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天安門事件から27年、品性なき国民性は変わらない

ニューズウィーク日本版 2016年6月3日 17時16分

<1989年6月4日の天安門事件後、多くの国外亡命者を取材してきた。「中国政府を打倒したら......」と議論する者、一次資料をアーカイブに残そうとする者......。魯迅が100年前に失望した中国人の精神構造は、27年前の天安門事件を経て、経済発展を遂げた今、改善されただろうか>(写真は香港の「六四記念館」館内。天安門事件に関する資料や写真を展示する同館は年内に閉鎖される見通し)

 1989年に北京で民主化運動が弾圧された天安門事件から27年が過ぎた。「血の日曜日」と呼ばれた6月4日を前に、香港では5月29日、事件の評価見直しと中国で拘束されている民主活動家の釈放などを訴えるデモがあった。だが参加者は昨年より少なく、1500人程度にとどまった。今では事件を知らない人が増え歴史の一部に埋没した感があるが、決して忘れてはならない事件だろう。

 天安門事件は私にとっても印象深い記憶のひとつだ。まだ駆け出しの物書きで、横浜に住んでいた私にいきなり海外取材の依頼が飛び込んできた。事件から半年後、私はおそるおそる亡命者たちを追ってアメリカとフランスへ行き、世界中から押しよせたメディアの強者たちに翻弄されつつも、なんとか多くの亡命者にインタビューして『柴玲の見た夢――天安門の炎は消えず』(講談社)を書いた。その後、10年間の追跡調査をして『「天安門」十年の夢』(新潮社)を書いた。いまも数人の亡命者とは時々交信し、いわば私の人生の大切な一部になっている。

【参考記事】天安門事件、25周年

 この27年という歳月は、亡命者たちの運命を大きく変えた。かつて「民主の女神」と呼ばれてノーベル平和賞の候補になった学生リーダーの柴玲は、アメリカ人男性と結婚して3人の子の母になった。学生リーダーだったウアルカイシは台湾人女性と結婚して台湾に移住し、肉親の死に目にも会えなかった。孤児同様に育った李禄はアメリカで投資会社を設立し、世界で3番目の富豪だとされるウォーレン・バフェットの後継者のひとりとなり、中国株を大量に取得して最近の経済ニュースで報じられた。

 訃報も相次いだ。「学生デモの影の指導者」として国を追われた天体物理学者の方励之は、米アリゾナ州の大学で終身教授に就任したが、2012年、大学の講義から帰宅した直後に突然死した。享年76。文化大革命時期に22年間投獄されながら、中国社会の実態を告発しつづけ、「中国の良心」と呼ばれたノンフィクション作家の劉賓雁は、2005年に米ニュージャージー州で病死した。享年80。その劉賓雁に取材したとき、彼は私に「あなたの見たまま感じたままを、良くも悪くもありのままに書きなさい」と、力のこもった眼差しでアドバイスしてくれた。

亡命者たちは「新政府」について議論していたが

 難しいのは、事件の歴史的評価と亡命者の個人的評価はまるで別物だという点にある。



 とにかく亡命者たちはよく集まって会議をした。亡命初期には「天安門事件の悲惨な結果を招いた責任は、だれにあったか」という議題が中心だった。無論、武力弾圧した中国政府の責任は重いが、民主化運動を主導した我々にも「非」があったのではないかという反省のもとで、学生と知識人は互いに激しく批判しあい、いがみあった。

 数年後の会議では、議題は未来のことに転じて、「中国政府を打倒した後、どのような新政府を樹立すべきか」について話しあった。彼らはまず「国旗」を決めた。次いで「綱領」を作った。それから「新政府の各省庁」を設立した。無論、紙の上でのことである。その後のことは、会議場を提供したアメリカのホテルで大きな笑い種になった。

 亡命者たちは、だれが大臣に就任するかで激しい論戦になり、挙句の果てに取っ組み合いの喧嘩が始まったのだ。

 世界中から集まった亡命者数十人の宿泊費と会議場のレンタル費用はかなりの金額になったはずだが、全額を支援したのは香港の財界だったから、いわば金をどぶに捨てたのも同然だったろう。しかし当時、米国のクリントン大統領の誕生日に大金をプレゼントしたという噂が流れた香港のある財界人は、会議の結末を聞いても怒りもせず、「彼らは金があると元気になって論争する。金がないと途端にしょんぼりする。でもやっぱり捨ててはおけないしね」と、鷹揚に笑った。

 日本で民主化運動に専念していたある中国人留学生は、その話を聞いて溜息まじりに首を振ったが、直後にこう言った。

「新政府ができたら、僕は駐日中国大使になりたいです」

 絵に描いた餅である。他力本願で夢想する話に、いったいどう反応せよと言うのだろうか。

 その一方、27年間にわたって地道に活動してきた亡命者も存在する。天安門事件当時のビラやメモ、写真や録音テープなどの一次資料から、世界中で配信された新聞、動画、雑誌記事、図書などを収集して分類し、インターネット上で「天安門事件図書館」を開設した。資料は40万点にものぼる膨大な量に膨れ上がった。いつか、だれかが、天安門事件の実態を分析し、再評価することにつながると信じているからだ。

魯迅は100年前、辛亥革命に失望した

 振り返れば、孫文の辛亥革命に失望したのは作家の魯迅だった。

 100年以上も前の話だが、封建的な清朝政府こそ中国の諸悪の根源だから、それを倒せば立派な国家ができるにちがいないと、だれもが期待した。だが、1911年に辛亥革命が成功してみれば、闘争と略奪の区別もなく、革命と反革命の区別もなく、ただ混乱の極みがあるばかりだった。魯迅は怒りのあまり『小雑感』として皮肉な一文をつづった。



「革命、反革命、不革命。
革命者は反革命者に殺される。反革命者は革命者に殺される。不革命者は、革命者と見なされて反革命者に殺されるか、反革命者と見なされて革命者に殺される。あるいは、何でもないものとされて革命者、もしくは反革命者に殺される。革命、革革命、革革革命、革革...」(『魯迅評論集』竹内好編訳、岩波文庫、1981年)

 中国の革命とは、動乱によって古い支配者が倒れても、次に登場するのはまた同じような支配者にすぎない。清朝時代の小役人は肩書をすり替えただけで、相変わらず同じ地位に居座っている。新たな支配者はまたぞろ汚職にまみれた官僚社会を形作った。なんと浅ましい姿だろうか。「革命」とは、いったいどういうことなのかと、魯迅は思ったのである。

 平和で進歩的な国家をつくるにはどうしたらよいのか。魯迅は悩んだ末に、ひとつの方向性を見出した。

 国民性の改造――である。

 国家と国民の関係は、表裏一体のものである。国民に品性がなければ、国家にも品格など備わるはずがない。品性下劣な人間は汚職にまみれた支配者だけに限らず、抑圧されていると信じこむ者のなかにも、他力本願と自己愛の精神構造がしみ込んでいる。

 平和で進歩的な国家を創出するための努力をするのと同時に、健全な心を持つ国民を育成することこそ大切なのだ。魯迅はそのために数々の小説を書き、辛辣な言葉で国民のえげつなさを告発し、社会に警鐘を鳴らした。

 今年は魯迅が没して80年がたつ。だが、今、国民性は改善されたのだろうか?

 その答えはおおいに疑問だ。国家権力の関与しないはずの社会問題で、人間性を疑うような残虐な事件は後を絶たない。有毒物質入りの食品販売や偽ブランドの数々も目に余る。マナーの悪さは世界中から指摘されている。

 国民性の改造は、100年前の辛亥革命の時代も、27年前の天安門事件のときも、そして21世紀をむかえて経済発展した現代でも、中国の宿命的な課題のひとつなのではないだろうか。

《筆者の過去の記事》
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だから台湾人は中国人と間違えられたくない
それでも中国はノーベル賞受賞を喜ばない

[執筆者]
譚璐美(タン・ロミ)
作家、慶應義塾大学文学部訪問教授。東京生まれ、慶應義塾大学卒業、ニューヨーク在住。日中近代史を主なテーマに、国際政治、経済、文化など幅広く執筆。著書に『中国共産党を作った13人』、『日中百年の群像 革命いまだ成らず』(ともに新潮社)、『中国共産党 葬られた歴史』(文春新書)、『江青に妬まれた女――ファーストレディ王光美の人生』(NHK出版)、『ザッツ・ア・グッド・クエッション!――日米中、笑う経済最前線』(日本経済新聞社)、その他多数。


譚璐美(作家、慶應義塾大学文学部訪問教授)

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