Infoseek 楽天

エジプト・イタリア人学生殺害事件を巡る深刻 - 酒井啓子 中東徒然日記

ニューズウィーク日本版 2016年3月15日 11時30分

 3月、卒業の時期になるといつも思い起こすエジプト映画がある。名監督ユースフ・シャヒーンの1999年の作品、「他者」だ。冒頭、亡くなる4年前のエドワード・サイード本人が登場する。氏が教鞭をとっていた米コロンビア大学のキャンパスで、卒業して本国に戻る若きエジプト人とアルジェリア人の学生に、贈る言葉を投げかける。「共存、他者との共存を忘れてはいけない」。

 故郷に戻った学生たちは、2人ともテロの凶弾に倒れる。アルジェリアの若者はジャーナリストになって内戦下で命を落とし、そして主人公のエジプト人青年は...。

 ここから先はネタバレになるので書かないが、何故この時期に思い出すかというと、手塩にかけた学生の命を奪われるようなことは、サイードだってきっと耐えられない痛みだろうなあ、と思うからだ。教え子たちがその正義感、理想を追求する過程で、国内で、海外で不幸な事故、事件に巻き込まれる。中東研究や中東報道を目指す若者は、特に危険と背中合わせだ。

 この2月、ケンブリッジ大学博士課程で学んでいたイタリア人の若者が、エジプトで遺体となって発見された。エジプトの労働運動、特に行商人たちの労働環境を研究するため、カイロのアメリカン大学で客員研究員として滞在していた学生だ。行商人といえば、チュニジアで2010年12月に起きた「ジャスミン革命」は、ワーキングプアの違法行商人が焼身自殺したことから始まった。イタリア人学生がエジプトの労働運動に関心を持ったのは、「ジャスミン革命」から続いて起きた「アラブの春」に惹かれてのことだろう。エジプトで反ムバーラク運動が一気に盛り上がった1月25日の大規模デモから5年、彼は記念の集まりを観察するつもりだった。

 それが、突然行方不明になった。1週間後、彼は遺体となって道路わきで発見された。警察は否定しているが、虐待と拷問のあとが見える、痛ましい姿だった。警察に拉致され、拷問されたあげく殺されたのだ、との見方が有力となった。昨年末、労働組合の集会に参加したとき、知らないうちに写真を取られていたらしい。彼自身、そのことをとても気持ち悪く思っていた。

 外国人メディアや研究者が、政府の知られたくないことを嗅ぎまわることを徹底的に嫌うのは、今のエジプト政府に限ったことではない。フセイン政権時代のイラクや内戦前のシリアなど、独裁政権下で研究や調査をするのは、至難の技だ。何もしていなくてもスパイ扱いされて国外追放や投獄、暗殺されることは、珍しくない。イタリア人学生の奇禍も、近年エジプト政府が外国人やメディアへのスパイ嫌疑を強めていたなかで、起きた。

 教え子を無残に殺された教師、大学はどれだけ怒り、苦しんでいるだろう。ケンブリッジ大学は、1週間もたたずエジプト政府に抗議し真相究明を求める書簡を発出した。在英の学者たち4600人が、署名した。筆者の親しい友人たちの名前も、いくつも並んでいる。

 イタリア人学生が在籍したカイロ・アメリカン大学でも、追悼と抗議の集会が開催された。彼の指導教官だったエジプト人女性教授は、はっきりと「これは殺人だ」と非難した。だが会場には、大学の対応を生ぬるく思った参加者が掲げたのだろう、「イタリア人学生が殺されたのは氷山の一角だ、大学は守ってくれやしない」と書かれた垂れ幕が吊るされた。

 2013年の軍事クーデタ後、エジプトのシーシ政権は「アラブの春」以前の独裁と比べても、人権抑圧が激しいと伝えられている。外国人研究者だけではない。エジプト人ジャーナリストや活動家も次々に逮捕、投獄されて問題視されている。アメリカの中東研究者の間でも、「今後エジプトとの研究協力関係を見直さなければならないのでは」という声が上がり始めている。

 ここが、中東研究で常に悩ましいところだ。政府の非人道性、抑圧性を糾弾して面と向かって糾弾すれば、その国での調査許可は下りなくなる。それを避けて政府を刺激しないような研究しかしなければ、御用研究に成り下がる。しかし調査許可がおりなくても結構、という態度を貫けば、その国についての研究はおろそかにされ、情報も知識も蓄積されない。あげく、その国に対する外交政策で大きな間違いを犯すことになる。13年間接触をもたなかった結果、十分な知識もないまま戦争をしかけて、目論見違いの連続で失敗した、アメリカの対イラク政策がいい例だ。危険だから、許しがたい相手だから研究するな、では解決にならない。

 筆者もまた、イタリア人学生同様、かつてカイロ・アメリカン大学で客員研究員を務めていた。そのとき、大ベテランのアメリカ人教授、シンシア・ネルソン女史が話してくれたことが印象に残っている。その当時、90年代後半だったが、若手のエジプト人研究者が平気でイスラエルとの学術交流やアメリカの財団からの援助を受けることを公言していたことに、苦言を呈してのことだ。「私がカイロ・アメリカン大学に赴任して長い間、アラブ・ナショナリズムの激しい糾弾に会い続けてきたのよ。1960年代、ナセルは、アメリカン大学をアメリカの手先だ、イスラエルの協力者だと、疑いの目で見ていた。だからこそ、そうじゃないことを繰り返し繰り返し、強調しなければならなかったの。そんな苦労を知っている私からみれば、簡単にイスラエルだの米財団だの口にするのは、アメリカン大学や欧米の研究者の置かれた危うい立場が、わかっていない」。

「大学は守ってくれない」と嘆く学生を、どう守っていけるか。今も海外で活躍する元教え子の顔をひとりひとり思い浮かべながら、どうか無事で、でもひるまず頑張れ、と思う卒業シーズンである。

この記事の関連ニュース