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なぜ、いま「著作権」について考えなければならないのか?―ヨーロッパの現場から

ニューズウィーク日本版 2016年4月28日 20時0分

 2016年は、パブリックドメインのビッグ・イヤーだった。パブリックドメインとは著作物の著作権が切れて権利者の許諾なしに作品が自由に使えるようになることで、日本でも江戸川乱歩、谷崎潤一郎、中勘助など有名な作家が2016年に死後50年を迎え、作品がパブリックドメインに入った。

 ヨーロッパでは2016年、このパブリックドメインがとくにおおきな話題を呼んだ。2016年は、アンネ・フランクの『アンネの日記』とヒトラーの『わが闘争』がパブリックドメインに入ったからである。

 この「パブリックドメイン」のように、ヨーロッパでは「著作権」の問題がしばしば話題に上がる。ユーザーの権利はどこまで認められるべきなのか、創作物が公共に与える役割とはなんなのか、といった視点から現在の「著作権」を捉えなおす試み、が特にヨーロッパでは非常に活発だ。

「著作権」はいま根本的な見直しを迫られている

 一方で、日本で「著作権」が問題になるとき、こういった視点から論争が起こることはほとんどないように思う。

 無理もないかもしれない。日本にいて日本語のコンテンツを享受している限り、著作権について深く考える必要に迫られないからだ。誰かの創作物に対しては著作権がある、それは守らなければならない。無断でコピーや二次創作をしたり、それで儲けてはいけない。そうするためには権利者に許諾をとる必要がある。それのどこに問題があるんだろう、というのが大半の意見ではないだろうか。

 しかし世界に目を向けてみると、この「著作権」はいま様々なところで取り上げられ根本的な見直しを迫られる、大きな問題となっている。さらにこの問題には、「インターネットとデジタルテクノロジーの発達」という背景が多分に影響している。



 ということでこの記事では、日本では語られない「著作権」の現状を、ヨーロッパ(EU)ではどうなっているのかに焦点を当てて語ってみたい。

 まず、ヨーロッパでなぜ著作権が問題になっているかを知るためには、EUについて知る必要がある。EUとは、簡単にいうとヨーロッパの国々が一つにまとまり、経済や政治の共同体を作っていこうという動きである。そうやってまとまることで、ヨーロッパの一国では敵わない中国やアメリカ、といった大国に対抗したいというのがEUの大元の狙いだ。昨今の金融危機や難民の大規模流入によってEUの共同体としてのあり方に疑問が呈されてはいるものの、EUは設立してから基本的には年々拡大し、またその影響力を増してきた。そして、経済共同体―単一市場をつくるために、人の流通の自由(シェンゲン協定)や関税撤廃、通貨統合(ユーロの導入)などを次々と達成してきた。

 その「単一市場達成」の動きの中で、EUが次に狙っているのが「デジタル単一市場」の完成だ。2015年に発足した新制欧州委員会(EUの政治機関のトップのひとつ)では、「ヒト・モノ・カネの移動の自由化の次は『情報の移動の自由化』である」と銘打ち、「デジタル単一市場の完成」を2020年までのEUの10個の最重要政策のひとつとして位置付けている。

「情報の移動の自由化」とは

 さて、「情報の移動の自由化」とはなにを指すのか? さまざまな事例が考えられるが、たとえばオンラインショッピングをEU域内ならどこでも同じようにできるようにすること、音楽や動画といったオンライン上のコンテンツにどこからでもアクセスできるようにすること、などが挙げられる。情報の移動の自由化とは、「規制を撤廃し、オンラインでのサービスをEU域内のどこからでも同じように受けられるようにすること」と言い換えられるかもしれない。

 ここで問題となってくるのが、冒頭で述べた「著作権」だ。いま、EUでは加盟国28カ国ごとに別々の著作権が採用されていて、ユーザーやオンラインサービス事業者は国が変わるごとに別々の著作権に従わなければならない。これが大きな混乱を呼んでいる。

 たとえば、サービス事業者が国ごとに著作権のライセンス契約を結ばなければならないために、あるコンテンツが特定の国では見られるのに別の国では見られない、通称「ジオブロッキング」と呼ばれる問題がある。日本でも、Youtubeなどにアクセスしようとしたときに「この動画はお住まいの地域ではご覧になることができません」という警告が出て、動画にアクセスできなかったりすることがある。ヨーロッパではこれは日常茶飯事の光景だ。ヨーロッパには物理的な国境はないので、日本で言うと、たとえば東京都から神奈川県に移動したらいきなり動画が見られなくなった、と考えるとわかりやすいかもしれない。

 また、もっと一般的な例では、友達同士でGIF動画や画像などを送りあったり、SNSにアップロードしたりするときに、そのコンテンツを作った人(著作者)、送った人、送られた人―がそれぞれ別の国に住んでいたりすることがままある。そしてそれぞれの国の著作権法はバラバラなのだ。しかも、EUにはヒトの移動の自由の原則があるので、住んでいる場所は簡単に変わりうる。こうなると普通のユーザーにとっては、オンライン上で使いたいコンテンツのすべての著作者に許諾を取って権利処理をいちいち行うことはほとんど不可能だ。



 つまり、いまEUで「著作権」は、国境を越えたオンライン上のやりとりを阻害し、インターネットでのアクティビティを不便にする要因になってしまっているのだ。

 EUがめざす「デジタル単一市場」を完成させるためには、著作権法を統合してこれらすべてのルールを統一する必要がある。しかしここであらためて、「では、どんな著作権にすれば良いのか?」が問われることになる。

 たとえば、フランスでは「パロディ権」―原作者に許諾をとらずに二次創作をする権利―が認められているが、ほかの多くのEU加盟国では認められていない(ちなみに、日本でも認められていない)。これはユーザーの権利として認められるべきなのか? また最近だと、研究のためのテキスト・データマイニングはユーザーの権利として認められるか、という論争もあり、その見解は各国で異なっている。それぞれの国の著作権にはそれぞれの国の歴史があって、それらは簡単に変えられるものではない。

 また、利害関係も複雑にからむ。たとえば出版社や映画配給会社など、各国ごとにライセンス契約を結ぶことで利益を得ている権利者団体は、市場がひとつに統合されるとその分ビジネスチャンスを失ってしまって損をするので、なるべく市場が統合されないことを望んでいる。ユーザーにとってはもちろん、著作権が統合されたほうが便利になる。

 さらにNetflixやAmazon Primeなどオンラインコンテンツを提供する事業者(プラットフォーム)の思惑、インターネットサービスプロバイダーの立ち位置など、著作権は多様なアクターの利益が絡み合い成り立っている複雑なガラス細工のようなものなのだ。これら28カ国の複雑な法体系を統合し、「デジタル単一市場」を完成させるのは並大抵のことではない。

「創作物」の本質はどう変わるのか

 つまり、「変わらなければいけないのは自明だが、どう変えるかを決めるのが決定的に難しい」、のがEUの著作権法の実情なのである。しかし、この一連の動きによって、「著作権」の本質とはなんなのか、特にコピーが無限にできるという性質をもつデジタルコンテンツに付帯する著作権とはなんなのか、といった問いに対する議論が活発に交わされることになった。

 ヨーロッパでは国境を越えたオンラインコンテンツのやりとりがもはや日常化してしまったことで、著作権という社会制度の根本的な見直しを迫られる時期に来ている。そしてその背景には、インターネットとグローバル化という大きな潮流があり、デジタルテクノロジーによって「創作物」の本質はどう変わるのかという視点がある。

 これは必ずしも日本と無関係の話ではない。日本でも、東京オリンピックのロゴマークのような「パクリ」問題が盛んにメディアをにぎわせるように、テクノロジーが著作権のあり方に影響を与えてしまう件は顕在化してきている。そして、AIやヴァーチャル・リアリティといった次なるテクノロジーの発達によって、その影響力はつよくなっていく一方だろう。さらに、TPPなどの国家間の経済協定によって、日本の著作権のルール制度が世界のものと統合されていく動きは確実に来ている。日本でもいまこそ、「著作権とはそもそもなにか? そしてそれは、なんのために必要なのか?」という本質的な議論をするべき時だ。


Rio Nishiyama

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