<『国境なき医師団』に取材され、結局、ハイチを訪れることになった いとうせいこう さん。ハイチのコーディネーション・オフィスに到着すると、校長先生みたいなツンデレのポールが出迎えてくれた...>
前回記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く2(イースターのハイチ)」
知りません
「えっと、黒人による革命で、あの、支配者だったフランス人、とかを追い出して、それで共和国を作ったのがハイチで、つまり奴隷が作った、世界で唯一の、えっと国家です」
俺はしどろもどろで、必死に答えた。
OCA(オペレーション・センター・アムステルダム)のリーダーであるポールに『ハイチの歴史』を問われたからである。
しかし、俺の答えに対するポールの反応はきわめて冷たかった。
「いつ?」
「......」
「いつそうなった?」
我らのポール校長は曖昧な把握を許さないのだった。
俺は降参するように口を開いた。
「知りません」
第一に、緊張して英語がうまくしゃべれなかった。取材旅行の話を聞きつけた友人が、自分が開校する寸前の英語学校で一ヶ月の、それもインタビューに特化した訓練を施してくれたにもかかわらず(GCAI、ありがとう。そしてごめん)。
第二に、俺が口に出したのは付け焼き刃の知識だった。
俺は日本からの長い飛行時間の一部を、昔ハイチ地震のチャリティにかかわったあとに買ったままだったエッセイ集を読むのに使い(あとはひたすら寝ていた)、初めて出会うハイチ出身の亡命作家エドウィージ・ダンティカの奥深く慈悲と苦痛に満ちた筆致にしびれながら、彼女の小説を二冊、なぜか自分が読みもしないのに偶然手放さないでいたことに驚いていた(ただし今年に入って急激により多くの物質を捨てるという、人生の終わりを見越したブームの余波を受けたはずだ)。
それはともかく俺は、エッセイ集『地震以前の私たち、地震以後の私たち』(作品社)にこうあったのを、ポール校長の前でいかにも以前からよく知っていたかのように語らなければと焦ったのだった。
そして、冒頭のように失敗したわけである。
では、ここでかわりに、エドウィージ・ダンティカの簡潔な名文(1904年)を呼び出しておこう。 「西半球で二番目の共和国が作られてから、二百年が経った。建国当時、最初の共和国、アメリカ合衆国からは何の祝賀の挨拶もなかった。新共和国ハイチは、十二年間にわたる血なまぐさい奴隷蜂起を通して独立を勝ち取っていた。世界の歴史のなかで、奴隷たちが主人を権力の座から引きずり下ろし、自らの国家を造ることに成功したのは、この一例だけだ」
そしてポール校長の授業が始まる
我らのポール校長もまた、この「独立」をめぐる年号を、出来の悪い生徒である俺を指さしながらゆっくり発音した。
「1804年だよ」
「......1804年」
俺はオウム返しに答えた。こういう時は素直が一番だ。
校長はそれからのち、部屋の壁に貼られた地図や、空を指さしながら、俺に長い授業をしてくれたのである。なんのメモもなしに。
今から200年以上前、宗主国フランスが革命のまっただ中である頃、遠く離れた中米ハイチでは、アフリカから数百年間連れて来られ続け、労働させられ続けていた黒人奴隷たちが大量に脱走し、蜂起した。
それがハイチ独立宣言からさかのぼること13年前。すなわち1791年のことなのであった。
自らは革命を目指していながら、フランスはハイチの黒人革命を認めようとしなかった(優れた幾つかの議論は国内であったものの)。がしかし、そのフランスを囲むイギリス、スペインなどがすかさず反革命戦争を起し、外地ではフランスの植民地を奪おうとする。
皮肉なことにフランスがとったのは、黒人奴隷に武器を与えて戦わせるという策であった。そのため、1793年、奴隷解放宣言が出され、翌1794年には本国議会においても奴隷制廃止が決議されることとなり、70万人の奴隷が一気に解放されるのだ。
この事実だけでも実に驚くべきことだ。世界のほとんどの人間が知らされていない。18世紀にすでに、黒人が自らの手で革命に成功していたなんて。
そして俺はここに小声で、もうひとつ重要な事実を書き記しておきたい。黒人奴隷解放直後の1795年、今のドイツでエマニュエル・カントが『永遠平和のために』を発表しているのである。のちの国連の礎となり、日本国憲法九条の奥にも流れていると言われる思想は、ハイチの奴隷解放宣言に影響を受けている可能性がある。
少なくともカントが永遠平和の構想を練っている時、ヨーロッパはフランス革命のみならず、ハイチ革命に揺れていたのだ。
さて、時間を越えたこの原稿上の脱線を知らないポール校長は、当時の俺の目の前を右に左に歩きながら、まだまだ君が驚くべきこと(「remarkable」という単語を彼は何度もゆっくりと強調して使った)があるんだ、と指を柔らかく立てて言った。
なぜならその後、フランスにはナポレオンが登場するからだよ、セイコー、わかるね。
「はい」
彼らは1801年、遠征軍をハイチに送り、奴隷制復活を狙う。そしてハイチ側の指導者トゥサン・ルヴェルチュール(ちなみに、この英雄は憲法作りを主導し、なんと「人に隷属することは永久に廃止される」と、世界中の人権宣言の先駆けのような条項を公布する!)をだまし討ちにし、フランスにおびき寄せて監獄に入れて殺してしまう。まったくひどい仕打ちだ。
しかし、セイコー。
いや、ここには帰国後にそこそこの勉強をした俺の言葉も十二分に混じっているのだから、そろそろ正直に、読者諸君!と呼びかけよう。
読者諸君!
ハイチで奴隷であった黒人、そして現地の白人との間に生まれた混血ムラートが1802年に団結をするのだ。ナポレオンの反革命がかえって彼らを奮起させてしまうのである。歴史の狡知、とヘーゲルなら言うかもしれない。
そしてハイチ革命軍は"驚くべきことに"連戦連勝、翌年には早くもフランス軍を完全敗北させ、さらに次の1804年、総司令官デサリーヌらが「フランス支配のもとで生きるより死を選ぶことを、未来の人々と世界に誓う」と血のたぎるような独立宣言を行う。
だが、ハイチは他国から独立を認めてもらえなかった。
そして世界最初の独立宣言をしたアメリカからの無視(彼らはハイチの影響によって完全な奴隷解放が行われるのを恐れたのだった)、元宗主国フランスの「独立を認めるから多額の賠償金を払え」という法外な要求などにより、苦難の歴史をたどるのである。
貧困が常に彼らを襲う。コーヒーや砂糖作りというかつての産業は、宗主国たちが奴隷貿易を介して作り上げたものだから。そして建国直後に払わされた賠償金を返すために、彼らはさらに借金をさせられたから。
その上、ハイチの政治も安定しない。
21世紀になっても大統領選をめぐって反政府勢力が蜂起し、不正選挙だと言って世界銀行が援助を停止し、アメリカ軍が駐留し、国連派遣団が入り、あるいは2004年には森林伐採の影響もあってハリケーンで2000人の死者を出した。治安は悪化した。
権力はムラートに集中し、支配下に置かれた黒人の間にはしかし、誰の言うことも聞かない誇り高い伝統が存在し続けている。それがハイチだということになる。
そういうすべてを経た上で、読者諸君。
ここで語り手をポール一人に譲ろう。
「2010年に大地震が起きたんだよ」
このような視点で援助を考えるリーダーがいることに、俺は目が開かれる思いがし、すっかり感じ入ってしまった。
地震以後、「写真を撮り、あれこれ約束し、結果何もしない」者たちに対してハイチ人がいら立つ、その怒りの根本を理解しなければ、彼らを本当に救援することが出来ない。
ポールの言っていたことが、授業の後の俺にはよくわかった。
本来、ハイチは尊敬されるべきなのだった。
全世界から。
モハマド、マタン、マリーン
もといたソファに戻ると、ロジスティック(物資調達管理部門)・コーディネーターのモハメド・アリ・オマールと、サプライ・マネージャー(供給部門)のマタン・ムティマがいた。前者はスーダンから、後者はコンゴ民主共和国から来たスタッフだ。もちろんアフリカ人である。
彼らは屋敷の外の気持ちのいいテーブルへ我々を導き、地図を広げてどの地域の治安が不安定か、季節によって外出禁止地域の時間帯が変わること、最近の誘拐犯の手口についてなどを説明してくれた。説明の一部には「どこなら歩いていいか」というものがあったが、笑ってしまうくらい狭いエリアだけでしかも時間に制限があった。
宿舎にて
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途中、ユーモラスな表情でモハマドが俺の背後を指さした。ガサガサ音がして、枯れ葉の中を大きなトカゲが通るのがわかった。そのトカゲにさえ気をつける必要があるのかと俺は思ったが、毒があるのかとか噛むのかとか確認するのはためらわれた。我ながらナーバスになり過ぎているのではないかと思って。
(危険区域を説明するモハマド。ほとんどすべてのエリアがそうだった)
次に邸内に戻り、フランスから来ているマリーン・バーセットという女性看護師にレクチャーを受けた。主に妊産婦のこと、未熟児のこと、性暴力被害のことなどについてだが、これらに関してはのちのち病院や救援センターを訪ねたレポートを書く予定なので重複を避ける。ともかく、医療コーディネーターを務めるマリーンはハイチの様々な状況を説明しては苦笑し、何度か頭を振った。
「ひどい話」
と言いながら。確かに残酷なデータが多かった。やせ型でめがねをかけ、ノースリーブから出した肩にそばかすが見えているマリーンは少し疲れているように感じられた。
そろそろ宿舎に移動しようということになった。彼女も同じ宿舎で生活しているので、ひとつの四駆に乗っていきましょうと言われた。
帰り支度を始めた彼女に、
「あなたは看護師ですよね? 何をきっかけにMSFに参加したんですか?」
と聞いてみた。
今回、会う人ごとに投げかけようと思っていた質問だった。
すると、マリーンは初めて柔和に、そして恥ずかしげに微笑み、フランス訛りの英語でこう答えた。
「逆よ。MSFに入りたくて看護師になったの」
理解に一瞬時間がかかり、そのあとジーンとシビれてしまった俺をしりめに、マリーンはバッグにすべてを詰め終え、立ち上がって薄暗い部屋から明るみへと出ていった。
宿舎にて
マリーンとポールと谷口さんと四人で「帰った」宿舎は、センターから車で15分くらい登った山の邸宅群の中にあった。
狭く急な坂道沿いの宿舎の鉄扉が開き、四駆が中の斜面をぐらぐら上がっていくと、山肌に庭があり、芝生が生え、たくさんの木が伸び、屋敷のあちこちからブーゲンビリアが赤く垂れて咲いているのが見えた。まるで優雅な別荘のようで、俺は自分の目が信じられなかった。
しかし二階建てのそこに多くの部屋があり、シャワー施設やトイレが複数存在し、キッチンが充実していること、あるいは鉄扉の入り口脇にガードマン(ただし丸腰。MSFの施設に入るにはあらゆる武器が放棄されねばならない)の小屋のスペースがあることなどを思えば、確かに次々交替していくスタッフの拠点として適していた。おそらく借り賃も手頃なのだろう。ポールの見積もりかもしれない。
そして何より、よく見てみれば、庭を囲む塀の上には厳重に鉄条網が巻かれていた。内部は「優雅」だが、少しでも外に出れば「緊張」が支配しているのだ。
部屋をもらい、入っていくとタイル床の真ん中に四角いベッドがあり、その上にピンク色の蚊帳が吊ってあった。窓際には簡素なテーブル。その上でカーテンが半分閉じられていたが、窓の上の左右に飛び出た木枠に棒が渡され、そこにカーテンの輪っかが幾つか通されているだけなので、気をつけて操作しないと落ちてきた。
蚊は大敵だった。特にその頃はデング熱に注意しなければならなかった。
俺は待ち合わせまで二時間あったのでスマホに話しかけて目覚まし時計のアプリをセットし、出発直前までピンクの蚊帳の 中で仮眠することにした。
すぐに眠気は来た。しかしコール音で起こされたのは感覚的にわりとすぐで、まるで泥の海から立上るようにして俺は覚醒せざるを得なかった。時差ボケがなぜこんなにひどいのかと、ベッドに腰をかけたまま、何度も腕時計とスマホを見比べた。胃がムカムカしていた。
宿舎到着の直後に、ポール校長が言っていたことを思い出した。
今はサマータイムなのだけれど、それを海外に宣言するのが遅れただか、しなかっただかで、非常にローカルな形でハイチ時間が進んでおり、つまり飛行場で教わって直した腕時計の時間と、WIFIでつないでいるスマホの世界時計上の時間がちょうど一時間違っているのだった。
俺はぐらぐらする頭でそのまま起き、シャワーを浴びたように記憶する。
そして部屋のドアにふたつあった錠をロックしてみようと思いつき、テーブルの上にあったカギを下に入れ、上にも入れた。通常どちらかしかかからないカギが、なぜだろう下にかかったまま、上にもかかった。上の錠の奥の方におかしな感触があったから、あり得ないことを起こしたのは上だろうと思われた。
俺は自分の部屋から締め出された。
カギをいくら再び錠の中で回してもびくともしない。
そのままだとどう困るかを、薄暗い屋敷の中で考えた。まずメモ帳がない。数日となると着替えもなく、帰国時のパスポートも飛行機のウェブ予約を印刷した紙も中だった。次第に俺は、自分が窮していくだろうことがわかった。
広報の谷口さんはダイニングとホールをはさんで向こう側の部屋群で、たぶん仮眠を取っているはずだった。助けも呼べない。
がちゃがちゃやってはため息をついていると、隣の部屋からふわっとアフリカ人があらわれた。Tシャツにコットンパンツにサンダルという姿だったと思う。確か屋敷到着のあと一瞬だけ挨拶をした青年で、とても優しく握手をし、すぐに荷物を持とうとしてくれたり、眠くないかと話しかけたりしてくれた人だった。吃音があったが、しゃべるのをやめない明るさと勇敢さがあった。
名をオルモデと言った。
俺は彼の腰があまりに低いので、すっかり屋敷の管理人の一人だと思い込み、
「これ、なんとか直らないですかね?」
とちょっと苦情交じりの調子で言った。おかしなピッキングをしてしまったのは自分なのにだ。
オルモデは俺の手からそっとカギを受け取り、何度も錠の中に入れて試し、そのうち同情に満ちた顔つきで、
「下の階に行って、マスターキーを探してきます」
と申し訳なさそうに言った。
「お願いしますよ!」
と俺はその背中に呼びかけたものだ。おそらく俺が出かけたあと、彼はありとあらゆる方法を実行したのではないか。
結局、オルモデはドアを開けることが出来ず、カギは差したままで置かれていた。
そして、その夜の楽しい夕食を済ませての帰宅のあと、俺自身があの変な感触でもって錠を無理やりこじ開けてしまうのだが、そんなことよりその青年、オルモデ・ファニヤンがナイジェリア出身の優秀な疫学の医師で、MSFのミッションを終えてアメリカの研究室に移る時期だったことを、俺は数日後に知る。
他人の苦境にすぐさま反応して解決に尽力してしまう人間を、俺は"ドアも開けられない管理人"だと見くびっていたのだった。自分中心でない人を。
あの優しい青年を。
濃い一日の終わり
ああ、色々書くうち、日本人スタッフの菊地紘子さんと待ち合わせて出かけた、限られた安全な地域にあるレストランでの夕食時の話を紹介するスペースがなくなってしまった。
イースターならではの愛らしいサマーワンピースであらわれた若き看護師である彼女が小型犬を連れて来たように見えたけれど、その犬は隣の屋敷から勝手について来てしまったまったく知らない動物であること、彼女がすでに中央アフリカで二年ほどのミッションを終えていること、「ハイチは道路が舗装されていますから恵まれています!」とレストランでうれしそうに言ったこと、彼女もまたマリーンのように「MSFで働きたくて看護師になった」こと、より厳しい状況に置かれたアフリカの国々で医療をしたいがために学生時代にフランス語を習ったこと、などなどを記事にするのは大変有意義だと思うのだが、他の取材でのさらに興味深い彼女のエピソードがてんこ盛りにある。
(紘子さんについてあらわれた隣家の犬。この日以降、たびたび俺に飛びかかってきた)
だから、俺はこのへんで部屋に戻ろうと思う。
カギが錠の穴に差し込まれたままの、時がまちまちに進んでいるあの四角い部屋に。
俺はそこの扉を自力で開けることをすでに知っているのだし、部屋の中には日本から持参した蚊取り線香も蚊よけスプレーもあるのだ。
初日から個性の強い人々に会い過ぎて、俺はそれなりに混乱しており、固いベッドの上で蚊帳にもぐり込んですぐにだらしなく眠り込むだろう。
イタリアンレストランで飲んだハイチの地ビール、プレステージも時差ボケの頭に効いているに違いない。
レストランの向かいの公園で若いハイチ人たちが音楽をかけて盛り上がっていた様子を俺は夢に見てもよかった。菊地紘子さんはいつでも中をのぞきたいのだけれど、そこは特に夜は接近禁止だと言っていた。普通に外食している場所が、すでにMSFの四駆でなければ移動してはいけないエリアの中にあった。
そういうちぐはぐな生活が俺にも始まっていた。
追記
この連載を始めてすぐ(4/27夜)、シリア北部のアレッポでMSFが支援している病院が空爆された。
この記事がくわしいのだが、最初の段階で少なくとも医師2人を含む14人が亡くなっている。
すでにこうした攻撃は何度も行われており、ロシア軍によるものともシリア政府軍によるものとも言われている。また、アフガニスタン北部クンドゥズでは昨年10月、アメリカ軍による「誤爆」があったばかりだ。
『国境なき医師団』は患者がどちらの勢力であるかにかかわらず医療を施す。
攻撃されることは、絶対に許されてはならない組織である。
「医師2人を含む14人」という一文がすでに俺には、日々の中で流れていってしまう海外ニュースではない。
亡くなった医師、スタッフ、あるいは患者は、俺にとって顔も名前も仕草も知っているポールでありモハメッドでありマタンでありマリーンでありオルモデであり紘子さんであり谷口さんなのだ。
善意を差し出して他人のためになろうとする者の命、人生、生活、子供の頃からの個人史、息づかい、家族との関係、まなざし、口調、そしてこれからの日々を短い爆撃で消してしまう権利が誰にあるというのか。
圧倒的に弱い立場にある患者たちのそれらも。
俺はこの非道な行為をしつこく非難する。
そのためにもこの連載で、より登場人物の人間らしさを描くよう心がける。
死は数字ではない。
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう
前回記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く2(イースターのハイチ)」
知りません
「えっと、黒人による革命で、あの、支配者だったフランス人、とかを追い出して、それで共和国を作ったのがハイチで、つまり奴隷が作った、世界で唯一の、えっと国家です」
俺はしどろもどろで、必死に答えた。
OCA(オペレーション・センター・アムステルダム)のリーダーであるポールに『ハイチの歴史』を問われたからである。
しかし、俺の答えに対するポールの反応はきわめて冷たかった。
「いつ?」
「......」
「いつそうなった?」
我らのポール校長は曖昧な把握を許さないのだった。
俺は降参するように口を開いた。
「知りません」
第一に、緊張して英語がうまくしゃべれなかった。取材旅行の話を聞きつけた友人が、自分が開校する寸前の英語学校で一ヶ月の、それもインタビューに特化した訓練を施してくれたにもかかわらず(GCAI、ありがとう。そしてごめん)。
第二に、俺が口に出したのは付け焼き刃の知識だった。
俺は日本からの長い飛行時間の一部を、昔ハイチ地震のチャリティにかかわったあとに買ったままだったエッセイ集を読むのに使い(あとはひたすら寝ていた)、初めて出会うハイチ出身の亡命作家エドウィージ・ダンティカの奥深く慈悲と苦痛に満ちた筆致にしびれながら、彼女の小説を二冊、なぜか自分が読みもしないのに偶然手放さないでいたことに驚いていた(ただし今年に入って急激により多くの物質を捨てるという、人生の終わりを見越したブームの余波を受けたはずだ)。
それはともかく俺は、エッセイ集『地震以前の私たち、地震以後の私たち』(作品社)にこうあったのを、ポール校長の前でいかにも以前からよく知っていたかのように語らなければと焦ったのだった。
そして、冒頭のように失敗したわけである。
では、ここでかわりに、エドウィージ・ダンティカの簡潔な名文(1904年)を呼び出しておこう。 「西半球で二番目の共和国が作られてから、二百年が経った。建国当時、最初の共和国、アメリカ合衆国からは何の祝賀の挨拶もなかった。新共和国ハイチは、十二年間にわたる血なまぐさい奴隷蜂起を通して独立を勝ち取っていた。世界の歴史のなかで、奴隷たちが主人を権力の座から引きずり下ろし、自らの国家を造ることに成功したのは、この一例だけだ」
そしてポール校長の授業が始まる
我らのポール校長もまた、この「独立」をめぐる年号を、出来の悪い生徒である俺を指さしながらゆっくり発音した。
「1804年だよ」
「......1804年」
俺はオウム返しに答えた。こういう時は素直が一番だ。
校長はそれからのち、部屋の壁に貼られた地図や、空を指さしながら、俺に長い授業をしてくれたのである。なんのメモもなしに。
今から200年以上前、宗主国フランスが革命のまっただ中である頃、遠く離れた中米ハイチでは、アフリカから数百年間連れて来られ続け、労働させられ続けていた黒人奴隷たちが大量に脱走し、蜂起した。
それがハイチ独立宣言からさかのぼること13年前。すなわち1791年のことなのであった。
自らは革命を目指していながら、フランスはハイチの黒人革命を認めようとしなかった(優れた幾つかの議論は国内であったものの)。がしかし、そのフランスを囲むイギリス、スペインなどがすかさず反革命戦争を起し、外地ではフランスの植民地を奪おうとする。
皮肉なことにフランスがとったのは、黒人奴隷に武器を与えて戦わせるという策であった。そのため、1793年、奴隷解放宣言が出され、翌1794年には本国議会においても奴隷制廃止が決議されることとなり、70万人の奴隷が一気に解放されるのだ。
この事実だけでも実に驚くべきことだ。世界のほとんどの人間が知らされていない。18世紀にすでに、黒人が自らの手で革命に成功していたなんて。
そして俺はここに小声で、もうひとつ重要な事実を書き記しておきたい。黒人奴隷解放直後の1795年、今のドイツでエマニュエル・カントが『永遠平和のために』を発表しているのである。のちの国連の礎となり、日本国憲法九条の奥にも流れていると言われる思想は、ハイチの奴隷解放宣言に影響を受けている可能性がある。
少なくともカントが永遠平和の構想を練っている時、ヨーロッパはフランス革命のみならず、ハイチ革命に揺れていたのだ。
さて、時間を越えたこの原稿上の脱線を知らないポール校長は、当時の俺の目の前を右に左に歩きながら、まだまだ君が驚くべきこと(「remarkable」という単語を彼は何度もゆっくりと強調して使った)があるんだ、と指を柔らかく立てて言った。
なぜならその後、フランスにはナポレオンが登場するからだよ、セイコー、わかるね。
「はい」
彼らは1801年、遠征軍をハイチに送り、奴隷制復活を狙う。そしてハイチ側の指導者トゥサン・ルヴェルチュール(ちなみに、この英雄は憲法作りを主導し、なんと「人に隷属することは永久に廃止される」と、世界中の人権宣言の先駆けのような条項を公布する!)をだまし討ちにし、フランスにおびき寄せて監獄に入れて殺してしまう。まったくひどい仕打ちだ。
しかし、セイコー。
いや、ここには帰国後にそこそこの勉強をした俺の言葉も十二分に混じっているのだから、そろそろ正直に、読者諸君!と呼びかけよう。
読者諸君!
ハイチで奴隷であった黒人、そして現地の白人との間に生まれた混血ムラートが1802年に団結をするのだ。ナポレオンの反革命がかえって彼らを奮起させてしまうのである。歴史の狡知、とヘーゲルなら言うかもしれない。
そしてハイチ革命軍は"驚くべきことに"連戦連勝、翌年には早くもフランス軍を完全敗北させ、さらに次の1804年、総司令官デサリーヌらが「フランス支配のもとで生きるより死を選ぶことを、未来の人々と世界に誓う」と血のたぎるような独立宣言を行う。
だが、ハイチは他国から独立を認めてもらえなかった。
そして世界最初の独立宣言をしたアメリカからの無視(彼らはハイチの影響によって完全な奴隷解放が行われるのを恐れたのだった)、元宗主国フランスの「独立を認めるから多額の賠償金を払え」という法外な要求などにより、苦難の歴史をたどるのである。
貧困が常に彼らを襲う。コーヒーや砂糖作りというかつての産業は、宗主国たちが奴隷貿易を介して作り上げたものだから。そして建国直後に払わされた賠償金を返すために、彼らはさらに借金をさせられたから。
その上、ハイチの政治も安定しない。
21世紀になっても大統領選をめぐって反政府勢力が蜂起し、不正選挙だと言って世界銀行が援助を停止し、アメリカ軍が駐留し、国連派遣団が入り、あるいは2004年には森林伐採の影響もあってハリケーンで2000人の死者を出した。治安は悪化した。
権力はムラートに集中し、支配下に置かれた黒人の間にはしかし、誰の言うことも聞かない誇り高い伝統が存在し続けている。それがハイチだということになる。
そういうすべてを経た上で、読者諸君。
ここで語り手をポール一人に譲ろう。
「2010年に大地震が起きたんだよ」
このような視点で援助を考えるリーダーがいることに、俺は目が開かれる思いがし、すっかり感じ入ってしまった。
地震以後、「写真を撮り、あれこれ約束し、結果何もしない」者たちに対してハイチ人がいら立つ、その怒りの根本を理解しなければ、彼らを本当に救援することが出来ない。
ポールの言っていたことが、授業の後の俺にはよくわかった。
本来、ハイチは尊敬されるべきなのだった。
全世界から。
モハマド、マタン、マリーン
もといたソファに戻ると、ロジスティック(物資調達管理部門)・コーディネーターのモハメド・アリ・オマールと、サプライ・マネージャー(供給部門)のマタン・ムティマがいた。前者はスーダンから、後者はコンゴ民主共和国から来たスタッフだ。もちろんアフリカ人である。
彼らは屋敷の外の気持ちのいいテーブルへ我々を導き、地図を広げてどの地域の治安が不安定か、季節によって外出禁止地域の時間帯が変わること、最近の誘拐犯の手口についてなどを説明してくれた。説明の一部には「どこなら歩いていいか」というものがあったが、笑ってしまうくらい狭いエリアだけでしかも時間に制限があった。
宿舎にて
-->
途中、ユーモラスな表情でモハマドが俺の背後を指さした。ガサガサ音がして、枯れ葉の中を大きなトカゲが通るのがわかった。そのトカゲにさえ気をつける必要があるのかと俺は思ったが、毒があるのかとか噛むのかとか確認するのはためらわれた。我ながらナーバスになり過ぎているのではないかと思って。
(危険区域を説明するモハマド。ほとんどすべてのエリアがそうだった)
次に邸内に戻り、フランスから来ているマリーン・バーセットという女性看護師にレクチャーを受けた。主に妊産婦のこと、未熟児のこと、性暴力被害のことなどについてだが、これらに関してはのちのち病院や救援センターを訪ねたレポートを書く予定なので重複を避ける。ともかく、医療コーディネーターを務めるマリーンはハイチの様々な状況を説明しては苦笑し、何度か頭を振った。
「ひどい話」
と言いながら。確かに残酷なデータが多かった。やせ型でめがねをかけ、ノースリーブから出した肩にそばかすが見えているマリーンは少し疲れているように感じられた。
そろそろ宿舎に移動しようということになった。彼女も同じ宿舎で生活しているので、ひとつの四駆に乗っていきましょうと言われた。
帰り支度を始めた彼女に、
「あなたは看護師ですよね? 何をきっかけにMSFに参加したんですか?」
と聞いてみた。
今回、会う人ごとに投げかけようと思っていた質問だった。
すると、マリーンは初めて柔和に、そして恥ずかしげに微笑み、フランス訛りの英語でこう答えた。
「逆よ。MSFに入りたくて看護師になったの」
理解に一瞬時間がかかり、そのあとジーンとシビれてしまった俺をしりめに、マリーンはバッグにすべてを詰め終え、立ち上がって薄暗い部屋から明るみへと出ていった。
宿舎にて
マリーンとポールと谷口さんと四人で「帰った」宿舎は、センターから車で15分くらい登った山の邸宅群の中にあった。
狭く急な坂道沿いの宿舎の鉄扉が開き、四駆が中の斜面をぐらぐら上がっていくと、山肌に庭があり、芝生が生え、たくさんの木が伸び、屋敷のあちこちからブーゲンビリアが赤く垂れて咲いているのが見えた。まるで優雅な別荘のようで、俺は自分の目が信じられなかった。
しかし二階建てのそこに多くの部屋があり、シャワー施設やトイレが複数存在し、キッチンが充実していること、あるいは鉄扉の入り口脇にガードマン(ただし丸腰。MSFの施設に入るにはあらゆる武器が放棄されねばならない)の小屋のスペースがあることなどを思えば、確かに次々交替していくスタッフの拠点として適していた。おそらく借り賃も手頃なのだろう。ポールの見積もりかもしれない。
そして何より、よく見てみれば、庭を囲む塀の上には厳重に鉄条網が巻かれていた。内部は「優雅」だが、少しでも外に出れば「緊張」が支配しているのだ。
部屋をもらい、入っていくとタイル床の真ん中に四角いベッドがあり、その上にピンク色の蚊帳が吊ってあった。窓際には簡素なテーブル。その上でカーテンが半分閉じられていたが、窓の上の左右に飛び出た木枠に棒が渡され、そこにカーテンの輪っかが幾つか通されているだけなので、気をつけて操作しないと落ちてきた。
蚊は大敵だった。特にその頃はデング熱に注意しなければならなかった。
俺は待ち合わせまで二時間あったのでスマホに話しかけて目覚まし時計のアプリをセットし、出発直前までピンクの蚊帳の 中で仮眠することにした。
すぐに眠気は来た。しかしコール音で起こされたのは感覚的にわりとすぐで、まるで泥の海から立上るようにして俺は覚醒せざるを得なかった。時差ボケがなぜこんなにひどいのかと、ベッドに腰をかけたまま、何度も腕時計とスマホを見比べた。胃がムカムカしていた。
宿舎到着の直後に、ポール校長が言っていたことを思い出した。
今はサマータイムなのだけれど、それを海外に宣言するのが遅れただか、しなかっただかで、非常にローカルな形でハイチ時間が進んでおり、つまり飛行場で教わって直した腕時計の時間と、WIFIでつないでいるスマホの世界時計上の時間がちょうど一時間違っているのだった。
俺はぐらぐらする頭でそのまま起き、シャワーを浴びたように記憶する。
そして部屋のドアにふたつあった錠をロックしてみようと思いつき、テーブルの上にあったカギを下に入れ、上にも入れた。通常どちらかしかかからないカギが、なぜだろう下にかかったまま、上にもかかった。上の錠の奥の方におかしな感触があったから、あり得ないことを起こしたのは上だろうと思われた。
俺は自分の部屋から締め出された。
カギをいくら再び錠の中で回してもびくともしない。
そのままだとどう困るかを、薄暗い屋敷の中で考えた。まずメモ帳がない。数日となると着替えもなく、帰国時のパスポートも飛行機のウェブ予約を印刷した紙も中だった。次第に俺は、自分が窮していくだろうことがわかった。
広報の谷口さんはダイニングとホールをはさんで向こう側の部屋群で、たぶん仮眠を取っているはずだった。助けも呼べない。
がちゃがちゃやってはため息をついていると、隣の部屋からふわっとアフリカ人があらわれた。Tシャツにコットンパンツにサンダルという姿だったと思う。確か屋敷到着のあと一瞬だけ挨拶をした青年で、とても優しく握手をし、すぐに荷物を持とうとしてくれたり、眠くないかと話しかけたりしてくれた人だった。吃音があったが、しゃべるのをやめない明るさと勇敢さがあった。
名をオルモデと言った。
俺は彼の腰があまりに低いので、すっかり屋敷の管理人の一人だと思い込み、
「これ、なんとか直らないですかね?」
とちょっと苦情交じりの調子で言った。おかしなピッキングをしてしまったのは自分なのにだ。
オルモデは俺の手からそっとカギを受け取り、何度も錠の中に入れて試し、そのうち同情に満ちた顔つきで、
「下の階に行って、マスターキーを探してきます」
と申し訳なさそうに言った。
「お願いしますよ!」
と俺はその背中に呼びかけたものだ。おそらく俺が出かけたあと、彼はありとあらゆる方法を実行したのではないか。
結局、オルモデはドアを開けることが出来ず、カギは差したままで置かれていた。
そして、その夜の楽しい夕食を済ませての帰宅のあと、俺自身があの変な感触でもって錠を無理やりこじ開けてしまうのだが、そんなことよりその青年、オルモデ・ファニヤンがナイジェリア出身の優秀な疫学の医師で、MSFのミッションを終えてアメリカの研究室に移る時期だったことを、俺は数日後に知る。
他人の苦境にすぐさま反応して解決に尽力してしまう人間を、俺は"ドアも開けられない管理人"だと見くびっていたのだった。自分中心でない人を。
あの優しい青年を。
濃い一日の終わり
ああ、色々書くうち、日本人スタッフの菊地紘子さんと待ち合わせて出かけた、限られた安全な地域にあるレストランでの夕食時の話を紹介するスペースがなくなってしまった。
イースターならではの愛らしいサマーワンピースであらわれた若き看護師である彼女が小型犬を連れて来たように見えたけれど、その犬は隣の屋敷から勝手について来てしまったまったく知らない動物であること、彼女がすでに中央アフリカで二年ほどのミッションを終えていること、「ハイチは道路が舗装されていますから恵まれています!」とレストランでうれしそうに言ったこと、彼女もまたマリーンのように「MSFで働きたくて看護師になった」こと、より厳しい状況に置かれたアフリカの国々で医療をしたいがために学生時代にフランス語を習ったこと、などなどを記事にするのは大変有意義だと思うのだが、他の取材でのさらに興味深い彼女のエピソードがてんこ盛りにある。
(紘子さんについてあらわれた隣家の犬。この日以降、たびたび俺に飛びかかってきた)
だから、俺はこのへんで部屋に戻ろうと思う。
カギが錠の穴に差し込まれたままの、時がまちまちに進んでいるあの四角い部屋に。
俺はそこの扉を自力で開けることをすでに知っているのだし、部屋の中には日本から持参した蚊取り線香も蚊よけスプレーもあるのだ。
初日から個性の強い人々に会い過ぎて、俺はそれなりに混乱しており、固いベッドの上で蚊帳にもぐり込んですぐにだらしなく眠り込むだろう。
イタリアンレストランで飲んだハイチの地ビール、プレステージも時差ボケの頭に効いているに違いない。
レストランの向かいの公園で若いハイチ人たちが音楽をかけて盛り上がっていた様子を俺は夢に見てもよかった。菊地紘子さんはいつでも中をのぞきたいのだけれど、そこは特に夜は接近禁止だと言っていた。普通に外食している場所が、すでにMSFの四駆でなければ移動してはいけないエリアの中にあった。
そういうちぐはぐな生活が俺にも始まっていた。
追記
この連載を始めてすぐ(4/27夜)、シリア北部のアレッポでMSFが支援している病院が空爆された。
この記事がくわしいのだが、最初の段階で少なくとも医師2人を含む14人が亡くなっている。
すでにこうした攻撃は何度も行われており、ロシア軍によるものともシリア政府軍によるものとも言われている。また、アフガニスタン北部クンドゥズでは昨年10月、アメリカ軍による「誤爆」があったばかりだ。
『国境なき医師団』は患者がどちらの勢力であるかにかかわらず医療を施す。
攻撃されることは、絶対に許されてはならない組織である。
「医師2人を含む14人」という一文がすでに俺には、日々の中で流れていってしまう海外ニュースではない。
亡くなった医師、スタッフ、あるいは患者は、俺にとって顔も名前も仕草も知っているポールでありモハメッドでありマタンでありマリーンでありオルモデであり紘子さんであり谷口さんなのだ。
善意を差し出して他人のためになろうとする者の命、人生、生活、子供の頃からの個人史、息づかい、家族との関係、まなざし、口調、そしてこれからの日々を短い爆撃で消してしまう権利が誰にあるというのか。
圧倒的に弱い立場にある患者たちのそれらも。
俺はこの非道な行為をしつこく非難する。
そのためにもこの連載で、より登場人物の人間らしさを描くよう心がける。
死は数字ではない。
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう