ニューズウィーク日本版 創刊30周年 ウェブ特別企画
1986年に創刊した「ニューズウィーク日本版」はこれまで、政治、経済から映画、アート、スポーツまで、さまざまな人物に話を聞いてきました。このたび創刊30周年の特別企画として、過去に掲載したインタビュー記事の中から厳選した8本を再録します(貴重な取材を勝ち取った記者の回顧録もいくつか掲載)。 ※記事中の肩書はすべて当時のもの。
[インタビューの初出:2003年10月22日号]
夫やおなかの子を殺された花嫁のザ・ブライド(ユマ・サーマン)が、たった一人で復讐に乗り出す――お得意の暴力描写とマニアックな映画(とくに日本の時代劇)へのオマージュに満ちた『キル・ビル』は、クエンティン・タランティーノの久々の監督作品だった。2部作品となった『キル・ビル』の第1部公開時に、本誌映画担当デービッド・アンセンが率直な意見をぶつけた。
◇ ◇ ◇
――では、まず映画の冒頭から。オープニングで「クエンティン・タランティーノ監督第4作」という文字が映し出される。こういうことは過去に例がないのでは?
だろうね。
――あれは笑えたけど、心配にもなった。監督が自分を神格化しているような感じがしてしまう。
(笑いながら)そうかもね。
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――でも、映画そのものはとてもよかった。いろいろな映画のスタイルを取り入れている。
(撮影監督の)ボブ・リチャードソンには、「10分ごとに別々の映画みたいにしてくれ」と言っておいた。ある場面は往年のマカロニウエスタン風、別の場面は『座頭市』のような時代劇風、また別の場面はカンフー映画風、という具合にしたかったんだ。
映画に統一感をもたせるために一つのスタイルで貫くという必要性は感じなかった。
――「おいしいところ取り」をねらったということ?
そう、そう、そうなんだ。それは、僕の映画作りの哲学と言ってもいい。くだらないクズは切り捨てて、いいところだけ拾えばいい。何百万回も見せられたようなゴミはもういらない。
――といっても、その「いいところ」も、見覚えのあるものの再利用であることに変わりはない。
はい、はい、おっしゃるとおりです。でも、リサイクルするときにひねりを加えている。僕の視点で撮る以上、必然的に他に二つとないものになる。
――暴力表現に話題を移そう。私はこの映画の暴力描写を不快に感じていない。様式美が追求されているからだ。とはいえ、作品の中では大量の血が飛び散る。吹き出す血潮がモチーフと言ってもいい。
日本映画の伝統なんだ。日本人は、園芸用のホースみたいな太い血管をもってるんだ(笑)。
――いちばんすさまじいと思ったのは、病院の場面。見ていて、思わず座席から跳び上がりそうになった。意識を取り戻したザ・ブライドが、それまで看護師が男たちから金を取って植物状態の彼女とセックスをさせていたと知り、看護師の頭を繰り返し鉄の扉にガンガン打ちつける。
このほうが、人の腕を切り落とすよりバイオレントだからね。現実味があるぶん怖い。
いつも言っていることだけど、映画の中で誰かの首が切り落とされても、僕はぞっとしない。紙の端で指先を切って血が出るシーンのほうがよっぽど怖い。
――この病院の暴力シーンは『パルプ・フィクション』でサディストが登場人物をいたぶる場面を連想させる。
確か、あなたはあの場面が気に食わないと言っていたね。「本当の悪を描こうとしたこの場面だけは、薄っぺらで月並みな描写になってしまっている」というような文章で酷評していた。
――私よりよく覚えている。
(笑いながら)ああ、そういうタチなもんでね。
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――アクションシーンの話をしよう。この作品には、いくつか素晴らしいアクションシーンがある。終盤で、ユマ・サーマンが片っ端から敵をなぎ倒していく。この「青葉屋」の場面の最大の見せ場は、女子高校生用心棒のGOGO夕張(栗山千明)との対決だと思う。
ご説ごもっとも。僕もそう思うよ(笑)。
――いや、だから私が言いたかったのは、あんなシーンは今まで見たことがなかったということ。
あそこは、いちばん自信がある場面なんだ。ユマと千明に任せた部分も大きかった。2人ともうまくやってくれた。
――ただし、がっかりする場面もあった。一部の映画では、編集で切り張りしてアクションシーンをつくっているケースがある。最悪なのは『チャーリーズ・エンジェル』。言いたいことはわかる?
はい、はい、よーくわかる。
――断片の寄せ集めでしかない。要するにインチキなんだ。
うん、うん、うん。
――あなたの作品がそれと同じだとはいわないけれど、ある意味で同罪ともいえる。最近見たコーリー・ユン監督の『クローサー』は、しっかりした武術指導のもとで撮られたアクションシーンが素晴らしかった。
すごくいいらしいね。
――本当に目の前で人が動いているんじゃないかと錯覚しそうになる。そんな臨場感は『キル・ビル』よりも強く伝わってきた。『クローサー』のほうが少ないカットで撮っているからだ。
はい、はい。そうですかい。
――『キル・ビル』にも、そういう要素がもっと欲しかった。
僕としては、そういうふうに撮影したつもりなんだけどね。役者たちが一息で連続して演じられる限界まで、カメラを回し続けた。
――そう、そのとおりだ。あなたは俳優任せでこの作品を撮っている。実際、役者たちの仕事ぶりには感服する。
確かに映画は面白かったし、映画の作り方も素晴らしいと思った。でも、「クエンティンは退歩したんじゃないか」と思ってしまったことも事実だ。前作の『ジャッキー・ブラウン』とはまるで正反対の映画になっている。
うん、うん。いや、そのとおり。
――『ジャッキー・ブラウン』のときは、登場人物をもっとじっくり掘り下げて描いていた。あの映画で、あなたがひと皮むけたと感じた人も多かった。
それなのに、今回は元に戻ってしまった。意図的にそうしたのだろうが、登場人物の人間的な側面があまり描かれていないのは残念だった。
ああ。人間的な深みがあるというより、かっこいい登場人物に描いている。
――主人公のザ・ブライドは、生身の女性としての弱い部分も盛り込んだほうが、面白い作品になったのではないか。
そうは思わない。昏睡状態から目覚める場面で、弱さはたっぷり描いてある。これで、映画の最後まで引っ張っていける。
――『キル・ビル』は、とてもわかりやすい映画だ。それはこの作品のいいところである半面、私に言わせれば欠点でもある。「見せ場ばかりを寄せ集めた映画」という印象を受けた。
ああ、まさしくそのとおり、見せ場の連続だ。
――あなたの70年代映画への思い入れを投影しているという点ではきわめて個人的な映画だけれど、過去の作品のなかでは最もあなたの顔が見えないともいえる。
そんなことはまったくない。これは、僕の情熱の映画だ。
誰だって、自分の作品を発表するのは照れくさい。自分という人間をさらけ出すわけだからね。この映画でも、僕は自分の情熱をすべて表に出すことはしていない。でも、それは見えないところにしっかり隠れている。
はっきり言えるのは、僕が映画館で観客として『キル・ビル』を見たら、ほかの映画を見たいという気はもう起きないだろうということ。極上のセックスやドラッグみたいに感じると思う。「もうあの娘以外とは寝る気になれない」「またあのクスリでハイになりたい」というふうにね。
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[2006.2. 1号掲載]