「リコノミクス」という言葉を覚えているだろうか。中国語で書くと「李克強経済学」。李克強首相が主導する経済改革につけられた名称だ。しかし李克強の首相就任から3年、すっかり死語となってしまった。習近平政権は総書記に権力を集中する体制改革を断行し、李克強首相は経済運営の責任者ではあっても、経済改革の担当者という役割からは外されたかのように見える。リコノミクスでぶちあげられた改革プランも停滞し、忘れ去られてしまったものも少なくない。
今回は庶民の食卓、市場(いちば)の異変から中国の改革の行方を考えたい。
「炒め物が貴族の料理」「コーヒーにニンニク」
「葱爆肉(ネギと豚肉の炒め物)は今や貴族の料理だよ!」
いきなりこんなことを言われてもさっぱり意味が分からないと思うが、天津市に住む中年女性に聞いたところ、野菜市場で人気のジョークなのだとか。今年2月以来、中国各地で野菜と豚肉の価格が急騰している。ネギと豚肉の炒め物などというお手軽料理ですら高根の花になってしまったという意味だ。
【参考記事】「人民よ、いもを食べろ!」中国じゃがいも主食化計画のワケ
物価ジョークはこれだけではない。
「今時の金持ちはコーヒーにニンニクを入れるんだよ」(お茶じゃなくてコーヒーを飲むようなハイカラな人たちは、わざわざ値段が高くなったニンニクを入れることで財力を誇示している)
「向前葱」(向前冲〔突撃せよ〕のかけことば。突撃するようにネギの価格が上がるという意味)
「蒜你狠」(算你狠〔おまえのほうがすごい〕のかけことば。"ニンニク様"の値段が力強く上昇しているとの意味)
正直、日本人が聞いてもさっぱり面白さが分からないジョークだが、天津市の市場ではこれで爆笑間違いなし、なのだとか。食材価格の高騰がそれだけ庶民の関心事になっている証しだ。中国の地元紙にも「息子の大好物の角煮を週1回から月2回に減らしました」「野菜を買う時はいつも量り売りでどっさり買っていたのに、今じゃネギ1本、茄子1個とちまちま購入するように」といった「物価高騰で庶民が悲鳴」系のニュースがあふれている。
【参考記事】「農村=貧困」では本当の中国を理解できない
中国国家統計局発表の消費者物価指数でも食品価格高騰は裏付けられている。2月期の野菜価格は前月比29.9%、前年同月比30.6%と急騰している。豚肉価格は前月比6.3%、前年同月比25.4%の上昇だ。3月期の統計ではやや下がったものの、依然として高水準で推移している。
価格上昇に中国ならではの2つの要因
中国政府は天候不順が価格上昇の要因だと説明している。中国に限らず、天候によって生鮮食品価格が上下するのはごくごく当たり前の話だが、実際には中国ならではの要因がある。
第一に生産量のミスマッチだ。「価格高騰→農家が生産を増やす→供給過剰で価格下落→農家が供給を減らす→価格高騰......」という構図がえんえんと繰り返されている。特に子ブタの生産から肥育までタイムサイクルが長い豚の場合は、ほぼ3年周期で価格が高騰する。同じことを繰り返しているのだから農家も対策が立てられそうなものだが、同じ失敗が繰り返されている。
第二に投機マネーの流入だ。2010年に中国で話題となったのが「ニンニク・バブル」だった。鳥インフルエンザに効果があるとのデマが広がったことをきっかけに、ニンニク価格が急騰。まだまだ値上がりするはずだと買い占め・売り惜しみを横行し、さらなる価格高騰の要因となった。中国ではさまざまな商品が投機の対象となり、プチバブルが繰り返されてきた。ワイン、白酒、切手、プーアル茶、唐木などなど。保存が利かない葉物野菜は別として、ニンニクや豚肉とて例外ではない。
リコノミクスの改革はこうした中国的要因の解消を目的としていた。例えば農業企業、大農場の解禁だ。零細農家はどうしても短期的な利益から生産量を変化させてしまうが、企業や大農場などの大規模な経営体ならば長期的視野で生産量の管理が可能となる。そのお手本が日本だ。かつては零細養豚業者が主体で「ピッグ・サイクル」と呼ばれる周期的な価格上昇があったが、大規模農家が主流となったことで価格が安定した。
しかし"一応"共産主義の中国において、農業企業や大規模農家の奨励は政治的に敏感なテーマであり、反対派も少なくない。プランそのものはすばらしいものだったが、気づけばたいした前進もなく忘れられようとしている。
野菜先物市場を開設することで価格の乱高下を抑制するとの提言もあるが、無知でか弱い農民を資本主義マーケットに放り込むのはいかがなものかとの反対意見が強く、遅々として進まない。
リコノミクスの目玉は投機マネーの取り締まり。中小企業を中心に実体経済へとマネーを誘導すると高らかに宣言したが、現実はニンニク・バブル再び、だ。
【参考記事】「李克強指数」が使えないわけ
13億人の大国で改革を断行するには大変なエネルギーが必要となる。習近平国家主席に権力が集中するなか、李克強首相にはその力が失われてしまったかのようだ。一方、絶大な権力を手にした習近平国家主席はというと、経済よりも政治権力闘争のほうに力点を置いている。これでは経済改革が進まないのも仕方がない。繰り返されるジェットコースター物価を前に、庶民にできるのはジョークとダジャレで皮肉を言うことしかないようだ。
[筆者]
高口康太
ジャーナリスト、翻訳家。1976年生まれ。千葉大学人文社会科学研究科(博士課程)単位取得退学。独自の切り口から中国・新興国を論じるニュースサイト「KINBRICKS NOW」を運営。著書に『なぜ、習近平は激怒したのか――人気漫画家が亡命した理由』(祥伝社)。
高口康太(ジャーナリスト、翻訳家)
今回は庶民の食卓、市場(いちば)の異変から中国の改革の行方を考えたい。
「炒め物が貴族の料理」「コーヒーにニンニク」
「葱爆肉(ネギと豚肉の炒め物)は今や貴族の料理だよ!」
いきなりこんなことを言われてもさっぱり意味が分からないと思うが、天津市に住む中年女性に聞いたところ、野菜市場で人気のジョークなのだとか。今年2月以来、中国各地で野菜と豚肉の価格が急騰している。ネギと豚肉の炒め物などというお手軽料理ですら高根の花になってしまったという意味だ。
【参考記事】「人民よ、いもを食べろ!」中国じゃがいも主食化計画のワケ
物価ジョークはこれだけではない。
「今時の金持ちはコーヒーにニンニクを入れるんだよ」(お茶じゃなくてコーヒーを飲むようなハイカラな人たちは、わざわざ値段が高くなったニンニクを入れることで財力を誇示している)
「向前葱」(向前冲〔突撃せよ〕のかけことば。突撃するようにネギの価格が上がるという意味)
「蒜你狠」(算你狠〔おまえのほうがすごい〕のかけことば。"ニンニク様"の値段が力強く上昇しているとの意味)
正直、日本人が聞いてもさっぱり面白さが分からないジョークだが、天津市の市場ではこれで爆笑間違いなし、なのだとか。食材価格の高騰がそれだけ庶民の関心事になっている証しだ。中国の地元紙にも「息子の大好物の角煮を週1回から月2回に減らしました」「野菜を買う時はいつも量り売りでどっさり買っていたのに、今じゃネギ1本、茄子1個とちまちま購入するように」といった「物価高騰で庶民が悲鳴」系のニュースがあふれている。
【参考記事】「農村=貧困」では本当の中国を理解できない
中国国家統計局発表の消費者物価指数でも食品価格高騰は裏付けられている。2月期の野菜価格は前月比29.9%、前年同月比30.6%と急騰している。豚肉価格は前月比6.3%、前年同月比25.4%の上昇だ。3月期の統計ではやや下がったものの、依然として高水準で推移している。
価格上昇に中国ならではの2つの要因
中国政府は天候不順が価格上昇の要因だと説明している。中国に限らず、天候によって生鮮食品価格が上下するのはごくごく当たり前の話だが、実際には中国ならではの要因がある。
第一に生産量のミスマッチだ。「価格高騰→農家が生産を増やす→供給過剰で価格下落→農家が供給を減らす→価格高騰......」という構図がえんえんと繰り返されている。特に子ブタの生産から肥育までタイムサイクルが長い豚の場合は、ほぼ3年周期で価格が高騰する。同じことを繰り返しているのだから農家も対策が立てられそうなものだが、同じ失敗が繰り返されている。
第二に投機マネーの流入だ。2010年に中国で話題となったのが「ニンニク・バブル」だった。鳥インフルエンザに効果があるとのデマが広がったことをきっかけに、ニンニク価格が急騰。まだまだ値上がりするはずだと買い占め・売り惜しみを横行し、さらなる価格高騰の要因となった。中国ではさまざまな商品が投機の対象となり、プチバブルが繰り返されてきた。ワイン、白酒、切手、プーアル茶、唐木などなど。保存が利かない葉物野菜は別として、ニンニクや豚肉とて例外ではない。
リコノミクスの改革はこうした中国的要因の解消を目的としていた。例えば農業企業、大農場の解禁だ。零細農家はどうしても短期的な利益から生産量を変化させてしまうが、企業や大農場などの大規模な経営体ならば長期的視野で生産量の管理が可能となる。そのお手本が日本だ。かつては零細養豚業者が主体で「ピッグ・サイクル」と呼ばれる周期的な価格上昇があったが、大規模農家が主流となったことで価格が安定した。
しかし"一応"共産主義の中国において、農業企業や大規模農家の奨励は政治的に敏感なテーマであり、反対派も少なくない。プランそのものはすばらしいものだったが、気づけばたいした前進もなく忘れられようとしている。
野菜先物市場を開設することで価格の乱高下を抑制するとの提言もあるが、無知でか弱い農民を資本主義マーケットに放り込むのはいかがなものかとの反対意見が強く、遅々として進まない。
リコノミクスの目玉は投機マネーの取り締まり。中小企業を中心に実体経済へとマネーを誘導すると高らかに宣言したが、現実はニンニク・バブル再び、だ。
【参考記事】「李克強指数」が使えないわけ
13億人の大国で改革を断行するには大変なエネルギーが必要となる。習近平国家主席に権力が集中するなか、李克強首相にはその力が失われてしまったかのようだ。一方、絶大な権力を手にした習近平国家主席はというと、経済よりも政治権力闘争のほうに力点を置いている。これでは経済改革が進まないのも仕方がない。繰り返されるジェットコースター物価を前に、庶民にできるのはジョークとダジャレで皮肉を言うことしかないようだ。
[筆者]
高口康太
ジャーナリスト、翻訳家。1976年生まれ。千葉大学人文社会科学研究科(博士課程)単位取得退学。独自の切り口から中国・新興国を論じるニュースサイト「KINBRICKS NOW」を運営。著書に『なぜ、習近平は激怒したのか――人気漫画家が亡命した理由』(祥伝社)。
高口康太(ジャーナリスト、翻訳家)