平がいいと思うんだ」っていう発想になる。
クエンティンに言われたのは、例えばアメリカの1980年代の映画なら種田がやる意味はあまりない、でも西部劇の時代なんて誰も実際には知らないから、自由に製作できるだろう、ということだった。
【参考記事】X JAPANの壮絶な過去と再生の物語
――タランティーノと組むのは『キル・ビルVol.1』以来だが、彼の変わったところ、変わらないところは。
『キル・ビル』のとき彼は39歳か40歳だったと思う。だからまだ若手監督の感じが残っていた。もちろんすでに有名で、正確には若手ではなかったが、若手っぽいノリもあった。
でも今回は、本人の態度もそうだけど、周りの扱いも巨匠監督になっていてびっくりした。そこが変わったな、と思うところです。日本では、タランティーノというとコミカルなイメージがあるかもしれない。でもあれは本人のサービス精神のなせるわざで、本当はそういう人じゃない。
種田による「ミニーの紳士服飾店」のデザイン画(上)と、それを基に作られたセット(下) (C)Copyright MMXV Visiona Romantica, Inc. All rights reserved.
オーソン・ウェルズみたいな巨匠になってきた、という印象で、僕はそれがとても嬉しかった。僕は巨匠監督という存在が好きなんです。いつの時代も新人監督はたくさん出てくるけど、彼らが全員、巨匠になることってないですよね。中堅まで行くことができても、巨匠になる人はそうそういないというのが今の映画界の実情だと思う。監督の資質というよりも、映画作りの環境が変わってしまったから。昔はハリウッドにもフランスにも、日本にだって黒澤(明)、溝口(健二)、小津(安二郎)とか巨匠監督がごろごろいました。
クエンティンが以前と変わらないのは、ご機嫌になると大笑いするところかな。げらげら笑いながら撮影している。大しておかしくなくて、誰も笑っていないんだけど(笑)、本人は「いやー、面白かった。だから、もっと面白いのをもう一回」って言いながら、延々と撮っている。そんなところは同じだった。
――テイクが多いようだが、現場としては過酷なのか。
クエンティンは役者のすぐそばでげらげら笑いながら、「もう一回、もう一回」みたいな感じでやっている。だから役者もピリピリしない。現場は過酷という雰囲気にはならない。
OKテイクが出ると、彼が「今のは『ジェシカ』だな!」って。ジェシカは「OK」のことで、なぜそう言うのかは忘れたけど(笑)。「じゃあ、OKだ。OKだからもう一回撮影しよう。なぜなら......」ってクエンティンが言うと、スタッフがみんなで、「Because we love making movies!(だって僕たちは映画を作るのが大好きだから!)」って叫ぶ。
映画作りが好きだから、撮影が好きだから何度も撮っているんだよね、と。傍から見るとクレイジーかもしれないけど、その場にいると本当に明るい雰囲気です。
――今回の作品で、タランティーノからはどんな注文が?
彼の場合、撮影の準備をしているときは「脚本家」なんです。「映画のバイブルは脚本だ」と。これは実は当たり前のことだけど、そういう監督はいま意外と少ないかもしれない。
すでに脚本に細かく書かれてあるから、脚本を読めばすべて分かる。例えば、密室劇の舞台となる「『ミニーの紳士服飾店』にはバーカウンターがある。ボトルは3本しかないが、ここをバーと呼ぶならバーといえよう。シチューが作ってあって、シチューしかないが、ここをレストランと呼ぶならレストランといえよう。雑貨や生活用品があり、何でもそろっているが、ただ1つ、ミニーの紳士服飾店にないものがある。それは紳士服だ」って書いてある。
紳士服飾店(haberdashery)って、都会にあるテーラーみたいなものだけど、それをど田舎にわざわざ置いて、「紳士服飾店」って看板なのに紳士服を置いていない。そういう店を作ってね、というのがクエンティンの希望で、ひねりが効いている。
――デジタルではなく、最近では珍しい70ミリフィルムで全編を撮影している。そのことを初めて聞いた時はどう思ったか。
初めて聞いた時というか、台本1ページ目に「70ミリの大画面」って書いてある。「70ミリの大画面に広がるワイオミングの広大な山々。6頭立ての駅馬車が走っているのが小さく見える......」みたいな書き方で始まっていて。しかも一回だけでなく、何度も「またも70ミリの大画面に」って書いてあるんです(笑)。
クエンティンのこだわりは本当にすごくて、台本の表紙にも、ティーザー・ポスターにも「70ミリのシネマスコープ」とあり、もうあらゆるところに70ミリ、70ミリって書いてある。
いま日本には、70ミリのフィルムを上映できる映画館がない(今回はデジタル版の上映)。だから、せめてスクリーンの大きい丸の内ピカデリーなんかで観てほしい。そうするとオリジナルの雰囲気、クエンティンが70ミリで狙った世界が分かってもらえると思う。
国内外のさまざまな監督と組み、大きな信頼を得ている種田は「映画愛」にあふれた人 (C)Copyright MMXV Visiona Romantica, Inc. All rights reserved.
『ドクトル・ジバゴ』のように山や川や町といったいろいろなシチュエーションがあるとき、70ミリは最高なんです。本来、密室劇にはあまり向いていない。それなのになぜ『ヘイトフル・エイト』を70ミリで? と不思議に思うかもしれない。
ところが仕上がった作品を見て、僕は分かったんです。デジタル撮影と違い、70ミリフィルムでの撮影はピントが合いにくい。例えば顔にピントを合わせると、奥がぼけぼけになる。だから肉眼で見たときとは全然違う空間として撮影できる。
しかもワンカットごとに照明も変えてある。するとあるときはイスが近くに見え、あるときは窓が遠くに見え、あるときは細部がすごくよく分かる......と空間に多様性が生まれ、ワンセットでやっているように見えないんですね。これが普通のデジタルカメラだったら、すぐに「どこを撮っても同じだな」ってなっちゃう。
【参考記事】ウォール街を出しぬいた4人の男たちの実話
1部屋のセットでも、ちょっとしたパーティションや廊下や中2階などの、凹凸があったほうが面白い。でもクエンティンが「死角は作りたくない」と言うので、美術面ではいろいろな手が使えなかった。本当は前菜が出て、スープが出て、お魚の次はお肉......ってやったほうがゴージャスで楽しめるが、今回は一杯のラーメンどんぶりの中にすべての宇宙がある(笑)、みたいなやり方だった。
彼は役者がリハーサルに入る前、スタッフをセットの外に出して、自分1人で演じてみるんです。ドアを開けて入ったり、歩数を数えたり、イスに座ってみたり。登場人物になりきって、あらゆるものをチェックしている。それで「種田を呼んでくれ。このテーブルはもうちょっと高くしたい」とか指示が来る。こだわりのラーメン屋の店主が、チャーシューの位置を直すといった風で、その修正は厳密で迷いがない。
――製作中の失敗や成功など、印象的な逸話はある?
いっぱいありすぎて話し切れないけれど......。例えば美術的なことではないが、ジェニファー・ジェイソン・リーが弾いていたギターを壊しちゃった件。
1800年代の貴重なアンティークだということは本人も、助監督も知っていた。彼女はそれでずっと練習していて、本番では彼女が歌い終わったら「カット」、カットしたら別のギターに変えて壊すという段取りになっていた。でも監督がそれを知らなくて、「カット」の声を掛けなかった。だから(アンティークであることも、段取りも知らなかった)カート・ラッセルが芝居を続けて、ギターを奪って壊した。ジェニファーが「ぎゃー」と叫んだのは、本物のリアクションだった。
「壊しちゃった!!」と彼女が大騒ぎしたから、クエンティンとカートは「何?」「なんで教えないんだよ」ってなったらしく......。みんなで破片をひろい集めて、そこにサインして博物館に寄贈し、「『ヘイトフル・エイト』で壊された本物のギター」として展示されることになったそうです。
――撮影現場にはしょっちゅう足を運んだのか。
たいてい朝に現場に行き、撮影が始まるのを見届ける。今回はシチュエーションが少ないが、それでもクエンティン組は次から次に解決すべき課題が生じるから。なんといっても監督が完璧主義だし、妥協するタイプじゃない。
それでいうとクエンティンは、21世紀のコンピュータに管理された映画の世界に、ドン・キホーテのように立ち向かっていると思う。そんなクエンティンの意気に感じ、僕たちも図面はすべて手描きで描いた。今はみんなコンピュータで描くのが普通だけど。すたれていく技術をあえて使うことで映画に人間の息吹を与え、次世代に伝えようということだと思う。
――そのあたりは共感する?
彼も僕も原体験が一緒で、昔の映画が好きだから話は合う。あうんの呼吸でいく部分もある。僕がセルジオ・レオーネ監督の『ウエスタン』の場面写真を美術の提案に使ったら、「その映画はフィルムで持っているから、うちの試写室で一緒に観ようぜ」と言われて。映画を一緒に観ることも打ち合わせになる。
彼が経営しているフィルム上映の名画座で『モロッコ』を観た時は、「途中でこういうショットが出てくるから、観ておいてくれ」と言われて、「じゃあ、あの感じでやろう」と話し合った。でもそれで作った棚は最終的に、「邪魔だな」ってはずしてしまった。『モロッコ』を観たことは忘れちゃったみたいに(笑)。
――美術監督の仕事はどの段階が楽しいのか。また大変な点は?
僕の場合は脚本を読んでスケッチを書き、それを基にセットデザイナーと図面を起こし、模型に組み立てていく、その間がいちばんわくわくするんだ。子供のときのおもちゃ遊びみたいな感覚かな。
監督も巻き込んで、その模型の中でイスの位置を変えたり、光をいじったりしながらやっていく。それが「映画ごっこ」みたいで、そのときがいちばん楽しい。
監督やカメラマンが実際にセットに入り、不具合が起こるときが大変だ。了解を得て作ったセットだが、現実には「これがあると撮りづらい。代わりの物を考えて」という話が必ず出てくる。明日からカメラが入って、リハーサルが始まるというようなタイミングであまり時間もない。そこでおもちゃ遊びから、現実に引き戻される(笑)。
さらに役者がそろったところで、「ちょっとあそこを変えたい」みたいな話も出てくる。ブルース・ダンは背が高いからテーブルの高さも変えようとかね。綿密にやってきたつもりでも微妙な食い違いが出てくる。美術監督にとっては撮影が始まればゴールだけど、そのゴール間近のところが一番きついかもしれない。
だからこそ、ライティングの終わったセットに役者が入り、撮影が始まると心からほっとする。そしてまた別の遊びに夢中になりたいと思うんだ。
大橋 希(本誌記者)