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脱北少女は中国で「奴隷」となり、やがて韓国で「人権問題の顔」となった

ニューズウィーク日本版 2016年3月3日 16時12分

 『生きるための選択――少女は13歳のとき、脱北することを決意して川を渡った』(パク・ヨンミ著、満園真木訳、辰巳出版)は、北朝鮮で生まれ育った著者が13歳で脱北し、さまざまな障害を乗り越えながら韓国にたどり着くまでの軌跡をつづったノンフィクション。「北朝鮮」「中国」「韓国」と、著者の移動経緯に基づく三部構成となっている。

 たったいま「障害を乗り越えながら」と書いたが、そんな表現が陳腐に思えるくらい、著者が向き合ってきた北朝鮮の現実は壮絶だ。

 北朝鮮では、国家の命令に背いたらどうなるかを知らしめる見せしめの手段として、公開処刑が行なわれる。私が幼いころ、恵山の市場の裏で、若い男性が牛を殺して食べた罪で公開処刑された。(中略)町じゅうに処刑が告知され、男性は市場に連れてこられて、太い丸太に胸と膝と足首を縛りつけられた。自動小銃を持った三人の処刑人が男性の前に立ち、撃ちはじめた。(中略)死体が転がされて袋に入れられ、トラックの荷台に積まれて運び去られるのを(中略)衝撃とともに見守った。(中略)自分の国で、人の命が動物より価値が低いというのが信じられなかった。犬でももう少し丁重に扱ってもらえるのに、と。(75~76ページより)

【参考記事】北朝鮮、悪名高き公開処刑の「極秘プロセス」

 このような描写が少なくないので、読み進めるほど気持ちはおのずと淀んでいく。しかしそれが北朝鮮の現実なのだし、救いになっているのは家族の強い絆だ。中国国境に近い北朝鮮の恵山(ヘサン)で、父親を中心に暮らす著者の家族の、温かい関係が描かれているのだ。どれだけ貧しくてもつらくても、いや、だからこそ家族の絆が強くなるのだということを実感させてくれる。

 ただし、その暮らしぶりを活字で追っていると、時間軸が乱れてくるような感覚に陥るのも事実だ。「一日一食しか食べられずにひもじいときもあるのも、普通のことだと思っていた」というような記述に触れると、無意識のうちに終戦直後の日本の過程をイメージしてしまうのだが、これは1990年代前半の話なのだ。

 当時の日本はといえば、バブルが崩壊し、「安いから」ということで謎のモツ鍋ブームが起こった時代だ。あのころは「日本ってヘンな国だなー」とか思いながら鍋をつついていたものだが、彼の地はそれどころではなかったのである。

 しかし、そんななかでも、著者は明るく育っていく。だから文脈の端々から、負けん気の強さや、子どもならではの純粋な強さが伝わってくる。ところが残念なことに、やがて一家は離散状態になってしまう。生活を支えるために「副業」としての闇商売をはじめた父親が逮捕され、「労働教化所」へ送られたからだ。

 働き手がいなくなれば、その影響が家族に及ぶのは当然だろう。ただでさえ苦しい生活はさらに苦しくなり、結果的に13歳だった著者は、母との脱北を決意する(一足先に出て行った姉を探したいという思いもあった)。

【参考記事】北朝鮮の「女性虐待」にいよいよメスが入るか

 かくして第二部では中国での話になるのだが、そこで脱北者が直面したのはブローカーに自由を奪われ、農家の嫁として売られるために生きる奴隷のような生活だった。

 ブローカーたちはみなレイプ魔のギャングであり、たくさんの女性が本当にひどい目にあっていた。ある二十五歳くらいの女性は、脱北の際に橋の上から凍った川に飛びおりたため、長春に着いたときには、腰から下を動かせなくなっていた。彼女の話によれば、ジーファンはそれでも彼女をレイプした。(中略)でも悲しいことに、彼女のようなケースはたくさんあったし、もっとひどいケースもあった。(190ページより)

 著者もまた複数のブローカーに管理され、しかし13歳だということからギリギリのところで危機を逃れる(ある時期までは)。ちなみに印象的なのは、ホンウェイというブローカーだ。他の男たちと同じく、ときには暴力的なふるまいをするのだが、著者に人身売買の商売を手伝わせたり、ばらばらになった家族を見つけて保護するなど、悪人になりきれないブレを見せるのである。

 私はまだホンウェイを憎んでいたが、それでも一緒に暮らすことには慣れた。彼は最初のうちはきつい態度だったが、時間がたつごとにやさしくなり、しだいに私を尊重し、信頼し、彼なりに私を愛するようになっていった。(183ページより)

 著者の人間性がなにかを感じさせたのかもしれない。とはいえハッピーエンドが訪れるはずもなく、ホンウェイの仕事を手伝う過程で再会した父親を癌で亡くし、ホンウェイもギャンブルで身を滅ぼすことになる。著者と母親が死を覚悟してモンゴルに逃げたのは、そうした状況から逃れ、韓国にたどり着きたいという理由があったからだ。

 ここから先の展開は、ジェットコースターのように爽快だ。いくつかの障害こそあったものの、それを乗り越えた著者はスポンジのような吸収力で多くを学び、2012年にはソウルの東国大学への進学まで実現させてしまうのである。それまで表に出しようがなかった可能性が、一気に開花したのだ。

 そしてさらに大きな契機となったのは、テレビ番組で脱北体験を語ったことがきっかけとなり、ソウルのインターナショナル・スクールでスピーチを行なったこと。その後にインタビューや講演の依頼が増え、「北朝鮮の人権問題の顔」と呼ばれるようになるのである。

 韓国警察の担当刑事から電話がかかってきたのはそのころだった。(中略)刑事は私の安否をたしかめるよう指示されたという。私が北朝鮮政府に監視されているという情報が入ったからだ。刑事はその情報をどうやって手に入れたかは教えてくれず、ただ発言には気をつけろと言った。危険だからと。(308ページより)

 北朝鮮政府が著者を脅威とみなし、脅そうとしたことは驚きである一方、充分に予想できたことでもある。いずれにしても、そんなことで怯むことなく、著者はいまも世界を飛びまわり活躍しているという。今年で23歳になる女の子の半生としてはあまりに濃密だが、ここまで読み進めてようやく、読者の眼前にも光が差し込むことになるわけである。

 私たちの多くは、北朝鮮についてそれ相応のことは知っているつもりになっているだろう。しかし、現実は想像をはるかに超えているということを本書は教えてくれる。でも、それ以上に私たちがここから受け止めるべきは、どんな苦境をもはねのける、人間本来の力だ。

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『生きるための選択――
 少女は13歳のとき、脱北することを決意して川を渡った』
 パク・ヨンミ 著
 満園真木 訳
 辰巳出版


[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。書評家、ライター。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に、「ライフハッカー[日本版]」「Suzie」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、多方面で活躍中。2月26日に新刊『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)を上梓。


印南敦史(書評家、ライター)

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