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難民に苦痛を強いるレバノンの本音

ニューズウィーク日本版 2016年4月11日 18時0分

 冬ともなれば雪が山も平地も覆い尽くすレバノン東部のベカー平原。荒天の日には何だって吹き飛ばされる。仮設の小屋に暮らし、空き家や未完成の建物に身を寄せるシリア難民にとって、冬はとりわけ過酷な季節だ。

「嵐になれば水が染み込んでくるし、テント全体が揺れる。その音を子供たちが怖がる」。ベカー平原の街ザーレにある非公式難民キャンプで暮らすミンワル・ハレド・アブスルタン(43)が嘆く。彼は妻と子供7人を連れシリア中部のハマから避難してきた。「また嵐が来たら屋根が落ちるな。雪が屋根に積もるし、使ってる木材は古い。今でもギシギシ鳴ってる」

 レバノンの非公式難民キャンプで暮らすアブスルタンのようなシリア人は20万を超える。大半が木やビニールシート、波形トタンなどを寄せ集めた仮設のシェルターに住む。内戦を逃れた人々が増え始めてから何回かの冬の間、彼らは雨風をしのぐだけの住まいで洪水にも厳寒にも耐えてきた。

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 もっといいシェルターを建てられたなら、もっといいシェルターがレバノンで活動する国際NGO(非政府組織)から与えられたなら、少しは彼らの苦しみも和らぐだろう。しかし狭いレバノンの難民受け入れ能力には限りがあるし、そもそも国民の多くは新たな難民の定住を望んでいない。

 レバノンが直面する難民危機の規模は深刻だ。レバノンの人口は約400万だが、既に100万人以上のシリア難民を受け入れている。難民流入は国の経済を圧迫する。財政に余裕がないから、難民の生存権を認めて受け入れ国に一定の責任を課す51年の国連難民条約にも、レバノンは加盟していない。

 レバノン政府は、国連機関が難民の定住キャンプを建設することを認めていない。そのため多くの難民が自力でシェルターを建てたり、仮住まいの場所を見つけたりしている。

 こうした急場しのぎのシェルターで過ごす冬は命の危険さえある。昨年1月には東部の都市バアルベク郊外で、3人の子の母親が凍死。同月、やはり東部の難民キャンプで10歳の女の子も死亡している。14年の凍死者には、生後間もない赤ん坊2人が含まれる。1人は国境の町アルサル近くの寒いテントで生まれ、肺炎にかかって3日後に命を落とした。

警戒される住居の資材

「私たちは限定的な援助しか許されていない」と、レバノン社会問題省でシェルターのまとめ役を務めるアフマド・カセンは言う。「私たちができるのは、仮住まい用の建設資材を手渡すことくらいだ。非公式のキャンプでは、コンクリートの建物は許されていない。コンクリートブロックを配る権限は、私たちにはない」



 永住可能な住居の建設を認めないというルールは、いかなる難民支援団体にも適用されている。地元の民間団体でも国際NGOでも、国連機関でも同じだ。

 シリア内戦以前からレバノンで活動しているデンマーク難民評議会は13年、「ボックス・シェルター」を考案した。基礎にコンクリート、壁には木材を使用したもので、各地で増加中のベニア板やシートの小屋よりも少しは暮らしやすいと思われる簡易シェルターだ。

 しかしレバノン政府は、難民に定住への道を開くという理由でその使用を禁じてしまった。

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 この規則に少しでも違反すると当局が嗅ぎつけてくる。例えば3年半前に家族とシリアのホムスからやって来た女性ファティマ(67)のケースだ。「(嵐の際に)小屋に水が入ってこないよう、外側にコンクリートのブロックを置いた。でも去年の洪水では水がブロックを越えて流れ込んだ」と彼女は言う。

 最初に置いたブロックに新たなブロックを積むと、兵士が来て「そんなに石を積んでいいと誰が言った?」と言われ、やむなく彼女はブロックを取り除いた。今は、雨が降ると砂利を詰めた袋を積んで、どうにか水の浸入を防いでいるという。 

 もっとましなシェルターを提供する試みもあった。13年には国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)がスウェーデンの大手家具メーカー、イケアと協力し、居心地がよくて見た目も惨めではなく、どんな天候からも難民を守れるシェルターを考案した。運搬も簡単で4時間ほどで組み立てられ、屋根にはソーラーパネルが付いていた。

 イケア・ファウンデーションが資金を出し、ベター・シェルターという団体がデザインした。「テントでは1年ほどしか持たないし、雪が降ると困る。長持ちするシェルターを提供したかった」とベター・シェルターのデザインチームを率いるジョハン・カールソンは言う。

 レバノンの冬は厳しい。昨年の冬、ベカー平原では気温が氷点下15度まで下がった。UNHCRのシェルターなら、暑さだけでなく寒さにも耐えられる。ドアには鍵も付いているので女性も安全に暮らせるはずだ。

難民が定住しては困る

 14年2月、レバノン政府は北部のハルバで新しいシェルターの試用を許可した。しかし、プロジェクト開始後すぐに地元の人たちから抗議の声が上がった。「地元のNGOと協力してプロジェクトを進めたが、地元民からNGOに苦情が来た」とUNHCRの広報担当のデーナ・スレイマンは言う。



 イケアのシェルターは恒久的な建物に見えたので嫌われた、と彼女は言う。シリア人が定住してしまうことを、地元の人たちは恐れているのだ。

 ハルバでの試用は中断したが、UNHCRはくじけず、別の場所で試した。「次にレバノン山脈地域で試みたが、また反対された。結局、レバノンの社会問題省と協議の末、計画は中止と決まった」とスレイマンは言う。7つのシェルターは梱包され、スウェーデンに送り返された。

 難民が定住することをレバノン人が心配するのには歴史的な理由がある。1948年のイスラエル建国の際、土地を追い出されたり、戦闘から逃れたりした10万人近いパレスチナ人がレバノンに入り、各地に難民キャンプを建てた。

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 それからの数十年間、パレスチナの武装勢力の間で緊張が高まり、その多くはレバノンを対イスラエル戦の基地としたので、レバノンのキリスト教徒のグループはパレスチナ人の存在に反感を持つようになった。

 パレスチナ人勢力は75年から90年まで続いたレバノン内戦でも主役の1つだった。現在では、国内の難民キャンプに50万人以上のパレスチナ人が住む。住居はコンクリートや石でできていて、周辺の家々と変わりなく、いつまでも住めそうに見える。

「これらのキャンプも最初はテントだったが、やがて家になった。今でも『キャンプ』と呼んではいるが、実態はもうキャンプとはいえない」と社会問題省のカセンは言う。07年には北部の都市トリポリに近いナハル・アル・バレドの難民キャンプを拠点とするイスラム系武装集団ファタハ・イスラムとレバノン軍の大規模な衝突もあった。

 戦闘でキャンプはほとんど破壊された。「レバノンの人々はこの件を忘れていない。長期的に住むことができるシェルターを受け入れられないのはそれが理由だ」とカセンは言う。

「48年にパレスチナ難民を受け入れたとき、レバノンは建国から5年の若い国だった。レバノン内戦はパレスチナ人の流入という悲劇の遺産でもあった」とブラウン大学の比較文学・中東研究の准教授で、レバノン政治についてのブログを主宰するエリアス・ムハナは指摘する。

「レバノンは世界で最も人口密度の高い国の1つであり、これ以上の人口増加に対処できないという心配もある。同時に、国に同化しないコミュニティーの存在に対する感情的な反発もある」と彼は言う。

 反発の裏には政治的な事情もある。レバノン政治は多くの宗教・宗派の微妙なバランスで成り立っている。スンニ派であるシリア人が100万人以上も加われば宗派間の勢力分布は大きく変わり、他の集団は現在より不利な立場になりかねない。

 宗派間の力関係で政治が動くこの国では、人道危機が政治の危機に直結する。

[2016.4. 5号掲載]
リチャード・ホール

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