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【再録】昭和天皇インタビューを私はいかにして実現したか

ニューズウィーク日本版 2016年3月23日 15時51分


ニューズウィーク日本版 創刊30周年 ウェブ特別企画
1986年に創刊した「ニューズウィーク日本版」はこれまで、政治、経済から映画、アート、スポーツまで、さまざまな人物に話を聞いてきました。このたび創刊30周年の特別企画として、過去に掲載したインタビュー記事の中から厳選した8本を再録します(貴重な取材を勝ち取った記者の回顧録もいくつか掲載)。 ※記事中の肩書はすべて当時のもの。


※この記者によるインタビュー記事はこちら:【再録】1975年、たった一度の昭和天皇単独インタビュー


 1962年にニューズウィーク特派員として日本の地を踏んで以来、昭和天皇とのインタビューを実現することが私の目標だった。

 その後、私は代々の首相をはじめ、日本の多くの著名人とインタビューを重ねたが、天皇に会うチャンスには恵まれなかった。そこで74年、日本に関する知識を総動員して、「不可能」を可能にする戦略を立てた。

 日本では、好ましい方向で合意を得るには根回しも重要だということを、私は学んでいた。

 75年10月に天皇が訪米するという記事を読んで、私は天皇とのインタビューにつながる道を見いだした。訪米を成功させなければ、という思いが日本中で高まる時期こそインタビューのチャンスだ。天皇は以前訪欧した際、反対デモにあっていた。

「好ましい方向で合意を得る」ため、私はそれから半年間、多くの官僚や政治家に会い、説得を試みた。天皇のインタビューがニューズウィークに載れば、世界中のエリートや大衆の目に触れるので、天皇の人間性をアピールし、人気と敬意を勝ち取るうえで役立つと説いたのだ。

 他の報道機関から競争相手が現れるのを避けるため、私と会ったことを口外しないよう、全員に求めた。ほとんど誰もが、私の意見は名案だと思うが進言する立場にはないと語った。私は、意見を求められたら反対だけはしないでほしいと頼んだ。

 主要閣僚にも会った。福田赳夫副総理は、ニューヨーク・タイムズ紙やタイム誌との合同インタビューを提案したが、私は反論した。ニューヨーク・タイムズは日刊紙なので、速報性の点でかなわない。それに、アメリカの新聞は主に一つの都市でしか読まれないし、魚を包むのにも使われる。タイムのほうは、東京特派員が着任して日が浅い。

 宮沢喜一外相からは、インタビューに反対している官僚はいるかと聞かれた。外務省の黒田瑞夫情報文化局長だけが、私の考えを厚かましいと言っていると答えると、宮沢は「なんとかしよう」と言った。宮沢は訪米随行団から黒田をはずし、前局長の藤山楢一大使と交代させた。

 6月には私の願いがかなう方向で合意が成立していたが、最終決定は9月まで待つよう言われた。天皇の訪米は、75年9月30日〜10月14日の予定だった。

 だがその後、問題が発生した。宮沢によると、宮内庁の宇佐美毅長官が、ニューズウィークの取材には同意したものの、私ではなく編集長がインタビューしてはどうかと言っているという。

 数年前に私が書いた記事がまずかったらしい。外国ではほとんど知られていない日本の実力者を取り上げた記事だ。その中で私は宇佐美を「陰の天皇」と紹介した。これが彼の気に障ったようだった。

 私は約15年にわたって日本に関する正しい情報を世界に伝えてきたと、宮沢に主張した。日本が天皇インタビューから私をはずすなら、他の国への異動を願い出ると言った。

締め切りを1日延ばして

 宮沢は、宇佐美をなだめる方法を見つけてはどうかと言った。

 そこで私は、宇佐美に近い2人の人物の助けを求めることにした。1人は木村俊夫。前外相で宇佐美の親戚だ。木村は、私がインタビューして書いた記事を気に入ってくれて、娘の結婚式にも招いてくれた。

 私は、宮内庁の湯川盛夫式部官長も知っていた。日産の広報担当だった湯川の息子とはしょっちゅう会っていた。私と妻は、知り合いの政治家の娘と彼の見合いを画策したこともあった。

 木村と湯川は、宇佐美へのとりなしを引き受けてくれた。おかげで、宇佐美は私に対する反対を撤回。9月前半、インタビュー許可の知らせが届いた。

 このプロジェクトは、妻と私のアシスタント、ニューズウィーク本社の国際ニュース担当エドワード・クライン以外には秘密だった。ワシントン・ポスト紙とオフィスが同じだったので、同紙のドン・オーバードーファー記者にテレックスを見られることを考え、エドとの連絡では天皇を示す暗号として「農民」という言葉を使った。

 インタビューの日時は、9月20日土曜日の午前11時に決まった。天皇がアメリカに出発する10日前だ。翌週月曜日には、米ジャーナリスト二十数人による合同記者会見が予定されていた。

 取材日が土曜日に設定されたのは、外務省の誰かがニューズウィークだけの特ダネにならないようにと配慮した結果だろう。通常のスケジュールでは記事の締め切りは金曜日なので、土曜日に記事を書いたのでは、日本で翌週火曜日に発売される号には間に合わない。

 私はエドと相談し、天皇インタビューの分だけ締め切りを延ばしてもらい、翌週発売号に掲載できるようにした。

 テープレコーダーの使用は、大きすぎて邪魔だという理由で却下された。だが私は、ソニー製の小型レコーダーの試作品を入手。目障りにならないよう、天皇と私の椅子の下に置いてもいいという許可を取りつけた。

 テープ起こしが終わるとテープは回収されたが、1年後に入江相政侍従長から返却された。訪米が「大成功だった」からだ。

 天皇と一緒のところを写真に撮りたいと言ったら、一緒に写真が撮れるのは国家元首だけだと言われた。

 そこで私は外務省の内田宏儀典長にかけ合った。写真がないと、実際に天皇に会ってインタビューしたのではなく、質問状に対する答えを天皇から文書で受け取ったのだと思われかねないと言ったのだ。

 その結果、皇室専属の写真家が撮影したフィルムを渡されることになった。私はそれを予約しておいたスタジオで現像し、新橋のKDD(国際電信電話株式会社)からニューヨークのRCA社に電送して、ニューズウィーク本社に届くように手配した。KDDの担当者は、写真を見ると起立してお辞儀した。

謙虚で控えめという印象

 インタビューの2日前、内田儀典長が私のオフィスを訪れ、とてもいい知らせがあると言った。当日は私の妻も宮内庁のお招きにあずかり、皇后も同席するという。私は帰宅後、妻の昭子にこの知らせを伝えた。

 昭子は「裏がある」のではないかと言った。自分が同席すれば、謁見のようになってしまう。予定の30分をフルに活用して中身の濃いインタビューをしてほしいという。「私は風邪だと伝えて」と、昭子は言った。

 インタビューの前日、私は運転手に土曜日の予定を告げた。休みだからと断られたので、天皇に会うので皇居まで送ってほしいと言った。それを聞いた運転手は驚いて、スーツを買いに行った。彼は散髪にも行き、午後はずっと車を磨いていた。

 インタビュー前夜、私は娘のデビーと息子のジョセフに、パパは明日、天皇にインタビューするんだと自慢した。だが、デビーの返事は「それがどうしたの?」。ジョセフも賛意を示すように、うなずいた。

 翌日の午前11時前、車は皇居に到着。そこから藤山大使の案内で、謁見室に向かった。

 ピンクのじゅうたんが敷かれた「石橋の間」には、入江侍従長と湯川式部官長、通訳担当の真崎秀樹が待っていた。私はテープレコーダーを自分と天皇の椅子の下に置くと、いったん退室して天皇のお出ましを待った。

 再び入室すると、天皇が出迎えてくれたので、とっさに手を差し伸べた。私は握手をしながら「こんなに興奮しているのは生まれて初めてです」と言った。天皇はにっこりと笑った。

 私たちは着席し、インタビューを始めた。私は事前に提出したリストとは質問の順序を変え、いくつか追加の問いを加えた。

 天皇はメモを持っていなかった。藤山によると、天皇は回答内容について側近のアドバイスを求めなかった。前日、私の質問を読み、じっくりと回答を考えていたという。最も強く印象に残っている回答は、常に憲法にのっとって行動してきたという言葉だ。

 インタビュー時間は30分のはずだったが、予定を過ぎても制止されなかった。私は32分経過した時点で自発的に打ち切った。

 その後、近くの部屋に場所を移し、藤山同席の下でテープを起こした。藤山は、見事なインタビューだったと言ってくれた。

 私は昭和天皇から、非常に謙虚で控えめな人物という印象を受けた。一部の外国人歴史家が主張するように、彼が第二次大戦の舞台裏で戦略家の役割を果たしたとは思えない。私の記憶に残る天皇は、日本きっての紳士だ。

[筆者]
バーナード・クリッシャー Bernard Krisher
31年ドイツ生まれ。41年アメリカに移住。62~80年、ニューズウィーク東京支局で特派員、支局長を務める。その後、東京でカンボジア支援にあたった。

※この記者によるインタビュー記事はこちら:【再録】1975年、たった一度の昭和天皇単独インタビュー

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[2006.2. 1号掲載]
バーナード・クリッシャー(元東京支局長)

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