嘘だろう、と今度も思った。第1報はアメリカ中部時間4月21日午前11時すぎのツイッター。詳細は不明だった。ペイズリーパーク(プリンスの自宅兼スタジオ)で人が死んだ、救急車が来た、ファンが集まっているぞ......。
それでも私たちは、プリンスが死んだとは思わなかった。私たちの時代の集合意識の中で、プリンスは死ぬわけがない存在とされていたからだ。しかし、その建物のエレベーター内で倒れたのはプリンスその人だった。享年57歳。
嘘だろう、「ビートに抱かれて」のビデオでバスタブに浮かぶ彼は、この世の人間とは思えなかったのに。
【参考記事】プリンスはポップス界のアイコンだった
今年は伝説的なミュージシャンの死が続く。ファンは彼らが永遠には生きないと教えられた。みんな死ぬ。最もミステリアスな異次元のカリスマだって。
もっとも、プリンスのファンなら「嘘だろう」感には慣れている。80年に性的倒錯感を炸裂させたアルバム『ダーティ・マインド』が出たときもそうだった。彼はすべての曲を書き、プロデュースし、歌い、あらゆる楽器を自分で弾いていた(ただし2つの楽曲のバックコーラスとシンセサイザーを除く)。
大きな反響を呼んだアルバム『ダーティ・マインド』『戦慄の貴公子』『1999』『パープル・レイン』を、4年足らずのうちに連続して発表したときも「嘘だろう」と思った。
まだある。07年のスーパーボウルのハーフタイムショーに登場してメドレーを披露し、締めくくりの「パープル・レイン」をパープルの人工雨にぬれながら歌い上げたときも、「嘘だろう」と思った。誰だって、あれは史上最高のハーフタイムショーだと認めるはずだ。
副大統領夫人に納まる前のティッパー・ゴアも、娘が聴いていた「ダーリン・ニッキー」(『パープル・レイン』に収録)の歌詞が耳に入ったとき、「嘘でしょ」とつぶやいたらしい(もちろん、褒め言葉ではない)。何しろ内容は超露骨で、ニッキーという女性との一夜を歌ったもの。怒ったティッパーは、際どい歌詞に目を光らせる組織「ペアレンツ・ミュージック・リソースセンター」を設立したのだった。
プリンスのセクシュアリティーは過剰でショッキングだが、人を励ましもした。同性愛でも異性愛でもいい、自分のセクシュアリティーに正直であれ。それが彼のメッセージだった。
伝説の『パープル・レイン』の時代(右上、右下、左上)から昨年の『ヒットアンドラン』ツアー(左下)まで、プリンスもデビッド・ボウイ同様、最後まで自分らしい音楽に取り組み、そして唐突に去って行った(右上から時計回りにRichard E. Aaron-Redferns/GETTY IMAGES, Michael Putland-Hulton Archive/GETTY IMAGES, Chelsea Lauren/GETTY IMAGES FOR NPG RECORDS 2015, Michael Ochs Archives/GETTY IMAGES)
マイケルとのライバル関係
プリンスは下品に見えることをいとわなかった。大胆な官能性と異次元のファンクを武器に、ポップスターの領域をぎりぎりまで押し広げた。
3カ月前に亡くなったデビッド・ボウイのように、プリンスはジェンダー、ジャンル、人種、想像力の壁を軽々と越えた。96年のアルバム『イマンシペイション』の収録曲からも、さまざまなアーティストに影響を与えたことが見て取れる。
プリンスなしにアウトキャストやディアンジェロ、ミゲルは存在しなかっただろう。マイケル・ジャクソンとのライバル関係は、2人をアーティストとしてのさらなる高みに導いた。
プリンスが別のバンドに提供した「ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー」は、たまたまカバーしたシンニード・オコナーを有名にした。また彼が貫いた伝統破りの姿勢は、最近アルバム作りの型にはまった戦略に背を向けているカニエ・ウェストに受け継がれた。
プリンスはポップス界のルールも書き換えた。まずは80年代前半に、黒人といえばもっぱらR&B、といった境界を越え、ポップス界の主流へ躍り出た。その後も、彼は幾度となく音楽界のルールを打ち破った。
神聖と不敬を合体させた歴史的アルバム『パープル・レイン』はその1枚で、20世紀後半における地球のポピュラー音楽を学びたい異星人の教科書にもできそうな作品だ。また「ポップスのスーパースター」と「ギターの天才」を両立できることも証明した。シングルカットされた「ビートに抱かれて」は、ベースラインを省いた極限のギター・サウンドでチャート1位に駆け上った。
歌詞も強い。「シスター」では近親相姦を、「1999」では核爆発による人類の滅亡を、「イフ・アイ・ウォズ・ユア・ガールフレンド」では性別を超越したファンタジーを歌った。そんな時期の金字塔とも言えるのが、2枚組のLP『サイン・オブ・ザ・タイムズ』だ。
その後、プリンスは自らの内に深く沈み込んでいき、「パープル・レイン」や「キス」を愛した一般的なリスナーはついていけなくなった。
転換点は80年代後半、『サイン・オブ・ザ・タイムズ』に続くはずの『ブラック・アルバム』を直前に破棄したことだ。ドラッグのせいか霊的なひらめきのせいかはともかく、彼はこのアルバムを許せなかった。
暗黒の時代から復活して
代わりに発表したアルバム『LOVESEXY』は強烈にスピリチュアルで、しかもCD版は長尺45分で継ぎ目なしの1トラックだった(早送りすれば6分後にヒット曲「アルファベット・ストリート」を聴ける)。
90年代はもっとひどかった。ワーナー・ブラザースとのトラブルで芸名を発音不能な記号に変更し、次々と売りにくいアルバムを発表した。中には『ゴールド・エクスペリエンス』のような傑作もあったが、『カオス・アンド・ディスオーダー』のような失敗作もあった。
99年からはペイズリーパークに引き籠もり、ネットで予約しないと買えないアルバムを何枚か発表した。この時期には私生活での波乱もあった。15歳も若い妻マイテ・ガルシアとの間に生まれた幼い息子が、まれな遺伝子疾患で死去したのだ。
しかし、不死身のプリンスは復活した。04年にはアルバム『ミュージコロジー』を引っさげてツアーを再開している。インターネットの普及も、若い世代の新たなファンの獲得を後押しした。スーパーボウルでの名演はもちろん、ミュージックビデオの予告映像や音楽祭での生演奏は、あっという間にネット上で拡散した。最近は本人もツイッターやインスタグラムを使いこなし、ファンに直接、語り掛けていた。
プリンスは最後まで精力的だった。昨年末には39枚目のスタジオ制作アルバム『ヒットアンドラン・フェイズ・ツー』を、音楽配信サービスのタイダルを通じてリリースした。今年に入ってからも、バンドなしの弾き語りツアーを続けていて、ほんの1週間前には亡きデビッド・ボウイの「ヒーローズ」をカバーしていた。
【参考記事】デビッド・ボウイ、最後のアルバムに刻んだ死にざま
そして死の5日前。珍しく自宅ペイズリーパークのダンスパーティーに顔を出したプリンスはインフルエンザ入院説を軽く笑い飛ばし、「お祈りするのは2、3日待ってくれよ」と語ったと伝えられる。
プリンスよ、安らかに眠れ。パープルの光に包まれて。
[2016.5.10号掲載]
ザック・ションフェルド(本誌記者)
それでも私たちは、プリンスが死んだとは思わなかった。私たちの時代の集合意識の中で、プリンスは死ぬわけがない存在とされていたからだ。しかし、その建物のエレベーター内で倒れたのはプリンスその人だった。享年57歳。
嘘だろう、「ビートに抱かれて」のビデオでバスタブに浮かぶ彼は、この世の人間とは思えなかったのに。
【参考記事】プリンスはポップス界のアイコンだった
今年は伝説的なミュージシャンの死が続く。ファンは彼らが永遠には生きないと教えられた。みんな死ぬ。最もミステリアスな異次元のカリスマだって。
もっとも、プリンスのファンなら「嘘だろう」感には慣れている。80年に性的倒錯感を炸裂させたアルバム『ダーティ・マインド』が出たときもそうだった。彼はすべての曲を書き、プロデュースし、歌い、あらゆる楽器を自分で弾いていた(ただし2つの楽曲のバックコーラスとシンセサイザーを除く)。
大きな反響を呼んだアルバム『ダーティ・マインド』『戦慄の貴公子』『1999』『パープル・レイン』を、4年足らずのうちに連続して発表したときも「嘘だろう」と思った。
まだある。07年のスーパーボウルのハーフタイムショーに登場してメドレーを披露し、締めくくりの「パープル・レイン」をパープルの人工雨にぬれながら歌い上げたときも、「嘘だろう」と思った。誰だって、あれは史上最高のハーフタイムショーだと認めるはずだ。
副大統領夫人に納まる前のティッパー・ゴアも、娘が聴いていた「ダーリン・ニッキー」(『パープル・レイン』に収録)の歌詞が耳に入ったとき、「嘘でしょ」とつぶやいたらしい(もちろん、褒め言葉ではない)。何しろ内容は超露骨で、ニッキーという女性との一夜を歌ったもの。怒ったティッパーは、際どい歌詞に目を光らせる組織「ペアレンツ・ミュージック・リソースセンター」を設立したのだった。
プリンスのセクシュアリティーは過剰でショッキングだが、人を励ましもした。同性愛でも異性愛でもいい、自分のセクシュアリティーに正直であれ。それが彼のメッセージだった。
伝説の『パープル・レイン』の時代(右上、右下、左上)から昨年の『ヒットアンドラン』ツアー(左下)まで、プリンスもデビッド・ボウイ同様、最後まで自分らしい音楽に取り組み、そして唐突に去って行った(右上から時計回りにRichard E. Aaron-Redferns/GETTY IMAGES, Michael Putland-Hulton Archive/GETTY IMAGES, Chelsea Lauren/GETTY IMAGES FOR NPG RECORDS 2015, Michael Ochs Archives/GETTY IMAGES)
マイケルとのライバル関係
プリンスは下品に見えることをいとわなかった。大胆な官能性と異次元のファンクを武器に、ポップスターの領域をぎりぎりまで押し広げた。
3カ月前に亡くなったデビッド・ボウイのように、プリンスはジェンダー、ジャンル、人種、想像力の壁を軽々と越えた。96年のアルバム『イマンシペイション』の収録曲からも、さまざまなアーティストに影響を与えたことが見て取れる。
プリンスなしにアウトキャストやディアンジェロ、ミゲルは存在しなかっただろう。マイケル・ジャクソンとのライバル関係は、2人をアーティストとしてのさらなる高みに導いた。
プリンスが別のバンドに提供した「ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー」は、たまたまカバーしたシンニード・オコナーを有名にした。また彼が貫いた伝統破りの姿勢は、最近アルバム作りの型にはまった戦略に背を向けているカニエ・ウェストに受け継がれた。
プリンスはポップス界のルールも書き換えた。まずは80年代前半に、黒人といえばもっぱらR&B、といった境界を越え、ポップス界の主流へ躍り出た。その後も、彼は幾度となく音楽界のルールを打ち破った。
神聖と不敬を合体させた歴史的アルバム『パープル・レイン』はその1枚で、20世紀後半における地球のポピュラー音楽を学びたい異星人の教科書にもできそうな作品だ。また「ポップスのスーパースター」と「ギターの天才」を両立できることも証明した。シングルカットされた「ビートに抱かれて」は、ベースラインを省いた極限のギター・サウンドでチャート1位に駆け上った。
歌詞も強い。「シスター」では近親相姦を、「1999」では核爆発による人類の滅亡を、「イフ・アイ・ウォズ・ユア・ガールフレンド」では性別を超越したファンタジーを歌った。そんな時期の金字塔とも言えるのが、2枚組のLP『サイン・オブ・ザ・タイムズ』だ。
その後、プリンスは自らの内に深く沈み込んでいき、「パープル・レイン」や「キス」を愛した一般的なリスナーはついていけなくなった。
転換点は80年代後半、『サイン・オブ・ザ・タイムズ』に続くはずの『ブラック・アルバム』を直前に破棄したことだ。ドラッグのせいか霊的なひらめきのせいかはともかく、彼はこのアルバムを許せなかった。
暗黒の時代から復活して
代わりに発表したアルバム『LOVESEXY』は強烈にスピリチュアルで、しかもCD版は長尺45分で継ぎ目なしの1トラックだった(早送りすれば6分後にヒット曲「アルファベット・ストリート」を聴ける)。
90年代はもっとひどかった。ワーナー・ブラザースとのトラブルで芸名を発音不能な記号に変更し、次々と売りにくいアルバムを発表した。中には『ゴールド・エクスペリエンス』のような傑作もあったが、『カオス・アンド・ディスオーダー』のような失敗作もあった。
99年からはペイズリーパークに引き籠もり、ネットで予約しないと買えないアルバムを何枚か発表した。この時期には私生活での波乱もあった。15歳も若い妻マイテ・ガルシアとの間に生まれた幼い息子が、まれな遺伝子疾患で死去したのだ。
しかし、不死身のプリンスは復活した。04年にはアルバム『ミュージコロジー』を引っさげてツアーを再開している。インターネットの普及も、若い世代の新たなファンの獲得を後押しした。スーパーボウルでの名演はもちろん、ミュージックビデオの予告映像や音楽祭での生演奏は、あっという間にネット上で拡散した。最近は本人もツイッターやインスタグラムを使いこなし、ファンに直接、語り掛けていた。
プリンスは最後まで精力的だった。昨年末には39枚目のスタジオ制作アルバム『ヒットアンドラン・フェイズ・ツー』を、音楽配信サービスのタイダルを通じてリリースした。今年に入ってからも、バンドなしの弾き語りツアーを続けていて、ほんの1週間前には亡きデビッド・ボウイの「ヒーローズ」をカバーしていた。
【参考記事】デビッド・ボウイ、最後のアルバムに刻んだ死にざま
そして死の5日前。珍しく自宅ペイズリーパークのダンスパーティーに顔を出したプリンスはインフルエンザ入院説を軽く笑い飛ばし、「お祈りするのは2、3日待ってくれよ」と語ったと伝えられる。
プリンスよ、安らかに眠れ。パープルの光に包まれて。
[2016.5.10号掲載]
ザック・ションフェルド(本誌記者)