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歴史を反省せずに50年、習近平の文化大革命が始まった

ニューズウィーク日本版 2016年5月19日 15時27分

<権力集中、人権抑圧、裏切り者探しを推進する習近平の政治手法は、毛沢東の文革に似ている。身辺に紛れるフルシチョフのような修正主義者を狩ることを目的に始まり、日中戦争や国共内戦をしのぐ惨禍をもたらした過ちが再び繰り返されるのか>

 ちょうど50年前の66年に、中国共産党の中央政治局拡大会議は「中国共産党中央委員会通知」を全土に向けて公開した。この公文書は配布された5月16日にちなんで「五一六通知」と呼ばれる。毛沢東の権力闘争、文化大革命(文革)の発動が正式に宣言された歴史的文書だ。

 この通知に「われわれの身辺に眠る、フルシチョフのような人物を警戒しなければならない」との有名な一節がある。欧米と平和共存を図ったソ連のフルシチョフ政権は、社会主義の道から外れた修正主義の象徴。「党と政府、軍隊と文化領域に潜り込んだブルジョアの代表らを一掃しよう」と呼び掛け、文革の号砲は打ち上げられた。

【参考記事】毛沢東の衣鉢を受け継いだ習近平を待つ「未来」

 誰が「毛の身辺に眠るフルシチョフ」か、疑心暗鬼の政争が繰り広げられた。やがてそれは国家主席の劉少奇や鄧小平らを指していると明らかになり、彼らは失脚。10年余りにわたる動乱の果てに1億人が迫害され、犠牲者の総数は500万~1000万人に達したと政府でさえ渋々認めている。日中戦争や国共内戦をしのぐ惨禍が、「帝国主義と封建主義の圧政から人民を解放した偉大な中国共産党」と「全国人民が敬愛する偉大な領袖・毛沢東」によってもたらされた。

眠れるフルシチョフ再び

 その後、共産党はそれなりに毛の負の遺産を清算した。81年の第11期六中総会で「歴史決議」を採択し、公的に文革を否定した。以来、この決議は文革のような政治運動の再発を阻止する記念碑的な役割を果たしてきた。

 しかし中国の体制は文革に復帰しつつあるようだ。13年1月、総書記に就任して間もない習近平(シー・チンピン)は決議の見直しを正式に求めた。毛時代と文革期を全面的に否定してはならない、と演説で指示したのだ。

 今年4月には広東省東部の汕頭で文革批判を行う博物館が閉館に追い込まれた。この博物館は文革で被害を受けた元副市長の発案と寄付で04年に開館。「文革は毛の夫人、江青ら四人組の謀略で発動された」という、従来の官制史観に則して設置されたが、もはや存続は許されなかった。館内の展示はすべて「愛国主義」に沿って改編され、高齢の元副市長も軟禁された。

【参考記事】毛語録から新華僑まで 中国が張り巡らす謀略の糸



 注目すべきは内陸部の重慶市にある紅衛兵墓園が閉鎖されたことだ。67年を中心に現地で繰り広げられた武闘による死者400人余りが眠る。習政権はここが聖地化されるのを恐れている。紅衛兵は文革初期の66年初夏に誕生した当初、習と同じく高級幹部の子弟ばかりから成っていた。今や太子党として政財界に大きな影響力を持つ彼らが紅衛兵として殺人を繰り返し、文化財を破壊し、孔子の墓を暴いた。

 やがて彼らの父親たちが毛によって粛清されたのを受けて退潮。紅衛兵は次第に「造反派」と呼ばれる庶民の子供が占めるようになった。重慶で多くの死者が出たのもこの頃だ。

 文革終息後、悪事の責任はすべて造反派に転嫁され、太子党は権力を掌握した。重慶の墓地に詣でれば、そうした政治的な不公平は一目瞭然のため、政府は警戒を強めている。

 習政権は国民に対し文革の研究と記憶を抑圧する一方、政治運営は文革期に逆戻りしている。今月初めの党機関紙・人民日報に、習が1月に行った演説が掲載された。「共産党内に野心家や陰謀家がいる。わが党の基盤を内側からむしばみ、見過ごすことはできない」という表現は、五一六通知の「眠れるフルシチョフ」を彷彿させる。

 習政権の強引な政治手法や個人崇拝の推進、国民への抑圧は世界から指摘されている。今年1月に習の意をくむ査察団「巡視組」を政府直営の研究機関、中国社会科学院に派遣。「西側からの誤った言論と思想を伝播してはならない」と通達した。

【参考記事】文革を語った温家宝の狙い

 文革で副首相の座を追われた習の父仲勲(チョンシュン)は、文革の原因は毛個人への極端な権力の集中が一因だと話していた。今は天国で息子のことを嘆き悲しんでいるに違いない。

[2016.5.24号掲載]
楊海英(本誌コラムニスト)

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