2015年に日本を訪れた約2000万人の外国人のうち、3分の1が中国からの観光客だった。「爆買い」という言葉に象徴されるように、日本は中国人にとって人気の旅行先だ。高級タワーマンションなど、日本で不動産を購入する中国人投資家も多い。
それだけでなく、日本では今、約70万人ともされる中国人が、学び、働き、暮らしている。しかし、多くの日本人は彼らのことをよく知らない。まるで観光客以上に見えない存在になっているかのようだ。
私たちのすぐ隣で、彼らはどう生き、何を思うのか。北京出身で、来日30年になるジャーナリストの趙海成氏は、そんな在日中国人たちを数年がかりでインタビューして回り、『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(小林さゆり訳、CCCメディアハウス)にまとめた。
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十人十色のライフストーリーが収められた本書から、東京で不動産会社を経営する男性の物語を抜粋し、2回に分けて掲載する。北京出身の潘宏程(パン・ホンチェン)さんは、90年に留学のために来日。一時は野宿寸前になるなど苦労を重ねたが、99年に「東拓株式会社」を設立し、今では中国の裕福な投資家たちからも頼られる存在だ。日本への思い、故国への思い、狭間に生きる葛藤――。そのライフストーリーから、見えてくる世界がある。
『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』
趙海成(チャオ・ハイチェン) 著
小林さゆり 訳
CCCメディアハウス
◇ ◇ ◇
潘宏程は正直で親切で、温和なモンゴル族の男だ。知り合ってから随分になるが、親交を深めたのは近年のこと。知れば知るほど魅力的な男だし、その独特な日本での立志伝には心打たれる。
巻いた布団を肩に背負い、危うく公園に野宿しそうになった苦学生から、別荘など物件を多く抱える不動産会社の社長へ。成功するまでに一体どれほどの苦労を経てきたのか。そこで、これまでどんな道を歩んできたか、20年余り暮らす日本が彼に何を与えてくれたかなど、潘宏程に話を聞いた。
寮がなくなり住む場所にも困る
日本との縁については、私の父のことから話したい。抗日戦争が終わった時(1945年)、父は部隊の衛生兵で、捕虜にされて中国に残った日本兵に日本語を学び始めたのだという。幼いころに、父がラジオ講座で日本語を学んでいるのを見たことがある。のちに私が父に「外国留学がしたい」と話した時には、元部下に留学申請のサポートをするよう頼んでくれた。2カ国への申請で、第1にオーストラリア、第2に日本だった。結果いずれもビザが下りたが、「日本は近いから、やっぱり日本に行きなさい」という母の一言で、退路を断った私の日本行きが決まった。
1990年10月、山と積んだ荷物を担いで成田国際空港に着いた。荷物の中には、洗面器になべに布団と家財道具はなんでもあった。さらには「紅星」ブランドの粉ミルクも10袋ほど持ち込んだ。迎えに来た人が「なんでこんなに多くのものを」と驚いていたが、見知らぬ異郷で暮らす私にとって、どれも最初に生きるための必需品だったのだ。
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日本に来たばかりのころは、本当に苦しかった。ある居酒屋で皿洗いのバイトをしたが、身長180センチの大男が腰をかがめて山と積まれた皿を洗うのは、なんともお先真っ暗な思いがした。人生の価値がどこにあるのか、わからなかった。中国では名門とされる瀋陽薬科大学を卒業してから、中国科学院〔中国トップレベルの科学技術研究機関〕の衛生研究所に配属されて働いた。生活面での条件もよく、父の関係を頼れば、官職につく道も敷かれていた。なんでまた見知らぬ場所にやってきて、皿洗いをしなければならないのか。将来はどうしよう? 困惑する一方で「数年我慢して進学し、箔をつけて帰国するぞ」と自分で自分をなぐさめた。
来日当時、住んでいたのは学校の寮だったが、ある日突然、寮が閉鎖されてしまい、荷物を背負って住みかを探すほかなかった。だが、日本語のできない外国人が部屋を借りるのは、きわめて難しい。公園のベンチで寝ようと準備までしたのだが、幸いある友人が私を引き取ってくれたのだった。のちに妻が(当時はまだガールフレンドだったが)中国から来日し、私はようやく家賃3万円、8畳一間の古いアパートに引っ越した。バスルームもエアコンもなく、夏の暑い盛りには室内温度は30度以上に達し、妻の顔には水ぶくれができてしまった。本当に耐えられなくなり、思い切ってエアコンを買った。
いま振り返ってみれば、中国での恵まれた条件をほうり出し、キッパリ出国して奮闘してきたことは少しも後悔していない。これもまた、運命がそうさせたと信じている。もし中国に残っていたら今ごろふつうの役人になり、汚職をせずとも他の役人と同じ流れになっていたろう。だがそのような生活は、決して私が求めるものではなかったのだと思う。
不動産業を選んだのは偶然だった
日本語学校を卒業後、千葉大学大学院に進学し、2年後に修士号を取得した。引き続き博士課程に進みたかったが、指導教官が「見たところ君は学問をやるタイプではない。友人の会社を紹介するから、いっそのこと就職してはどうか」という。それで教官が薦めたその貿易会社に入社した。
しばらくしないうちに独立し、絨毯のビジネスを一時期手がけた。のちに取り組んだ不動産業も、ある種の偶然からだった。当時、絨毯ビジネスがうまくいかず、そのほかのこともわからない。それで、どうせなら何か勉強しよう、資格でも取ろうと思った。妻は以前、不動産会社で働いたことがあり、仕事上の必要から不動産業のライセンスを取っていた。
君が持っているなら僕もなければと、不動産関係の本を何冊か買ってきて、勉強をはじめた。それから本当に合格するとは思わなかったが、ちょっと試してみようと資格試験を受けたところ、1カ月後に合格通知が届いた。こうして私たちは2人とも不動産業のライセンスを持つことになり、筋道に沿って順調に不動産ビジネスをはじめたのだった。
もちろんこの選択は日本に来たばかりのころ、アパートを探して苦労した経験とも無関係ではない。当時日本語ができなかった私は、アパートを探してあちこちで行き詰まった。そして2つの考えをめぐらせた。第1に、どうしてこんなに部屋を借りるのが難しいのか。第2に、日本でマイホームを持ちたい、ということである。
不動産業をはじめたころは何もわからず、手探りで川を渡るような状態だった。ただ、幸い当時、新華僑〔中国の改革開放政策の実施以降、海外に出た華僑〕がはじめた不動産会社は、東京ではわが社が第1号、唯一無二の存在だった。それでわが社の名前を「東拓」とした。つまり「東京開拓」という意味だ。会社は北区東十条に設立した。
オープンしたころは、その光景に誰もが驚き目をむいた。カウンターの前には一列になったお客が座り、その後ろにも多くのお客が列をつくった。部屋の外にも順番を待つ人たちがいて、1組が去れば、また1組がやってきた。時には物件の間取り図を持ったままで、この人に決まらなければ次の人に渡すといった調子で、ビジネスは上々だった。当時は毎日そんな様子で、警察だって自転車で駆けつけてきて、わが社の盛況ぶりを眺めていた。
みんなが部屋を借りるのに、なぜ「東拓」へ来るか。答えはシンプルだ。彼らは日本語ができないので、日本の不動産会社は彼らに部屋を貸してくれないのだ。
また、日本の不動産会社は業務範囲が決まっていて、範囲内のことならよくしてくれるが、範囲外のプライベートなことまでは手助けしてくれない。だが、私たちの当時のお客はほとんどが日本語のできない中国人で、部屋を借りる以外にもサポートを求めていた。家主とのやりとりやゴミの捨て方。細かなところでは契約後に客をスーパーへ連れて行き、排水口用ネットを買って、これがなければパイプが詰まると教えてあげた。のちにこうした小さなグッズは常時用意しておき、お客に進呈するようにした。
わが社は水道、電気、ガス会社との契約もサポートしているが、中には子どもの進学のことまで電話で相談してくる人もいる。私たちは基本的に、求められれば必ず応じるというスタンスだ。海外生活は容易ではないので、できるだけサポートしようと思っている。会社のスタッフは「私たちの仕事はメイドみたいですね」という。自分が来日したころ、こんな「メイド」がいればどんなにありがたかったことだろう。
日本の特徴は「真」
いま中国人はわりあい裕福で、日本で家を買う人も増えてきた。中日関係は年々、坂を下るように下降しているが、来日して住宅を購入する中国人はかえって増えている。近年の中国の住宅価格の高騰に比べれば、日本の住宅価格はおおむね安定しているからだ。
不動産業についていえば、日本の最大の特徴は「真」だろう。つまり彼らがお客に提供するものは、いずれも確かでうそ偽りがない。わが社ではそうした「真」のサービスに加え、手がける物件はいずれも私自身が実施調査をおこなっている。というのも、ふつう中国人客は、物件そのものの状態のほか、さらに詳細な状態を知りたがるからだ。たとえば、水道管や電気回路は何年交換していないか、万が一にも地震があれば、周囲にどんな避難所があるか、などなど。これらについては実情を把握して、問い合わせには必ず答えるようにしている。
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ここ数年、大陸や香港、台湾などから来日した大勢の人が不動産に投資しており、不動産購入後のレンタルや管理などの問題におよんでいる。これについては、わが社のレンタル管理部門が相応の調整をおこなっている。
外国からの投資家のために私たちが手がけることは――テナント・借家人が退去する際、家主の代わりに現場をチェックしたり、空き部屋の内装のリフォームをしたり、入居者の募集、入居審査、居住中の管理、毎月の家賃の代行徴収、ビル管理会社からの各種連絡、管理費の代理納付をすること。さらに、国税庁からの固定資産税通知の受理と税金の代理納付、月に1度の家主への決算報告などもおこなっている。つまり、私たちはアフターサービスまで一貫して手がけているのだ。
住宅の購入は、どのお客にとっても大ごとであり、白菜を買って嫌になれば捨てるのとはわけが違う。きわめて重大なことなので、必ず熟考しなければならない。それで会社のスタッフには「接客する際、住宅を購入する人の立場に立ってみれば、お客様のどんな要求も不当ではない。値引きをしてほしいとか、あれやこれやの要求ももっともなことだ」と、よくいっている。
とはいえ、時にはわが社のお客が再三、物件の値引きを求め、その間に他の人に購入されてしまうこともある。こうしたことは珍しくはない。家主は買い手に誠意があると思えば、売ってくれるだろう。われわれ中国人は、言い値を値切らないと損をすると思うし、売るほうも値引きを前提に吹っかけるのが普通だ。日本の住宅価格はわりに安定していて、何年も大きな変化はないし、しかもうそやごまかしがないのだ。値段によって質も異なるのは、当然のことだ。
※シリーズ第2回:同胞の部屋探しを助ける、中国出身の不動産会社社長(後編)
『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』
趙海成(チャオ・ハイチェン) 著
小林さゆり 訳
CCCメディアハウス
それだけでなく、日本では今、約70万人ともされる中国人が、学び、働き、暮らしている。しかし、多くの日本人は彼らのことをよく知らない。まるで観光客以上に見えない存在になっているかのようだ。
私たちのすぐ隣で、彼らはどう生き、何を思うのか。北京出身で、来日30年になるジャーナリストの趙海成氏は、そんな在日中国人たちを数年がかりでインタビューして回り、『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(小林さゆり訳、CCCメディアハウス)にまとめた。
【参考記事】ママたちの不安を知る、型破りな保育園経営者(1/3)
十人十色のライフストーリーが収められた本書から、東京で不動産会社を経営する男性の物語を抜粋し、2回に分けて掲載する。北京出身の潘宏程(パン・ホンチェン)さんは、90年に留学のために来日。一時は野宿寸前になるなど苦労を重ねたが、99年に「東拓株式会社」を設立し、今では中国の裕福な投資家たちからも頼られる存在だ。日本への思い、故国への思い、狭間に生きる葛藤――。そのライフストーリーから、見えてくる世界がある。
『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』
趙海成(チャオ・ハイチェン) 著
小林さゆり 訳
CCCメディアハウス
◇ ◇ ◇
潘宏程は正直で親切で、温和なモンゴル族の男だ。知り合ってから随分になるが、親交を深めたのは近年のこと。知れば知るほど魅力的な男だし、その独特な日本での立志伝には心打たれる。
巻いた布団を肩に背負い、危うく公園に野宿しそうになった苦学生から、別荘など物件を多く抱える不動産会社の社長へ。成功するまでに一体どれほどの苦労を経てきたのか。そこで、これまでどんな道を歩んできたか、20年余り暮らす日本が彼に何を与えてくれたかなど、潘宏程に話を聞いた。
寮がなくなり住む場所にも困る
日本との縁については、私の父のことから話したい。抗日戦争が終わった時(1945年)、父は部隊の衛生兵で、捕虜にされて中国に残った日本兵に日本語を学び始めたのだという。幼いころに、父がラジオ講座で日本語を学んでいるのを見たことがある。のちに私が父に「外国留学がしたい」と話した時には、元部下に留学申請のサポートをするよう頼んでくれた。2カ国への申請で、第1にオーストラリア、第2に日本だった。結果いずれもビザが下りたが、「日本は近いから、やっぱり日本に行きなさい」という母の一言で、退路を断った私の日本行きが決まった。
1990年10月、山と積んだ荷物を担いで成田国際空港に着いた。荷物の中には、洗面器になべに布団と家財道具はなんでもあった。さらには「紅星」ブランドの粉ミルクも10袋ほど持ち込んだ。迎えに来た人が「なんでこんなに多くのものを」と驚いていたが、見知らぬ異郷で暮らす私にとって、どれも最初に生きるための必需品だったのだ。
【参考記事】銀座定点観測7年目、ミスマッチが目立つ今年の「爆買い」商戦
日本に来たばかりのころは、本当に苦しかった。ある居酒屋で皿洗いのバイトをしたが、身長180センチの大男が腰をかがめて山と積まれた皿を洗うのは、なんともお先真っ暗な思いがした。人生の価値がどこにあるのか、わからなかった。中国では名門とされる瀋陽薬科大学を卒業してから、中国科学院〔中国トップレベルの科学技術研究機関〕の衛生研究所に配属されて働いた。生活面での条件もよく、父の関係を頼れば、官職につく道も敷かれていた。なんでまた見知らぬ場所にやってきて、皿洗いをしなければならないのか。将来はどうしよう? 困惑する一方で「数年我慢して進学し、箔をつけて帰国するぞ」と自分で自分をなぐさめた。
来日当時、住んでいたのは学校の寮だったが、ある日突然、寮が閉鎖されてしまい、荷物を背負って住みかを探すほかなかった。だが、日本語のできない外国人が部屋を借りるのは、きわめて難しい。公園のベンチで寝ようと準備までしたのだが、幸いある友人が私を引き取ってくれたのだった。のちに妻が(当時はまだガールフレンドだったが)中国から来日し、私はようやく家賃3万円、8畳一間の古いアパートに引っ越した。バスルームもエアコンもなく、夏の暑い盛りには室内温度は30度以上に達し、妻の顔には水ぶくれができてしまった。本当に耐えられなくなり、思い切ってエアコンを買った。
いま振り返ってみれば、中国での恵まれた条件をほうり出し、キッパリ出国して奮闘してきたことは少しも後悔していない。これもまた、運命がそうさせたと信じている。もし中国に残っていたら今ごろふつうの役人になり、汚職をせずとも他の役人と同じ流れになっていたろう。だがそのような生活は、決して私が求めるものではなかったのだと思う。
不動産業を選んだのは偶然だった
日本語学校を卒業後、千葉大学大学院に進学し、2年後に修士号を取得した。引き続き博士課程に進みたかったが、指導教官が「見たところ君は学問をやるタイプではない。友人の会社を紹介するから、いっそのこと就職してはどうか」という。それで教官が薦めたその貿易会社に入社した。
しばらくしないうちに独立し、絨毯のビジネスを一時期手がけた。のちに取り組んだ不動産業も、ある種の偶然からだった。当時、絨毯ビジネスがうまくいかず、そのほかのこともわからない。それで、どうせなら何か勉強しよう、資格でも取ろうと思った。妻は以前、不動産会社で働いたことがあり、仕事上の必要から不動産業のライセンスを取っていた。
君が持っているなら僕もなければと、不動産関係の本を何冊か買ってきて、勉強をはじめた。それから本当に合格するとは思わなかったが、ちょっと試してみようと資格試験を受けたところ、1カ月後に合格通知が届いた。こうして私たちは2人とも不動産業のライセンスを持つことになり、筋道に沿って順調に不動産ビジネスをはじめたのだった。
もちろんこの選択は日本に来たばかりのころ、アパートを探して苦労した経験とも無関係ではない。当時日本語ができなかった私は、アパートを探してあちこちで行き詰まった。そして2つの考えをめぐらせた。第1に、どうしてこんなに部屋を借りるのが難しいのか。第2に、日本でマイホームを持ちたい、ということである。
不動産業をはじめたころは何もわからず、手探りで川を渡るような状態だった。ただ、幸い当時、新華僑〔中国の改革開放政策の実施以降、海外に出た華僑〕がはじめた不動産会社は、東京ではわが社が第1号、唯一無二の存在だった。それでわが社の名前を「東拓」とした。つまり「東京開拓」という意味だ。会社は北区東十条に設立した。
オープンしたころは、その光景に誰もが驚き目をむいた。カウンターの前には一列になったお客が座り、その後ろにも多くのお客が列をつくった。部屋の外にも順番を待つ人たちがいて、1組が去れば、また1組がやってきた。時には物件の間取り図を持ったままで、この人に決まらなければ次の人に渡すといった調子で、ビジネスは上々だった。当時は毎日そんな様子で、警察だって自転車で駆けつけてきて、わが社の盛況ぶりを眺めていた。
みんなが部屋を借りるのに、なぜ「東拓」へ来るか。答えはシンプルだ。彼らは日本語ができないので、日本の不動産会社は彼らに部屋を貸してくれないのだ。
また、日本の不動産会社は業務範囲が決まっていて、範囲内のことならよくしてくれるが、範囲外のプライベートなことまでは手助けしてくれない。だが、私たちの当時のお客はほとんどが日本語のできない中国人で、部屋を借りる以外にもサポートを求めていた。家主とのやりとりやゴミの捨て方。細かなところでは契約後に客をスーパーへ連れて行き、排水口用ネットを買って、これがなければパイプが詰まると教えてあげた。のちにこうした小さなグッズは常時用意しておき、お客に進呈するようにした。
わが社は水道、電気、ガス会社との契約もサポートしているが、中には子どもの進学のことまで電話で相談してくる人もいる。私たちは基本的に、求められれば必ず応じるというスタンスだ。海外生活は容易ではないので、できるだけサポートしようと思っている。会社のスタッフは「私たちの仕事はメイドみたいですね」という。自分が来日したころ、こんな「メイド」がいればどんなにありがたかったことだろう。
日本の特徴は「真」
いま中国人はわりあい裕福で、日本で家を買う人も増えてきた。中日関係は年々、坂を下るように下降しているが、来日して住宅を購入する中国人はかえって増えている。近年の中国の住宅価格の高騰に比べれば、日本の住宅価格はおおむね安定しているからだ。
不動産業についていえば、日本の最大の特徴は「真」だろう。つまり彼らがお客に提供するものは、いずれも確かでうそ偽りがない。わが社ではそうした「真」のサービスに加え、手がける物件はいずれも私自身が実施調査をおこなっている。というのも、ふつう中国人客は、物件そのものの状態のほか、さらに詳細な状態を知りたがるからだ。たとえば、水道管や電気回路は何年交換していないか、万が一にも地震があれば、周囲にどんな避難所があるか、などなど。これらについては実情を把握して、問い合わせには必ず答えるようにしている。
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ここ数年、大陸や香港、台湾などから来日した大勢の人が不動産に投資しており、不動産購入後のレンタルや管理などの問題におよんでいる。これについては、わが社のレンタル管理部門が相応の調整をおこなっている。
外国からの投資家のために私たちが手がけることは――テナント・借家人が退去する際、家主の代わりに現場をチェックしたり、空き部屋の内装のリフォームをしたり、入居者の募集、入居審査、居住中の管理、毎月の家賃の代行徴収、ビル管理会社からの各種連絡、管理費の代理納付をすること。さらに、国税庁からの固定資産税通知の受理と税金の代理納付、月に1度の家主への決算報告などもおこなっている。つまり、私たちはアフターサービスまで一貫して手がけているのだ。
住宅の購入は、どのお客にとっても大ごとであり、白菜を買って嫌になれば捨てるのとはわけが違う。きわめて重大なことなので、必ず熟考しなければならない。それで会社のスタッフには「接客する際、住宅を購入する人の立場に立ってみれば、お客様のどんな要求も不当ではない。値引きをしてほしいとか、あれやこれやの要求ももっともなことだ」と、よくいっている。
とはいえ、時にはわが社のお客が再三、物件の値引きを求め、その間に他の人に購入されてしまうこともある。こうしたことは珍しくはない。家主は買い手に誠意があると思えば、売ってくれるだろう。われわれ中国人は、言い値を値切らないと損をすると思うし、売るほうも値引きを前提に吹っかけるのが普通だ。日本の住宅価格はわりに安定していて、何年も大きな変化はないし、しかもうそやごまかしがないのだ。値段によって質も異なるのは、当然のことだ。
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