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<震災から5年・被災者は今(2)> 原発作業で浴びた放射線への不安

ニューズウィーク日本版 2016年3月3日 10時50分

 3.11の東日本大震災とその後に発生した福島第一原子力発電所の事故から2016年で5年になる。震災5年を迎えた被災者の現状をリポートするシリーズ、2回目の今回取り上げるのは、福島第一原発で事故直後に長時間作業に従事した男性エンジニア、中川浩一(44、仮名)にとっての「震災から5年」だ。避難解除準備区域にあった自宅から避難していたこの男性は最近、中通り(福島県中部)に家を新築したばかりだ。

 中川は原発事故以降、毎年欠かさず健康診断を受けている。そして体に異変が見つかっている。それが原発事故にどう関係しているのかは、本人も、診断する医師ですら分からない。だが中川が震災発生当時、原発で直面した状況は、現在の体の異変に放射線の影響があるのではないかと疑わざるを得ないものだった。

 2011年3月11日午後2時46分、東京電力関連の企業に勤めていた中川は、福島第一原発での仕事を終え、敷地内にある免震重要棟の間にある駐車場にいた。その時に激しい揺れを感じた。「建物の窓があちこちで割れ落ちた。あまりの揺れに私自身も身動きが取れず、何も考えられなかった」と、中川は振り返る。

 中川は原発内の電気システムをメンテナンスするチームのリーダーとして働いていた。大きな揺れが静まると、彼はチームのメンバーに建物内へ入り待機するよう指示した。すぐに原発は津波に襲われ、電源を喪失し、全域が停電に陥った。

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 すると免震棟で中川は東電社員から声を掛けられた。敷地外での作業が必要になるから、「やってくれないか」と仕事を頼まれたのだ。地震と津波という緊急事態に、東電から仕事を請け負ってきた企業の人間として、今後の仕事を考えても東電社員の要求を断ることはできなかったという。午後5時前には、電力の復旧作業を行うために免震棟を出た。

 原子炉建屋のそばで、地震で出た瓦礫や電源用のケーブルなどを修復し、その作業は午前3時ごろまで続いた。

 作業を終えて免震棟に戻ると、雰囲気が一変していた。緊張感が漂い、「原子炉の熱が急上昇している」「放射線量がどんどん上がっている」という話があちこちから聞こえ始めていた。中川も免震棟内にいればとにかく放射線は防げると考えており、そこにとどまっていようと考えた。

中川はもう原発の仕事はしたくないと言う(2016年1月21日、撮影:郡山総一郎)

 建物内の空いたスペースで少し寝てから、自宅の妻に何度も電話をかけたが、なかなかつながらない。何十回目かにやっと連絡がつくと、中川は妻に、とにかくすぐに荷物をまとめて、3人の子供と年配の母を連れて遠くに逃げるよう告げた。それからしばらくして、1号機が水素爆発する。「免震棟にいたのですが、すさまじい爆音で、また地震が来たのかと思った。恐ろしくて、私もパニックになった」と、中川は言う。「みんなが、すべての原子炉が爆発すると騒ぎだした。私はタイミングを見て、チームのメンバーと一緒に車に飛び乗って原発を離れた」

 一旦原発から離れ、誰もいない自宅に戻って冷静になってみると、暴走している原発の状況をどうにかできるのは、これまでそこで働いてきた自分たちしかいないという思いに駆られた。そもそも原発がなければ自分たちの仕事は存在しない。そんな時に、上司から電話を受けた。「会社が今の給料の10倍を出すという言葉もあって、翌日に原発周辺の復旧作業に加わることを決めた」と、中川は言う。

 中川は13日から、第一原発のすぐそばにある変電所などで電源の復旧といった作業に参加した。だが最初の2日間はタイベック(防護服)も身に付けず、普通の作業服での作業だった。今考えるとあまりに無防備に思えるし、本人も漠然とした不安はあったが、それでも「大丈夫だろう」とも考えていた。

 そんな状況で最悪の事態が起きる。14日に、3号機が水素爆発したのだ。

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 中川はこう振り返る。「ボーンという音で爆発が起きて、すぐ目の前でピンク色のキノコ雲が立ち上るのを見た。さすがにやばいと思った」。自分が普通の作業着に、風邪の時につけるようなマスクをしているだけだということに、ハッと気がついた。しかも浴びた放射線量を管理する線量計も装着しないまま作業を行っていた。

 だがその後も、現場を離れることはままならず、変電所の床で寝て、1週間の作業を続けた。3日目くらいからは、きちんとタイベックを着るようになった。そして1週間後、中川は作業を終え、家族が身を寄せる避難所に合流した。「今考えるとあの1週間、とんでもない場所にいたと今さらながら思う」と、中川は言う。「無謀だったとしか言えない」

 それでも、再び上司からの仕事の復帰要請があり、事故の1カ月後である4月から4カ月間ほど、原発の敷地外で働くことを条件に復旧作業に戻った。その頃にはAPD(警報付きポケット線量計)を必ず装着した。だが8月以降は、原発とは関係ない仕事に転職した。

海岸越しに事故から1カ月後の福島第一原発の姿が見える(2011年4月21日、撮影:郡山総一郎)

 この4年ほど、中川は電気関連の企業でエンジニアの仕事をしている。もう原発関連の仕事には携わりたくないのだという。

 2012年12月の取材で中川は、「いま健康診断で再検査の対象になって、精密検査することになっている」と、筆者に話していた。2011年の事故後から毎年健康診断を欠かさないようにしたが、検査で初めて異常が見つかったのだ。

 再検査の結果、医師からは、甲状腺に「嚢胞(液体の溜まった袋状のもの)がある」と告げられた。だが深刻ではなく、経過観察でいいと診断されて中川は安堵した。もちろん、彼が無防備に浴びた放射線と、この嚢胞との因果関係は分からない。

 しかしその後の検査では、ただ嚢胞があるだけでなく、「複数の嚢胞がある」と診断された。そして2013年からは嚢胞が「多発している」と医師から告げられている。中川は、急速にその数が増えていることに不安を感じているが、嚢胞はまだ小さいので経過観察でいいと診断されているという。

 一般人よりも多くの放射線を浴びていることは間違いない。ただそれが自分の健康にどのように影響しているのかさえ分からない。何も影響はないのかもしれない。自身の健康状態に気を揉みながら、中川は震災から5年を迎えようとしていた。

 彼は現在、避難解除地域にある実家を捨て、家族と一緒に中通りに居を移した。賠償金で自宅の新築をまかなうことができ、やっと肩の荷が下りたという。「避難解除準備区域にある実家に、除染もしたし線量も低くなっているから帰れますと今言われても、もう戻ることはできない。スーパーはないし病院もない。私のように子供のいる家庭は学校もないから戻れない」と中川は言う。

 そして最後にこう言って相好を崩した。「子供たちも今の学校に慣れている。それが一番の心配事だった。やっと生活が落ち着いてきたと実感しているから、ひと段落といったところですね。健康についても、あまり考えなくていいようにしたいけどね」

<震災から5年・被災者は今(1)> 義母と補償金を親族に奪われて

[リポート]
山田敏弘
ジャーナリスト。講談社、ロイター通信社、ニューズウィーク日本版などで勤務後、米マサチューセッツ工科大学(MIT)でフルブライト研究員として国際情勢の研究・取材活動に従事。訳書に『黒いワールドカップ』(講談社)など、著書に『モンスター 暗躍する次のアルカイダ』(中央公論新社)、『ハリウッド検視ファイル トーマス野口の遺言』(新潮社)。

[写真]
郡山総一郎
1971年生まれ。写真家。2001年から写真家として活動し、「FRIDAY」「週刊文春」「AERA」「Le Monde」「Esquire」など国内外の媒体で写真を発表している。写真集に「FUKUSHIMA×フクシマ×福島」など。第7回上野彦馬賞グランプリ受賞。
(ウェブサイト、インスタグラム)

山田敏弘(ジャーナリスト)

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