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同胞の部屋探しを助ける、中国出身の不動産会社社長(後編)

ニューズウィーク日本版 2016年4月21日 18時57分

 2015年に日本を訪れた約2000万人の外国人のうち、3分の1が中国からの観光客だった。「爆買い」という言葉に象徴されるように、日本は中国人にとって人気の旅行先だ。それだけでなく、日本には今、約70万人ともされる在日中国人がいる。しかし、多くの日本人は彼らのことをよく知らないのではないだろうか。

 私たちのすぐ隣で、彼らはどう生き、何を思うのか。北京出身で、来日30年になるジャーナリストの趙海成氏は、そんな在日中国人たちを数年がかりでインタビューして回り、『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(小林さゆり訳、CCCメディアハウス)にまとめた。

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 十人十色のライフストーリーが収められた本書から、東京で不動産会社を経営する男性の物語を抜粋し、2回に分けて掲載する。北京出身の潘宏程(パン・ホンチェン)さんは、90年に留学のために来日。一時は野宿寸前になるなど苦労を重ねたが、99年に「東拓株式会社」を設立し、今では中国の裕福な投資家たちからも頼られる存在だ。そんな彼は今、日本に対し何を思うのか。そのライフストーリーから、見えてくる世界がある。


『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』
 趙海成(チャオ・ハイチェン) 著
 小林さゆり 訳
 CCCメディアハウス


※シリーズ第1回:同胞の部屋探しを助ける、中国出身の不動産会社社長(前編)

◇ ◇ ◇

日本で感動した2つのこと

 来日して最初の週の話だが、家族あてに無事を伝える手紙を書いた。国際電話をかけるお金がなかったからだ。手紙を手に大通りで郵便局を探したが、どうしても見つからない。ある老夫婦に出会ったので、私は身ぶり手ぶりの英語交じりで郵便局はどこかと尋ねた。

 老夫婦は意味をのみ込み、私を連れて行ってくれたのだが、入った先は広々とした庭のある家。庭にはさまざまな植物が植えられていた。おばあさんは玄関前の腰かけで休み、おじいさんは靴を脱いで家に入ると、私の手紙に120円の切手を貼ってくれた。それからまた私を通りまで連れて行き、郵便ポストに手紙を入れて「OK!」とほほえんだ。「ありがとう」と私は当時、唯一できた日本語で感謝を述べた。こうして初めて無事を伝えた手紙がついに北京へ郵送されたのだ。

 この出来事がずっと心に残っていて、1年後に帰国した際には、老夫婦にプレゼントしようとサイの角で描かれた中国絵画を購入し、日本に戻った。しかしあの広い庭はどうしても見つからなかった。本当に残念に思い、その絵はいまも保管している。あの老夫婦からすれば、通りすがりの中国の青年をちょっと助けただけだろうが、私からすれば、郵送してもらったのが両親に無事を伝える最初の手紙だ。この感動は終生忘れられないものとなった。私の卒業論文にもこのエピソードを書き入れたほどだ。



 また、仕事上でも感動的な出来事があった。日本人は最も勤勉だとよくいわれるが、全くその通りだ。先ごろ、同業他社の日本人青年に出会った。青年と契約日を決めたが、その契約前の数日間、青年は欠勤していた。だが契約当日になると、彼は走ってきた。「この2日間連絡が取れませんでしたが、とくに問題はありませんよね」と声をかけると、「問題はないのですが、本当に申し訳ありませんでした。実は母親が亡くなりまして、代行も考えましたが、心配なのでやはり自分がここへ来ました」と打ち明けてくれた。前々日に母親が亡くなったのに、その日、彼はやってきたのだ。私たちはそれを聞いて本当に胸を打たれた。もし家族の不幸のために契約が延期されたとしても、それは容認できることだ。これが、最も身をもって知った日本人の仕事に対する責任感と勤勉さだった。

息子の母校に恩返しの寄付をした

 わが家ではみんな、ずいぶん前に日本国籍を取得した。そうしたのは、1つに仕事上の便宜のため、2つには子どもの将来のためだ。息子の拓拓がまだ小さかったころ、幼稚園のクラスメートがある日、私たちを見るなり大声で自分のママにいった。「あの人たち、外国人だ」。それを聞いた拓拓は「ぼくは外国人じゃない。日本人だ!」と叫んだ。その時、私は息子のこれからの成功のため、やはり日本国籍を取得したほうがよかろうと思ったのだ。

 拓拓が入学した小学校は、東京・赤羽の地元でも有名なミッションスクールだ。この学校は教師から校長まで、みなすばらしい。貧しかろうが豊かであろうが、分け隔てなく誠意と愛を持って、子どもたちを教えている。私たち夫婦はこの学校を信頼しており、拓拓がここで日々すくすくと成長しているのを見て、感謝の気持ちでいっぱいだった。

 ある時、校長と話して知ったのだが、学校は孤児のための児童福祉施設を設立するつもりで、しかし物件を借りるのに資金がなく困っているという。私は妻と、学校をサポートできないか話し合った。当時私たちのビジネスはうまくいっていたし、これも学校への恩返しになると考えたのだ。こうしてわが社の名義で費用の5000万円余りを分割払いにして、学校横に新築の家屋を購入。その後、学校には児童福祉施設として使ってもらうよう、無償で寄付したのである。



 すでに数年がたち、あの福祉施設の子どもたちも何学年も入れ替わった。毎年、学校側は感謝状を送ってくれ、そこには新しい入居者のリストも添えられている。たまたま施設のそばを通ると、外からちらりと目をやるのだが、これまで入ったことはない。もう私の家ではないような気がするからだ。学校がこの福祉施設を運営し続けてくれるのならば、私たちはずっと寄付していくつもりだ。

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 拓拓は昨年、高校を卒業した。私たちはもともと息子が大学に進学し、不動産関係のコースで学んでくれれば跡を継ぎやすいだろうと考えていた。私たち両親がすっかり下地を作ったのだから、彼にすればもってこいの選択だろうと。だが拓拓は自分の道にこだわり、歯科大学を選択した。理由は、あるテレビドキュメンタリーを見たことからだ。それは、食べ物がのどを通らず、つらい思いをしていたある口腔疾患のお年寄りが、すぐれた歯科医師の治療で健康を取り戻したという話だった。この真実のストーリーに感動した拓拓は、シンプルな動機なのだが「歯科を学べば人助けできる」と思った。こうした考えは、あのミッションスクールで受けた「愛」の教育と切っても切れない関係にあるだろう。

日本は「トレーニング」を与えてくれた

 4年前、私は中国留学生学友会の作文コンクールのスポンサーになった。訪ねてきた東京学友会の会長に依頼され、「とてもいい考えだ」と一も二もなく引き受けた。以前は私も文章を書くのが好きだったが、ずっと発表する場がなかった。そこで、作文コンクールのテーマは「心の声」にしようと提案した。思ったことはなんでも書いていい。日本社会へのポジティブな気持ちでもいいし、もちろんネガティブな気持ちでもいい。ただ、自分の目で見た日本社会を本音で話せばそれでいい、とアドバイスしたのである。

 結果、日本全国からたくさんの文章が寄せられた。私は審査には加わらず、ただ授賞式に出席し、ひと言ふた言あいさつをした。

「私たちは、1人ひとりが民間の友好大使にならなければなりません。物事を立派にやれば、それを見た日本人が『中国人はいいな』と思うし、そうでなければ『中国人はよくない』というでしょう。その意味からすれば、私たち1人ひとりの行動が中国を代表しています。そのため日ごろから善行を多く積んで、立派な人間になるとともに、国家のために中国人のよいイメージを作らなければなりません。私の世代はすでに『夕陽紅』〔シニア世代〕になりましたが、あなた方はまさに日ごとに向上しています。将来、中日関係をリードする重責はあなた方、若い世代が担っているのです。皆さんのがんばりに期待します!」



 私はいま、仕事の範囲でしか他人に影響を与えることはできないが、それでは全く満ち足りていない。プラスエネルギーを広く伝え、中日文化交流を促進するプロジェクトをいくつかやりたい。留学生の作文コンクールなどを続けていき、すぐれた作文は文集にして出版する。それをより多くの中国人に読んでもらい、中日両国の人々の相互理解と信頼を促進させたい。とくに中日関係が険悪化した今日、こうしたことをやるのは、いっそう意義深いと思う。

 来日してからの長い年月を振り返ると、自分は社会の最下層から少しずつ成功へと歩んできたのだなと思う。もし当時出国していなければ、こんなに大きな「トレーニング」を受けることはなく、こんなに大きな変化も発生しなかった。もしも「日本によってもたらされた最大のものは何か」と尋ねられたら、「人生のトレーニングだ! 日本社会は、私の真と善への追求を手助けしてくれた」と答えるだろう。

 善は私たち自身に備わるもの、真は私たちが日本人から学び取るもの。この真とはつまり真実、真摯、誠実さのこと。不動産業だけでなく、どんなことでも、私たちはまじめにやらなければならないのだ。

※シリーズ第1回:同胞の部屋探しを助ける、中国出身の不動産会社社長(前編)


『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』
 趙海成(チャオ・ハイチェン) 著
 小林さゆり 訳
 CCCメディアハウス



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