2011年3月11日の「あの日」から5年の月日が経ちました。震災の時点では、私はアメリカにおりましたが、アメリカからこの枠を通じて、様々な議論を続けた一方、航空便の行き来が再開されて間もなくの被災地にうかがって、より真剣なディスカッションに参加したりもしました。
それから5年の月日が流れました。ですが、現状に関しては「こんなはずではなかった」という思いが消えません。未曾有の自然災害が国土に発生したというのは、国の、あるいは社会のあり方について「根本から考え直し」の機会であり、また「根本から考え直す」ことなくしては、真の復興はあり得ないと思うのです。
ですが、5年という時間の中で、そのような「考え直し」は起きませんでした。「こんなはずではなかった」というのは、そんな意味です。
まず、エネルギー政策の問題があります。福島第一原発における全電源喪失事故、その結果としての冷却失敗による1号機から3号機の原子炉事故、そしていまだに真相が分からない4号機における水素爆発事故は、原子力エネルギー利用に対する「考え直し」の機会でした。
ですが、結果的に「エネルギー源の多様化」という問題について、社会的な合意は確立していません。事故へのリアクションとして「目に見えない放射線への本能的な忌避感情」が起きたのは必然だとしても、資源小国である日本、また温暖化への対策を推進しなくてはならない日本として、原発依存は減らすにしても、どこまで減らすのかという問題については、厳しい議論が必要だったと思います。
【参考記事】<震災から5年・被災者は今(1)> 義母と補償金を親族に奪われて
議論が進まなかったのには、偶然ですが、その必要性がやわらいだということもあります。原発稼働を停止したことで、一時的に化石燃料の輸入が激増したことに加えて、自国通貨の価値を低める政策が発動されていたわけですが、その痛みを大きく緩和するだけの世界的なエネルギーコストの低下に助けられたからです。
では、それで経済には追い風になったのかというと、そうではなく、電力コストの不安定を嫌って海外に流出する産業は後を断ちません。そんな中、事故から5年の直前になって、裁判所の命令で、高浜3号機では臨界を迎えたばかりの「熱々の燃料棒」を停止して冷却するという不安定で電力を食うような措置がされるなど、原子力エネルギーをめぐる問題は迷走を続けています。
防潮堤の問題もそうです。甚大な津波被害を受けた沿岸部には、巨大堤防を作ってコミュニティを残す選択、高台移転をするかわりに堤防は簡素化して沿岸の自然を観光資源として再生するという選択もありました。ですが、多くの場所で、「巨大防潮堤」が建設される一方、高台移転も当初計画ほどには進んでいないようです。
そんな中、「10メートル級」という巨大防潮堤が、沿岸部ではその姿を現しつつありますが、「人間が閉じ込められているようだ」とか「劇画『進撃の巨人』に出てくる壁を思い出す」といった感想も出ているようです。当然ですが、そのような感想が出てくるということは、「リアス海岸の自然」という観光資源が消滅したことを示しています。結果として、流出した人口の戻りは鈍くなる可能性が濃厚です。
震災の直後に、「ルネサス・エレクトロニクス」の工場が被災して半導体の生産がストップしたことで、多くの自動車メーカーが「支援」に駆けつけたのが「美談」とされました。ですが、その後、同社の経営状態は行き詰まってしまい、現在では、規模も経営形態も震災前とはまったく別の姿となっています。
ルネサスはどうして行き詰まったのでしょう? その生産能力が欠けては、世界の大手の自動車メーカーが困るほどの独自技術を持っていながら、下請けに甘んじることで、価格決定のイニシアティブが取れないことが原因でした。ですが、以降の5年間で、同様の問題は日本経済を揺さぶり続けたのです。弁解の余地はないにしても、タカタの問題には同様の構図があります。またシャープの誤算は、独自技術さえあれば部品産業として延命できるという「甘い見通し」を続けたからでした。
【参考原稿】<震災から5年・被災者は今(2)> 原発作業で浴びた放射線への不安
原発、防潮堤、下請け部品産業、一見するとバラバラの問題に見えますが、一つの共通点があります。それは、現代の日本が「全体としての最適解」に到達しにくい社会だということです。
原発の問題では賛成論と反対論が向き合って冷静な「考え直し」の議論をする仕組みは、このような事故を経験したにもかかわらず成立しませんでした。防潮堤については、賛成も反対も不明確なまま、既成事実として巨大堤防が地域の景観を激変させてしまっています。
エレクトロニクス産業の「下請け化・困窮化」は、産業全体が世界の消費者と乖離してしまった結果ですが、個々がバラバラのサバイバルゲームを戦う中では、それが「最適解ではない」という「考え直し」をする余裕もないまま、追い詰められてしまっています。
あの日から「5年」の節目にあたって、「こんなはずではなかった」という思いがどうしても消せないでいます。
それから5年の月日が流れました。ですが、現状に関しては「こんなはずではなかった」という思いが消えません。未曾有の自然災害が国土に発生したというのは、国の、あるいは社会のあり方について「根本から考え直し」の機会であり、また「根本から考え直す」ことなくしては、真の復興はあり得ないと思うのです。
ですが、5年という時間の中で、そのような「考え直し」は起きませんでした。「こんなはずではなかった」というのは、そんな意味です。
まず、エネルギー政策の問題があります。福島第一原発における全電源喪失事故、その結果としての冷却失敗による1号機から3号機の原子炉事故、そしていまだに真相が分からない4号機における水素爆発事故は、原子力エネルギー利用に対する「考え直し」の機会でした。
ですが、結果的に「エネルギー源の多様化」という問題について、社会的な合意は確立していません。事故へのリアクションとして「目に見えない放射線への本能的な忌避感情」が起きたのは必然だとしても、資源小国である日本、また温暖化への対策を推進しなくてはならない日本として、原発依存は減らすにしても、どこまで減らすのかという問題については、厳しい議論が必要だったと思います。
【参考記事】<震災から5年・被災者は今(1)> 義母と補償金を親族に奪われて
議論が進まなかったのには、偶然ですが、その必要性がやわらいだということもあります。原発稼働を停止したことで、一時的に化石燃料の輸入が激増したことに加えて、自国通貨の価値を低める政策が発動されていたわけですが、その痛みを大きく緩和するだけの世界的なエネルギーコストの低下に助けられたからです。
では、それで経済には追い風になったのかというと、そうではなく、電力コストの不安定を嫌って海外に流出する産業は後を断ちません。そんな中、事故から5年の直前になって、裁判所の命令で、高浜3号機では臨界を迎えたばかりの「熱々の燃料棒」を停止して冷却するという不安定で電力を食うような措置がされるなど、原子力エネルギーをめぐる問題は迷走を続けています。
防潮堤の問題もそうです。甚大な津波被害を受けた沿岸部には、巨大堤防を作ってコミュニティを残す選択、高台移転をするかわりに堤防は簡素化して沿岸の自然を観光資源として再生するという選択もありました。ですが、多くの場所で、「巨大防潮堤」が建設される一方、高台移転も当初計画ほどには進んでいないようです。
そんな中、「10メートル級」という巨大防潮堤が、沿岸部ではその姿を現しつつありますが、「人間が閉じ込められているようだ」とか「劇画『進撃の巨人』に出てくる壁を思い出す」といった感想も出ているようです。当然ですが、そのような感想が出てくるということは、「リアス海岸の自然」という観光資源が消滅したことを示しています。結果として、流出した人口の戻りは鈍くなる可能性が濃厚です。
震災の直後に、「ルネサス・エレクトロニクス」の工場が被災して半導体の生産がストップしたことで、多くの自動車メーカーが「支援」に駆けつけたのが「美談」とされました。ですが、その後、同社の経営状態は行き詰まってしまい、現在では、規模も経営形態も震災前とはまったく別の姿となっています。
ルネサスはどうして行き詰まったのでしょう? その生産能力が欠けては、世界の大手の自動車メーカーが困るほどの独自技術を持っていながら、下請けに甘んじることで、価格決定のイニシアティブが取れないことが原因でした。ですが、以降の5年間で、同様の問題は日本経済を揺さぶり続けたのです。弁解の余地はないにしても、タカタの問題には同様の構図があります。またシャープの誤算は、独自技術さえあれば部品産業として延命できるという「甘い見通し」を続けたからでした。
【参考原稿】<震災から5年・被災者は今(2)> 原発作業で浴びた放射線への不安
原発、防潮堤、下請け部品産業、一見するとバラバラの問題に見えますが、一つの共通点があります。それは、現代の日本が「全体としての最適解」に到達しにくい社会だということです。
原発の問題では賛成論と反対論が向き合って冷静な「考え直し」の議論をする仕組みは、このような事故を経験したにもかかわらず成立しませんでした。防潮堤については、賛成も反対も不明確なまま、既成事実として巨大堤防が地域の景観を激変させてしまっています。
エレクトロニクス産業の「下請け化・困窮化」は、産業全体が世界の消費者と乖離してしまった結果ですが、個々がバラバラのサバイバルゲームを戦う中では、それが「最適解ではない」という「考え直し」をする余裕もないまま、追い詰められてしまっています。
あの日から「5年」の節目にあたって、「こんなはずではなかった」という思いがどうしても消せないでいます。