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独裁エジプトに再度の市民蜂起が迫る

ニューズウィーク日本版 2016年5月18日 19時21分

<民主化運動(アラブの春)で2011年に独裁者ムバラクを倒したエジプトで、今また人々が権力の横暴に怯えている。民主的に選ばれたムルシを軍事クーデターで倒したシシが恐怖政治を敷いているのだ。市民の拉致・殺害も平気でやってのける政権に、人々の怒りは爆発寸前だ>

 エジプトの大統領が、サウジアラビアの国王に紅海に浮かぶ2つの島をプレゼントした。先月、ちょうど筆者が首都カイロに入った日のことだ。どちらの島もアカバ湾にあり、アカバ湾の奥にはヨルダンとイスラエルの港がある。そんな戦略的要衝を、国王の約束した総額数百億ドルに上る援助と投資の見返りにエジプトが領土を差し出した格好だ。当然、エジプト人は納得しない。

 なぜそんなことを? 筆者が率直な疑問をぶつけると、カイロ人権研究所のモハメド・ザレーはこう言ってのけた。「いい質問だな。誰にも答えられん」

 その翌日、エジプト大統領アブデル・ファタハ・アル・シシは大統領宮殿で大演説を行い、2つの島は昔からサウジアラビアのものだったと断言した。そして勇気ある議員が発言を求めると、「誰にも発言許可は与えていない」と一喝した。その高圧的な態度には大きな非難の声が上がり、ネット上では「発言に許可は不要」というメッセージが瞬く間に拡散した。

 その週の金曜礼拝日は荒れた。休日だから、もともと集会やデモが開かれやすい。その日もカイロ市内には数百人が繰り出してシシの退陣を要求した。もちろん治安警察は催涙ガス弾や実弾を発射して彼らを蹴散らし、活動家たちを拘束した。

「今のエジプトは三流の軍事独裁国だ」と言うのは、エジプト権利と自由センター事務局長のモハメド・ロトフィ。「(チリのかつての独裁者)ピノチェトよりひどい。まともな独裁国家なら経済は発展する。そして国民は人権を手放す代わりに安定を手に入れる。しかし、この国では何も手に入らない。経済は破綻し、活動家やジャーナリスト、NGOが弾圧されている」

 5年前、「アラブの春」の民衆蜂起でホスニ・ムバラクの長期独裁政権は倒れた。しかし、その後に民主的な手続きで選ばれたムハンマド・モルシ大統領は軍事クーデターで失脚。そのクーデターを率いたシシが大統領の座に就いてから2年、エジプトは今、深刻な危機にある。

【参考記事】アラブ「独裁の冬」の復活
【参考記事】エジプトの人権侵害を問わない日本のメディア

「ひどく危険な時期だ」とロトフィは言う。「未来が見えない。政府が脆弱だからではなく、国民が変革の展望を持てないからだ。だが展望がない以上、政府がいつ倒れてもおかしくない」

 そうであれば、エジプトは再び暴力の嵐に見舞われる運命かもしれない。公式な世論調査はないが、国民のシシ離れが進んでいる実感はある。「政府への信頼はまったくない」とロトフィ。「ムバラク時代のほうがましだったという声が、あちこちで聞こえ始めている」



 ちなみにロトフィによれば、ムバラクは抑圧的だったが経済を発展させ、紛争の火種を抱える中近東に平和をもたらすという明確な展望を持っていた。

ピラミッド周辺も閑古鳥

 国内の人権活動家やアムネスティ・インターナショナル、ヒューマン・ライツ・ウォッチなどの国際団体のみるところ、エジプト国民に対する抑圧は過去数十年で最悪の状態にある。全国で6万人が政治犯として拘束され、裁判抜きの処刑が執行されているともいわれている。

 シシはテロとの戦いに必要な措置だと強弁しているが、それで社会の安定がもたらされたとは言い難い。シナイ半島ではテロ組織ISIS(自称イスラム国、別名ISIL)系の武装勢力が思うままに振る舞い、今では誰も近づこうとしない。

 主要産業である観光業には大打撃だ。2、3年前には観光客でいっぱいだったピラミッド周辺も、今は閑古鳥が鳴く。筆者が訪れた日も、欧米人の観光客は数えるほどだった。

 昨年10月末には、ロシアの旅客機が爆弾テロで墜落した。今年1月上旬には、ISIS系と思われる男たちが紅海のリゾートで外国人観光客3人を襲った。

 テロの恐怖、一般市民の拉致、経済の低迷、そして軍事政権の横暴。これらが相まって、国民を絶望の淵に追い込む。エジプトにも民主主義の時代が来ると信じた「アラブの春」の日々は、はかない夢だったのか。

 エジプトにおける「アラブの春」の到来を告げる大規模集会がタハリール広場で始まったのは5年前の1月25日だった。その5周年の日が近づくと、カイロ市内の状況は一段と険悪になったという。警察は活動家と目される人の家を強襲し、あちこちに監視カメラを設置した。

 カイロに住んで20年以上というある外国人記者によれば、「(2014年に虚偽報道の罪で)アルジャジーラの記者が収監されて以来、みんな身の危険を感じている」らしい。

 一般の外国人も危ない。今年1月25日の晩には、自宅付近の地下鉄駅に向かっていた若いイタリア人学生ジュリオ・レジェーニが拉致され、数日後に無惨な遺体となって発見されている。
レジェーニはアラビア語を話し、その研究対象は労働組合だった。もとより軍事政権に歓迎されそうなテーマではない。

 治安当局は事件への関与を否定。強盗の仕業と決め付け、容疑者とされる5人を特定し即刻殺害してしまった。イタリア政府は駐エジプト大使を召還し、エジプト政府に捜査情報の開示を求めたが、エジプト側は応じていない。



「尋常でないのは、おそらく事件と無関係な5人があっさりと消された点だ」とロトフィは言う。外国人を殺していいなら、もう誰を殺してもいい。治安部隊はそう考えているようだ。

 ロイター通信が警察関係者など6人から得た情報として、レジェーニは警察に身柄を拘束されていたと報じると、当局は事実無根として、警察にロイター通信の捜査を指示している。

普通の市民が拉致される

「政治的に言うと、エジプトは治安を制御できない時期にある」とロトフィは言う。「民衆からの信頼も失われ、経済に関しては無力感がある」

 エジプトの失業率は公称11%(実態は20%に迫るという)。観光業は過去最低水準で、食品や日用品の価格は高騰。だが最も深刻な問題は自由の喪失だ。

 レジェーニの遺体はあまりにも損傷が激しく、ある地元記者によると、母親は彼の鼻先だけを頼りに身元確認をしたという。この事件以来、治安当局に対する恐怖と怒りが広がった。

「自分たちのことを超法規的存在と思い込んでいる」とロトフィは言う。「自動車を買っても、奴らはナンバープレートを付けない。治安当局のシンボルである鷲のマークを貼るだけだ」

 ロトフィの執務室の外には、イブラヒム・メトワリという弁護士がいた。失踪者の家族会を設立した人物で、彼の息子も13年7月8日に失踪したままだという。当時はまだ学生だった。メトワリによれば、息子は政治的でもなければ、シシ政権が目の敵とするムスリム同胞団に属していたわけでもない。

 徒歩で帰宅中に目隠しをされ、路上で連れ去られたというのが最後の目撃情報だ。その翌日、父親はあちこちの病院、遺体安置所、警察署を捜し回った。警察では内務省に相談するように指示されたという(人権団体によると、内務省こそ多くの拉致事件の黒幕だ)。

 失踪から3年近くが過ぎた今も、メトワリは息子がきっと生きていて、シナイ半島付近の拷問で悪名高いアズーリ刑務所にいる可能性が高いと思っている。捕まえられた理由は不明だし、何らかの罪を問われた記録もない。だからメトワリは息子の失踪当時の国防相、つまりシシに対して訴訟を起こした。

「わが子なのだ。自分の一部と変わりない。見つけるまで諦めない」と、父親として語るその声は震えていた。「息子なしに生きてはいけない」

 弁護士ゆえにメトワリはこの国のややこしい司法制度に詳しい。今は子供や親族が失踪しても捜す手だてがない人たちを助けている。遠方に住み、「失踪届を出すためにカイロへ来るバス代も持っていない」貧困者もいるからだ。



「ムバラクよりひどい」とメトワリは言う。この日、筆者は同じ言葉を何度も、何人もの取材相手から聞かされた。

 その一人が、マナル・イブラヒム・サラム。彼女の息子(24)は2年前から行方不明だ。何か手掛かりはないかと、自宅からバスで約3時間かけてカイロに通い、遺体安置所を確認して回る日々が続く。「息子の消息を知るためならどこにでも出向き、誰とでも話す」。しかし、当局は何もしてくれないと言う。

 姿を消すのは、学生や政治活動に関わっていると疑われた人々だけではない。

 アヤ・ヒジャジー(29)は、米ジョージ・メイスン大学で紛争解決学を学んだアメリカ人だ。アイルランド在住でグーグルに勤める兄のバセルによれば、彼女は状況改善の力になりたいとカイロに渡った。

 彼女は夫と共に、ストリートチルドレンのための慈善団体「懸け橋」を立ち上げた。だが、程なく逮捕され、2年近くカイロの女子刑務所に収監されている。裁判は5回延期された。彼女は読書家で、絵も得意だ。「絵はもともとうまかった」が(刑務所では絵を描くしかないので)「相当腕が上がったはず」と話すバセルの声は暗い。

 ヒジャジーは「ストリートチルドレンという巨大な問題の解決に乗り出そうとしていた」。そのために、主として公衆衛生やセクシュアル・ハラスメントや児童福祉に関する問題の解決に当たるNGOをエジプトに設立した。

 だが小さなミスを犯し、罠に落ちた。当局からNGOの正式な登録番号を取得する前に活動を始めてしまったのだ。

 彼女が捕まると「なぜか」新聞各紙による個人攻撃が始まった。父親はレバノン人、母親はエジプト人なのに国籍はアメリカだから、だろうか。

 ヒジャジーは人身売買や児童虐待の罪に問われた。家族も友人も、周囲の人権活動家も、そんなことは信じていない。「見せしめなのは明らかだ」とバセルは言う。「若者にこう警告したいのだ。今とは違う世の中がお望みか? 政府の代わりに人助けをしたいか? やめろ、刑務所行きだぞ、とね」

「市民社会との戦いだ」

 治安当局による弾圧の強化は、今の政府には何でもできるという事実を国民に見せつける手段だと、カイロ人権研究所のザレーは言う。「これはテロとの戦いではない、市民社会との戦いだ。治安機関が暴走している」

 体制側にとって、5年前の春は悪夢だった。だから、その再現は許さないと固く決意している、とザレーは言う。



 地元ジャーナリストの大半は身を潜めている。アルジャジーラ記者の収監以来、外国人記者もエジプトへの渡航や取材に慎重になっている。政治の腐敗を追及したアラー・アブデル・ファタハなど、著名な政治ブロガーも収監されている。

 筆者がエジプトで話を聞いた人々の大半は、抑圧と恐怖による支配は続かず、間もなく転換点を迎えると考えている。5年前の革命を後押ししたのは、物価の高騰とソーシャルメディアの台頭だった。今まさに怒りが充満しており、民衆蜂起に発展するのは時間の問題だ。

 先月19日にはカイロで紅茶の値段をめぐる口論から、警官が露天商を射殺する事件が起こり、デモに発展した。「みんな、こんな生活にはうんざりしている」と、ある女性弁護士は言う。

 やはり女性弁護士のヤスミン・ホッサムは、作品中の性描写ゆえに14年から収監されている作家アハメド・ナジの弁護を引き受けている。

 ナジは禁錮2年を言い渡され、ホッサムらは控訴中だ。「今のエジプトには越えてはいけない一線があり、自由な発言は許されない」とホッサムは言う。「表現の自由はない」

 そんなホッサムにとって、5年前の革命は「私たちにとって最高の出来事」だった。むろん、後悔などしていない。「単純なことだ」と彼女は言う。「今は法の支配がない。彼らは改革者をたたき、外国人を殺し、作家を刑務所にぶち込む。誰も安全じゃない。あまりにも多くの血が流されている」

[2016.5.17号掲載]
ジャニーン・ディジョバンニ(中東担当エディター)

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