パナマ文書には張高麗(チャイナ・セブン党内序列ナンバー7)の娘婿・李聖溌がオフショア会社3社を所有しているとある。張高麗の関与がどれくらいあるのかを考察する。中国の恐るべき金権政治の世界が見えてくる。
(チャイナ・セブンとは「習近平政権における中共中央政治局常務委員会委員7名」を簡略化していうために筆者が命名した呼称。なお、本稿では肩書を明示する必要に迫られた場合以外は全て敬称を省略する)
張高麗、出世への道――江沢民の愛護を受けるきっかけ
1946年、福建省晋江(しんこう)市で生まれた張高麗は、1970年から1984年まで石油部「広東茂名(もめい)石油公司」におり、言うならば「石油閥」の一人である。広東省茂名市党委員会の副書記や広東省副省長などを経て、1997年に広東省深セン市(中国共産党委員会)書記になるなど、ひたすら広東で31年間にわたって仕事をしてきた地味な前半生だった。
しかしこれが出世のきっかけを作ったのだから、人の運命はわからないものである。
2000年2月、国家主席だった江沢民が広東省茂名市に来て、ここで「三つの代表」論を初めて公開した。
「三つの代表」論は「中国共産党は無産階級(プロレタリアート)の先鋒隊を代表する」という伝統的な中国共産党理論を真っ向から否定するものであり、「有産階級(資本家階級)を入党させる」という「金持ちと権威」を結び付けるものとして、北京では保守派長老や伝統を守ろうとする党員たちから激しい反対を受けていた。
そこで江沢民はこの「三つの代表」の最初の意思表明を、北京から遠い改革開放発祥の地、広東省に来て、しかも本丸の「深セン市」を避けて、ちょっと離れた「茂名市」で行なおうとしたのである。
この選択によって張高麗の運命が決まる。
このとき広東省の副書記をしていたのは張高麗。深セン市の書記でもあり、特に茂名市には70年から85年まで15年間もいた。したがって江沢民の「三つの代表」講話の主たるお膳立てと接待はすべて張高麗が担った。
張高麗はすっかり江沢民に気に入られ、やがて山東省書記、天津市書記へと、出世階段を上っていくが、そこには後半で述べる李嘉誠との関係が絡んでいる。
張高麗と習近平の関係――これも「深セン市」
習近平との関係において決定的だったのは「深セン市」。
習近平の両親は、習仲勲の政界引退後の80年代末、風光明媚な広東省の珠海市に住もうと決めていた。ところが珠海市の書記は、そこは一等地だとして、当時はまだ田舎だった深センに習近平の両親を追いやった(詳細は『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』)。
習近平はその頃まだ無名で、福建省寧徳市の副書記などをしており、どこにでもいる普通の地方幹部に過ぎなかった。
97年から深セン市の党委書記となった張高麗は、深セン迎賓館に習仲勲夫妻が住んでいることを知ると、早速自宅を訪問し、「なにかご不便なことがあったら、なんでも申し付けていただきたい」と挨拶に行っている。春節や中秋節など、季節の折々にも必ず習仲勲夫妻のもとを訪れ、何くれとなく世話をした。
習近平が出世するかどうか分からない時期に、すでに政界を引退している習仲勲に敬意を表して足しげく訪れた張高麗を習近平は非常に信頼し感謝したため、張高麗の現在の地位があるという側面も否めない。
なんとも「美談」に見える。
ところが――、張高麗には別の顔があった。
張高麗と娘婿・李聖溌との「金権関係」
張高麗は妻との間に子供に恵まれず、父方のいとこが70年代にフィリピンで他界したので、その娘・張暁燕(ちょう・ぎょうえん)を引き取って養女として育てた。1989年になってようやく男の子が生まれはしたが、張高麗は養女の張暁燕を可愛がっている。やがて彼女が年頃になった1997年、張高麗は張暁燕を香港商人で同郷(隣り村)の李賢義の息子・李聖溌(り・せいはつ)と結婚させた。
1952年生まれの李賢義は、貧乏から逃れるために香港に渡り、ゼロからたたき上げてそれなりの成功を収めていた。1989年には、深センに「信義集団有限公司」を設立している。自動車の窓ガラスを中心として成長し、香港の大陸への返還が実現しそうだという「政治の風」を読み取り、深センに渡る。香港商人として大陸に進出したのだ。
そして香港の大陸返還が実現した1997年、張高麗は深セン市の書記に赴任してきた。
このときには、李賢義の工場は37万平方メートルに広さ、累計資金10億元、2000人の社員を抱える大企業に発展していた。車のガラスだけでなく、ビルのガラス窓のガラスや防弾ガラスなども生産し、「ガラス大王」と呼ばれるようになっていた。
深セン市の書記と深セン市の大企業のオーナーが接触を持つのに時間はかからなかった。同郷のよしみが加わり、結婚は一瞬で決まった。
金と権力。まさに金権関係による婚姻だ。中国では「官商婚姻」と言っている。
香港の中国返還に伴う香港商人への優遇策という大きな流れの商機を、二人は見逃さなかった。
ここから江沢民を巻き込んだ闇の世界が広がり始める。
華人としての世界最大の資産家・李嘉誠を仲介として
小さいころに福建や広東から香港へと逃れた華人華僑は多く、中でも有名なのが李嘉誠(り・かしん)だ。彼は1928年に広東省潮州市に生まれたが、1940年、香港へと逃れた。香港フラワーと呼ばれた造花で大成功し、その後、香港最大の企業グループ長江実業を創設している。華人としては世界最大の資産家だったが、最近ではアリババの馬雲(ジャック・マー)や大連万達(ワンダー)集団の王健林などが頭角を現し、やや陰りが見えてきた。しかし当時は絶大な財力を誇っていた。
香港で成功した大陸生まれの商人の一人として、張高麗の娘婿の父親・李賢義は、李嘉誠とも仲がいい。そこで李嘉誠を張高麗に引き合わせ、張高麗はすぐさま李嘉誠を江沢民に引き合わせた。
江沢民が喜んだこと、喜んだこと!
李嘉誠は、江沢民の息子・江綿恒の「中国網絡(ネットワーク)通信集団公司」に500億元を投資した。すると江沢民はそのお礼に、北京の王府井(ワンフージン)周辺にある一等地を李嘉誠に提供し、「東方広場」なる巨大な商店の地を提供している。お蔭で昔の情緒豊かな「汚い」王府井は姿を消してしまった。その陰には張高麗がいたのである。
パナマ文書に名前が載るまで
江沢民と李嘉誠を結びつけたキューピットが娘婿・李聖溌の父親・李賢義だとすれば、パナマ文書に名前が載るまでに李聖溌を成長させたのは張高麗であるということができよう。
張高麗は江沢民の覚えめでたく、2001年に山東省の副書記に、2002年11月には書記に昇進。2007年に天津市の書記に抜擢されている。
それに伴って、娘婿の李聖溌は香港に17社もの上場企業を持つに至り、不動産業に手を付け始めたので、父子が得た莫大な利益は尋常ではなく、フォーブスの中国富豪ランキングに名前が載ったほどである。
李聖溌は、張高麗が李嘉誠と江沢民を結びつけたことから、李嘉誠から投資を受けるようになり、2001年に「匯科(かいか)系統」というIT関係の会社を共同で深センに設立した(李嘉誠側が70%の株)。
しかし2008年になると、「匯科系統」の株の70%を「信義科技集団」の董事長になっていた李聖溌が持つようになり、同時に李聖溌は「匯科系統」の董事長にもなった。さらに「民潤」というスーパーマーケットのチェーン店を運営するようになる。
「匯科系統」にしても「信義科技集団」にしてもコンピュータのソフトウェア関係を主たる製品として生産するだけでなく販売、サービス分野においてもマーケットをつかんでいたため、李聖溌は総合的なハイテク科学産業で活躍する存在となっていく。
張高麗と江沢民が背後にいれば、怖いものなし。
張高麗が天津市書記として力を発揮するにつれ、信義科技集団の顧客は個人から「中共公安系列」へとシフトしていき、「公安情報化と監視カメラ」「人相識別技術」「バックグラウンド・チェックシステム(学歴の真偽、犯罪歴の有無、過去の就職先における問題発生の有無などをチェックするために入力されているソフト。身分証番号を入れると一瞬で出てくるようになっている)」「ネット上の作戦シミュレーション」「財富(財産)分析システム(腐敗問題における犯罪摘発のため)」など、数多くのソフト開発を行うようになった。
これらのソフトは、「公安、武装警察、軍隊、金融、石油、飛行場、監獄、電力、通信、学校のキャンパス」など、非常に広範な領域をカバーするに至る。
残念ながら、自らの会社が開発した「財富分析システム」は、自分自身の情報を入力しない「特殊な」システムになっていたのだろうか。
このたびパナマ文書によって、タックスヘイブンに少なくとも3社ものオフショア会社を持っていることが明らかになった。
チャイナ・セブンのうち、3人もの最高指導層の名前がひっかかり、そのうち劉雲山と張高麗は、詳細に見れば見るほど「アウト!」だという実態が浮かび上がってくる。
反腐敗を叫び党紀粛正をアピールすることによって人民の求心力を何とかつなぎとめようとしてきた習近平政権だが、これまで説明してきた部分だけでも、いかに一党支配体制の危機が迫っているかが見えてくる。
そこに広がっているのは、金権政治の巨大な闇だ。
中国のネット空間でパナマ文書が厳しい規制を受けているのも、当然のことだろう。
[執筆者]
遠藤 誉
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など著書多数。近著に『毛沢東 日本軍と共謀した男』(新潮新書)
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
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遠藤誉(東京福祉大学国際交流センター長)
(チャイナ・セブンとは「習近平政権における中共中央政治局常務委員会委員7名」を簡略化していうために筆者が命名した呼称。なお、本稿では肩書を明示する必要に迫られた場合以外は全て敬称を省略する)
張高麗、出世への道――江沢民の愛護を受けるきっかけ
1946年、福建省晋江(しんこう)市で生まれた張高麗は、1970年から1984年まで石油部「広東茂名(もめい)石油公司」におり、言うならば「石油閥」の一人である。広東省茂名市党委員会の副書記や広東省副省長などを経て、1997年に広東省深セン市(中国共産党委員会)書記になるなど、ひたすら広東で31年間にわたって仕事をしてきた地味な前半生だった。
しかしこれが出世のきっかけを作ったのだから、人の運命はわからないものである。
2000年2月、国家主席だった江沢民が広東省茂名市に来て、ここで「三つの代表」論を初めて公開した。
「三つの代表」論は「中国共産党は無産階級(プロレタリアート)の先鋒隊を代表する」という伝統的な中国共産党理論を真っ向から否定するものであり、「有産階級(資本家階級)を入党させる」という「金持ちと権威」を結び付けるものとして、北京では保守派長老や伝統を守ろうとする党員たちから激しい反対を受けていた。
そこで江沢民はこの「三つの代表」の最初の意思表明を、北京から遠い改革開放発祥の地、広東省に来て、しかも本丸の「深セン市」を避けて、ちょっと離れた「茂名市」で行なおうとしたのである。
この選択によって張高麗の運命が決まる。
このとき広東省の副書記をしていたのは張高麗。深セン市の書記でもあり、特に茂名市には70年から85年まで15年間もいた。したがって江沢民の「三つの代表」講話の主たるお膳立てと接待はすべて張高麗が担った。
張高麗はすっかり江沢民に気に入られ、やがて山東省書記、天津市書記へと、出世階段を上っていくが、そこには後半で述べる李嘉誠との関係が絡んでいる。
張高麗と習近平の関係――これも「深セン市」
習近平との関係において決定的だったのは「深セン市」。
習近平の両親は、習仲勲の政界引退後の80年代末、風光明媚な広東省の珠海市に住もうと決めていた。ところが珠海市の書記は、そこは一等地だとして、当時はまだ田舎だった深センに習近平の両親を追いやった(詳細は『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』)。
習近平はその頃まだ無名で、福建省寧徳市の副書記などをしており、どこにでもいる普通の地方幹部に過ぎなかった。
97年から深セン市の党委書記となった張高麗は、深セン迎賓館に習仲勲夫妻が住んでいることを知ると、早速自宅を訪問し、「なにかご不便なことがあったら、なんでも申し付けていただきたい」と挨拶に行っている。春節や中秋節など、季節の折々にも必ず習仲勲夫妻のもとを訪れ、何くれとなく世話をした。
習近平が出世するかどうか分からない時期に、すでに政界を引退している習仲勲に敬意を表して足しげく訪れた張高麗を習近平は非常に信頼し感謝したため、張高麗の現在の地位があるという側面も否めない。
なんとも「美談」に見える。
ところが――、張高麗には別の顔があった。
張高麗と娘婿・李聖溌との「金権関係」
張高麗は妻との間に子供に恵まれず、父方のいとこが70年代にフィリピンで他界したので、その娘・張暁燕(ちょう・ぎょうえん)を引き取って養女として育てた。1989年になってようやく男の子が生まれはしたが、張高麗は養女の張暁燕を可愛がっている。やがて彼女が年頃になった1997年、張高麗は張暁燕を香港商人で同郷(隣り村)の李賢義の息子・李聖溌(り・せいはつ)と結婚させた。
1952年生まれの李賢義は、貧乏から逃れるために香港に渡り、ゼロからたたき上げてそれなりの成功を収めていた。1989年には、深センに「信義集団有限公司」を設立している。自動車の窓ガラスを中心として成長し、香港の大陸への返還が実現しそうだという「政治の風」を読み取り、深センに渡る。香港商人として大陸に進出したのだ。
そして香港の大陸返還が実現した1997年、張高麗は深セン市の書記に赴任してきた。
このときには、李賢義の工場は37万平方メートルに広さ、累計資金10億元、2000人の社員を抱える大企業に発展していた。車のガラスだけでなく、ビルのガラス窓のガラスや防弾ガラスなども生産し、「ガラス大王」と呼ばれるようになっていた。
深セン市の書記と深セン市の大企業のオーナーが接触を持つのに時間はかからなかった。同郷のよしみが加わり、結婚は一瞬で決まった。
金と権力。まさに金権関係による婚姻だ。中国では「官商婚姻」と言っている。
香港の中国返還に伴う香港商人への優遇策という大きな流れの商機を、二人は見逃さなかった。
ここから江沢民を巻き込んだ闇の世界が広がり始める。
華人としての世界最大の資産家・李嘉誠を仲介として
小さいころに福建や広東から香港へと逃れた華人華僑は多く、中でも有名なのが李嘉誠(り・かしん)だ。彼は1928年に広東省潮州市に生まれたが、1940年、香港へと逃れた。香港フラワーと呼ばれた造花で大成功し、その後、香港最大の企業グループ長江実業を創設している。華人としては世界最大の資産家だったが、最近ではアリババの馬雲(ジャック・マー)や大連万達(ワンダー)集団の王健林などが頭角を現し、やや陰りが見えてきた。しかし当時は絶大な財力を誇っていた。
香港で成功した大陸生まれの商人の一人として、張高麗の娘婿の父親・李賢義は、李嘉誠とも仲がいい。そこで李嘉誠を張高麗に引き合わせ、張高麗はすぐさま李嘉誠を江沢民に引き合わせた。
江沢民が喜んだこと、喜んだこと!
李嘉誠は、江沢民の息子・江綿恒の「中国網絡(ネットワーク)通信集団公司」に500億元を投資した。すると江沢民はそのお礼に、北京の王府井(ワンフージン)周辺にある一等地を李嘉誠に提供し、「東方広場」なる巨大な商店の地を提供している。お蔭で昔の情緒豊かな「汚い」王府井は姿を消してしまった。その陰には張高麗がいたのである。
パナマ文書に名前が載るまで
江沢民と李嘉誠を結びつけたキューピットが娘婿・李聖溌の父親・李賢義だとすれば、パナマ文書に名前が載るまでに李聖溌を成長させたのは張高麗であるということができよう。
張高麗は江沢民の覚えめでたく、2001年に山東省の副書記に、2002年11月には書記に昇進。2007年に天津市の書記に抜擢されている。
それに伴って、娘婿の李聖溌は香港に17社もの上場企業を持つに至り、不動産業に手を付け始めたので、父子が得た莫大な利益は尋常ではなく、フォーブスの中国富豪ランキングに名前が載ったほどである。
李聖溌は、張高麗が李嘉誠と江沢民を結びつけたことから、李嘉誠から投資を受けるようになり、2001年に「匯科(かいか)系統」というIT関係の会社を共同で深センに設立した(李嘉誠側が70%の株)。
しかし2008年になると、「匯科系統」の株の70%を「信義科技集団」の董事長になっていた李聖溌が持つようになり、同時に李聖溌は「匯科系統」の董事長にもなった。さらに「民潤」というスーパーマーケットのチェーン店を運営するようになる。
「匯科系統」にしても「信義科技集団」にしてもコンピュータのソフトウェア関係を主たる製品として生産するだけでなく販売、サービス分野においてもマーケットをつかんでいたため、李聖溌は総合的なハイテク科学産業で活躍する存在となっていく。
張高麗と江沢民が背後にいれば、怖いものなし。
張高麗が天津市書記として力を発揮するにつれ、信義科技集団の顧客は個人から「中共公安系列」へとシフトしていき、「公安情報化と監視カメラ」「人相識別技術」「バックグラウンド・チェックシステム(学歴の真偽、犯罪歴の有無、過去の就職先における問題発生の有無などをチェックするために入力されているソフト。身分証番号を入れると一瞬で出てくるようになっている)」「ネット上の作戦シミュレーション」「財富(財産)分析システム(腐敗問題における犯罪摘発のため)」など、数多くのソフト開発を行うようになった。
これらのソフトは、「公安、武装警察、軍隊、金融、石油、飛行場、監獄、電力、通信、学校のキャンパス」など、非常に広範な領域をカバーするに至る。
残念ながら、自らの会社が開発した「財富分析システム」は、自分自身の情報を入力しない「特殊な」システムになっていたのだろうか。
このたびパナマ文書によって、タックスヘイブンに少なくとも3社ものオフショア会社を持っていることが明らかになった。
チャイナ・セブンのうち、3人もの最高指導層の名前がひっかかり、そのうち劉雲山と張高麗は、詳細に見れば見るほど「アウト!」だという実態が浮かび上がってくる。
反腐敗を叫び党紀粛正をアピールすることによって人民の求心力を何とかつなぎとめようとしてきた習近平政権だが、これまで説明してきた部分だけでも、いかに一党支配体制の危機が迫っているかが見えてくる。
そこに広がっているのは、金権政治の巨大な闇だ。
中国のネット空間でパナマ文書が厳しい規制を受けているのも、当然のことだろう。
[執筆者]
遠藤 誉
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など著書多数。近著に『毛沢東 日本軍と共謀した男』(新潮新書)
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
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遠藤誉(東京福祉大学国際交流センター長)