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<震災から5年・被災者は今(1)> 義母と補償金を親族に奪われて

ニューズウィーク日本版 2016年3月2日 16時30分

 東日本大震災とその後に発生した福島第一原発事故から今月11日で5年を迎える。

 東京電力福島第一原発は5年前、津波に襲われて電源を喪失し、未曾有の原発事故を引き起こした。容赦なく襲った放射能汚染で、大勢の周辺住民が避難民となり、現在でも9万8700人が一時帰宅を除いて自宅に戻ることができていない。

 筆者は、事故直後の被災地に米軍と共に入った。後に「トモダチ作戦」と呼ばれる救援活動の事前調査に投入された米軍の先遣隊に密着取材するためだ。以降5年間にわたり、福島を中心に何度となく被災地に足を運んできた。

 仕事や住まいを奪われて二度と故郷に戻ることができない農家や、東京電力の関連企業で原発の作業に従事し使い捨てられた被災者、地元出身の東京電力社員、事故後の原発に入って働いた作業員、除染作業員、被災者を受け入れてきた周辺地域の住民など、原発事故に翻弄され続ける多くの人々から話を聞いた。

 震災5年を前に、2回に分けて、2人の被災者の現状をリポートする。原発事故によって、被災者の人生は、それ以前には想像すらしなかった方向へと変化した。被災者にとってこの5年はどのような年月だったのか、そして今、どんな現実に直面しているのか。

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 本田和子(51、仮名)は、原発から北東の内陸に25キロほど離れた福島県浪江町で、酪農を生業として暮らしていた。夫と2人の息子、そして当時83歳だった義母と、地味だがとりたてて不満もない生活を送っていた。

 近所にコンビニもないような、緑に囲まれた田舎町である。近所づきあいは親密で、隣人らと畑を共有して野菜を育てているほどだった。牛の世話をするのが中心の毎日の生活の中で、その畑で作業をするのが本田にとっての数少ない楽しみの1つだったという。

 そんな生活は2011年3月11日以降、完全に一変した。

 2016年2月に2年ぶりに本田を訪れた。まだ福島県北部にある仮設住宅に暮らしている本田は現在、思いもよらなかった事態に苛まれていた。原発事故に関して支払われた補償金をめぐり、親族内で揉め事が起きているという。それは5年経った今、多くの被災者が直面している苦悩の1つだ。

仮設住宅でひとりになった本田は今訴訟の準備をしている(2016年1月22日、撮影:郡山総一郎)

 5年前の3月11日、息子2人は仕事に出ており、自宅には本田と夫、そして義母がいた。大地震に襲われ、さらにその後の原発事故によって、家族は避難を余儀なくされた。避難直前に近距離に暮らす親戚たちが集まってきたため、親戚らと一緒に自宅を離れることになった。だが夫は牛を捨て置けないと自宅に残った。

 その日が自宅で暮らした最後となった。本田は当初いわき市の親戚宅に向かい、しばらく滞在したのちに、避難所だった二本松市の体育館に入った。

 夫も結局、行政の指導で浪江を離れ、別の避難所に入った。息子たちもそれぞれ別の避難所へ一時身を寄せた。家族は連絡を取り合いながらも、バラバラに数カ月を過ごし、そして2011年6月になって、やっと皆がそろって福島県内の仮設住宅に入居することになったのだった。

 本田は当時の心境をこう述懐する。「仮設でみんな一緒になったからよかったけど、これまでの生活を捨て、さすがにこれからどうして生きていけばいいのかと不安でした。いつまで仮設に住むのか、私たちはどこに向かっているのか、何も分からないんですから」

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 本田は仮設住宅に入った当日のことを今でもはっきりと覚えている。家族そろって完成したばかりの仮設の一軒に荷物を運び、それから夫と2人で仮設住宅の敷地内をゆっくりと見て歩いた。そして部屋に戻ると、夫(当時57歳)はこう言った。「ここは俺の住むとこでない。他に行くところはないけど、ここには住みたくない。やっぱり浪江(自宅)に帰りたい」

 しかし自由に自宅に帰ることが許されなかった彼らにとって、当初、仮設住宅に入る以外の選択肢はなかった。そして予想通り、仮設住宅の生活は想像以上に過酷だった。長屋形式でプレハブ作りの仮設住宅は、玄関を入るとすぐに3畳ほどの狭いキッチン・ダイニングがある。そしてその奥には4畳半ほどの部屋が3つある。それ以外には、トイレとお風呂場がある簡素なつくりだ。

 本田がもっともストレスを感じたのは、仮設住宅の壁の薄さだ。「隣の家の会話も聞こえるほどで、こちらもかなり物音に気を使いながらの生活になった」。それまでの生活とは一変したのだから、神経をすり減らしたのも無理はない。

 加えて、「ホームシック」が本田を苦しめた。仮設住宅はアスファルトの上に置かれた灰色で無機的な建物で、どこを見てもアスファルトの地面が目に飛び込んでくる。昔の隣人たちとも連絡がつき、時々電話でやり取りをして情報交換するようになったが、そうなると自然に囲まれた自宅が余計に恋しくなった。

浪江町の住民は原発事故後に避難したまま自宅には戻れなくなった(2011年5月22日、撮影:郡山総一郎)

 それは夫も一緒だったようだ。仮設に入ってしばらくすると、夫は肝臓を壊し、原発事故発生当時まで控えていた酒を再び飲み始めるようになった。

 牛舎のある自宅には自由に戻れず、体調もすぐれなかったために、牛は他の業者に売ってしまうより他なかった。突然仕事を失い、今後の見通しが全く見えてこない状況で、毎日何をしていいのかも分からない。新聞などでニュースをチェックし、仮設住宅のコミュニティセンターで行政の連絡を確認するだけ。いつも冗談ばかり言っていた夫は所在無げにテレビを見て過ごすことが増えていった。

 特に年齢が高い個人事業主や自営業者にとって、すべてを失った後で一から生活を立て直すのは容易ではない。夫が飲む酒の量は増え、朝から晩まで飲むのが日常になった。それがよくないことだと分かりながらも、本田も、むげに止めることはできなかった。

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 そんな生活が続いたある日、夫は体調不良を訴える。あっという間に意識を失い、痙攣を起こし、救急車で病院に緊急搬送された。アルコールが原因の肝不全に陥り、結局、そのままこの世を去った。2012年12月のことだった。本田は言う。「夫が亡くなってから、ますます孤独に感じるようになったし、自宅に戻りたいという思いも強くなりました」

 一方その翌年秋に、日本政府はそれまで目指してきた「全員帰還」の方針を覆し、移住を促す方向に政策転換した。そのかわりに、補償金を一括で支払うと発表。本田の自宅は帰還困難区域にあったため、浪江の自宅には二度と帰還できないことが決定的になった。

 その後、同じ仮設住宅内にある単身用の別棟に引っ越していた息子たちもそれぞれ新たな住まいを見つけ、散り散りになった。本田にとって、嫁入りしてから30年以上ともに暮らしてきた義母の存在が唯一、心の支えになったという。

 だが今回著者が仮設を訪れた際、本田は義母とも別々の暮らしを強いられていた。というのも、東京近郊に暮らす義理の姉たちが突然、義母の面倒を見ると言い出し、連れ出したからだ。

 背景にあるのは賠償金の存在だ。2015年、被災者に対する賠償金の支払いは、一括支払いなどで多くが終了した。被災者の受け取れる賠償金が確定しつつあると知った義姉たちが、それをきっかけに積極的に本田に接触してくるようになった。

 本田は「義姉たちの目的は賠償金なのです」と嘆く。義姉たちはたびたび仮設を訪れ、原発事故によって東電から出た見舞金や賠償金が振り込まれている義母の銀行通帳を差し出すよう、義母と本田に求めた。さらに避難した自宅の土地についても、義姉の名義に変えるよう要求している。

 義母には、他の帰還困難区域に暮らしていた人たちと同じように、補償金が1540万円支払われている。それに加えて、自宅の賠償金として500万ほどが支払われていたという。

 義母を引き取った義姉たちは、結局、東京近郊にある自分たちの自宅に義母を住まわせることはなく、2015年12月に福島県内の介護施設に義母を入居させた。そして義姉らは、施設に本田と面会させないよう指示した。長年一緒に暮らし、義母とともに酪農に精を出してきた本田は、「会いに行っても面会すらできない状況が続いている」と言う。その一方で介護施設の入居金などは、請求書が本田のところに郵送され、彼女がすべてを支払っている。

 今、本田は、別の親戚などからアドバイスを受けて、義姉らに対する訴訟を準備している。弁護士と相談しながら、義母が自分の意思を自由に語れるようにしたいと考えている。

 被災地では、こうした話は珍しいことではない。同じような補償金をめぐる親族内の揉めごとは、他の被災者からも耳にした。本田のようなケースは、災害発生から5年後に被災者が直面する、悲しい現実の1つだ。

<震災から5年・被災者は今(2)> 原発作業で浴びた放射線への不安

[リポート]
山田敏弘
ジャーナリスト。講談社、ロイター通信社、ニューズウィーク日本版などで勤務後、米マサチューセッツ工科大学(MIT)でフルブライト研究員として国際情勢の研究・取材活動に従事。訳書に『黒いワールドカップ』(講談社)など、著書に『モンスター 暗躍する次のアルカイダ』(中央公論新社)、『ハリウッド検視ファイル トーマス野口の遺言』(新潮社)。

[写真]
郡山総一郎
1971年生まれ。写真家。2001年から写真家として活動し、「FRIDAY」「週刊文春」「AERA」「Le Monde」「Esquire」など国内外の媒体で写真を発表している。写真集に「FUKUSHIMA×フクシマ×福島」など。第7回上野彦馬賞グランプリ受賞。
(ウェブサイト、インスタグラム)

山田敏弘(ジャーナリスト)

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