<今まで裁判官が懲役刑を言い渡すときは「実刑」と「執行猶予」の2パターンしかなかった。極端な2択の間で揺れてきた日本の司法判断に、より多様な選択肢をもたらすと期待されるのが「一部執行猶予」だ。この新制度は、清原和博氏のような薬物中毒者を救う一助となるだろうか>
高校時代からスター選手として野球ファンを沸かせ続け、22年間の現役生活で積み上げたホームラン数は、じつに525本。名球会にも名を連ね、日本プロ野球界に多大な貢献を果たしてきた清原和博被告人に対し、2016年5月31日、東京地裁は執行猶予つきの有罪判決を言い渡した。罪名は、覚せい剤取締法違反である。
「このような自分の姿を、報道でこれ以上子どもたちに見せたくない」と、涙ながらに法廷で述べた清原氏は、覚せい剤からの脱却と社会復帰を誓った。情状証人として出廷した佐々木主浩氏も、「2回目はないと信じている」と話している。
ただ、覚せい剤をやめるために、一時は自らの命を絶つことすら考えたという清原氏である。薬物の誘惑を完全に断ち切り、社会復帰を遂げるまでには、想像を絶する過酷な道のりが待っている。本人ひとりの力だけで乗り切ることはまず無理だろう。友人・知人、野球関係者、医療関係者など、周囲の人々による物心両面でのサポートが必須となる。
【参考記事】顔食い男と、疑われた薬物「バスソルト」
奇しくも判決の翌日、6月1日から、「刑の一部の執行猶予」という新しい制度が始まった。犯罪を繰り返す人、特に薬物犯罪の再犯を防止し、立ち直りをサポートするための制度だ。もちろん清原氏のために作られた制度ではないが、決して無縁ではない。ありえないし、決してあってはならないが、仮に万が一、清原氏が再び薬物犯罪を犯して検挙されてしまったならば、判決でこの「一部執行猶予」が適用される可能性はある。
これからの司法は、特に「被害者なき犯罪」と呼ばれる薬物犯罪に対して、処罰よりも「治療」を優先させる姿勢で臨むことになった。
「一部執行猶予」とは何か?
今まで、刑事裁判の判決で懲役刑を言い渡すときは、大きく分けて2パターンしかなかった。
●実刑判決......判決が確定したら、ただちに刑務所で服役する。
●執行猶予つき判決......服役をひとまずペンディングにしておき、実社会で一定年数の間、再び犯罪を犯さずに過ごせれば、懲役刑の言い渡しをなかったことにする(※前科は残る)。今回の清原氏のケース。
これは、いわば「オール・オア・ナッシング」「100かゼロか」の選択である。あえて乱暴な物言いをすれば、1回目は執行猶予で「自由に任せるだけ」、2回目以降は実刑で「刑務所に入れるだけ」だ。
刑務所で服役し続けて、行きたいところに行けず、会いたい人にも会えず、「もう二度と、こんな目に遭いたくない」と懲りて、出所後に社会復帰できるとすれば、それは初めから自分の意思で犯罪をやめられる人である。
【参考記事】マリフアナ合法化は格差を拡大させる
覚せい剤のような中毒性の強い違法薬物を長期間にわたって使ってしまった人の大半は、もはや自力ではその犯罪をやめられなくなっている。処罰より先に、本人の内側にある「中毒症状」という根本原因を取り除かなければならない。
今月から新たに導入された「一部執行猶予」は、犯罪を繰り返している人に1カ月~3年の懲役刑などを言い渡す場合、「実刑と執行猶予をミックス」させる制度だ。
具体的には「主文 被告人を懲役3年に処する。その刑の一部である懲役1年につき、3年間、執行を猶予する」といった、少々複雑な内容になると思われる。これは「まず、懲役2年の実刑。その後は釈放され、執行猶予(3年間)のついた懲役1年」という意味である。裁判所は、実刑か執行猶予かの二者択一ではなく、さじ加減を効かせて、それぞれの被告人の事情に合った処遇を調整できるようになった。
今後、刑の一部執行猶予で出所する薬物依存者は、年間約3000人と見積もられている(『更生保護学研究』(日本更生保護学会)2015年版p.99より)。
また、薬物犯罪者に対して一部執行猶予判決を言い渡すとき、その執行猶予期間中は、必ず「保護観察」を受けさせるようにしたのも、新制度の大きな特徴だ。
保護観察とは何か?
保護観察とは、犯罪を犯した人が立ち直って社会に復帰していけるよう、保護観察官と保護司がタッグを組むことで、国が責任をもって支援ないし監督する制度である。
保護観察官は常勤の国家公務員であり、全国に約1000人いる。保護観察の対象者が出てきたら、本人や家族と面会したうえで、その地域から担当の保護司を選ぶ。
保護司は無給のボランティアという立場で、定期的なペースで保護観察の対象者と面会し、より密接な距離感で立ち直りをサポートする。現在、全国で約4万7000人が保護司としての活動を行っている。
保護観察の対象となった薬物犯罪者に対しては、保護観察所で「薬物処遇プログラム」を受けさせることもある。その引受人や家族などの関係者を対象にした「引受人会・家族会」という名のセミナーも実施している。
また、身寄りのない刑務所出所者に一定期間住居を与えて生活指導などをする「更生保護施設」の中には、薬物犯罪者の立ち直りを重点的に行っているところもある。
さらに、保護観察所と連携している医療機関や精神保健福祉センターに、治療などを委託することも可能だ。覚せい剤などの違法薬物が脳内にもたらす「見えない毒牙」から逃れられず苦しんでいる人々を公的に救済する治療環境は、着実に整ってきている。
ここからが清原氏の最大の「天王山」
なお、清原氏に対する今回の執行猶予判決に、裁判所は「保護観察」を付けなかった。本人が希望していたにもかかわらず、あえて保護観察を不要と判断した明確な理由はわからない。
野球人として著名な清原氏には、保護観察を付けるまでもなく、医療関係者を含めてたくさんの協力者が集まると考えたのか。それとも、自ら病院と契約して自費で治療を続けるだけの経済力を持っているとの認識だろうか。
いずれにせよ、彼にとって最大の「天王山」の戦いが、引退後に訪れたといえるのかもしれない。だが、そのぶん、最大規模の応援や関心、注目が寄せられている。治療という戦いに専念することで、見事「勝利」を収め、また豪快な笑顔を見せていただきたい。
その「勝利」が社会にもたらしうる、ポジティブな影響力は計り知れない。
[筆者]
長嶺超輝(ながみね・まさき)
ライター。法律や裁判などについてわかりやすく書くことを得意とする。1975年、長崎生まれ。3歳から熊本で育つ。九州大学法学部卒業後、弁護士を目指すも、司法試験に7年連続で不合格を喫した。2007年に刊行し、30万部超のベストセラーとなった『裁判官の爆笑お言葉集』(幻冬舎新書)の他、著書11冊。最新刊に『東京ガールズ選挙(エレクション)――こじらせ系女子高生が生徒会長を目指したら』(ユーキャン・自由国民社)。ブログ「Theみねラル!」
長嶺超輝(ライター)
高校時代からスター選手として野球ファンを沸かせ続け、22年間の現役生活で積み上げたホームラン数は、じつに525本。名球会にも名を連ね、日本プロ野球界に多大な貢献を果たしてきた清原和博被告人に対し、2016年5月31日、東京地裁は執行猶予つきの有罪判決を言い渡した。罪名は、覚せい剤取締法違反である。
「このような自分の姿を、報道でこれ以上子どもたちに見せたくない」と、涙ながらに法廷で述べた清原氏は、覚せい剤からの脱却と社会復帰を誓った。情状証人として出廷した佐々木主浩氏も、「2回目はないと信じている」と話している。
ただ、覚せい剤をやめるために、一時は自らの命を絶つことすら考えたという清原氏である。薬物の誘惑を完全に断ち切り、社会復帰を遂げるまでには、想像を絶する過酷な道のりが待っている。本人ひとりの力だけで乗り切ることはまず無理だろう。友人・知人、野球関係者、医療関係者など、周囲の人々による物心両面でのサポートが必須となる。
【参考記事】顔食い男と、疑われた薬物「バスソルト」
奇しくも判決の翌日、6月1日から、「刑の一部の執行猶予」という新しい制度が始まった。犯罪を繰り返す人、特に薬物犯罪の再犯を防止し、立ち直りをサポートするための制度だ。もちろん清原氏のために作られた制度ではないが、決して無縁ではない。ありえないし、決してあってはならないが、仮に万が一、清原氏が再び薬物犯罪を犯して検挙されてしまったならば、判決でこの「一部執行猶予」が適用される可能性はある。
これからの司法は、特に「被害者なき犯罪」と呼ばれる薬物犯罪に対して、処罰よりも「治療」を優先させる姿勢で臨むことになった。
「一部執行猶予」とは何か?
今まで、刑事裁判の判決で懲役刑を言い渡すときは、大きく分けて2パターンしかなかった。
●実刑判決......判決が確定したら、ただちに刑務所で服役する。
●執行猶予つき判決......服役をひとまずペンディングにしておき、実社会で一定年数の間、再び犯罪を犯さずに過ごせれば、懲役刑の言い渡しをなかったことにする(※前科は残る)。今回の清原氏のケース。
これは、いわば「オール・オア・ナッシング」「100かゼロか」の選択である。あえて乱暴な物言いをすれば、1回目は執行猶予で「自由に任せるだけ」、2回目以降は実刑で「刑務所に入れるだけ」だ。
刑務所で服役し続けて、行きたいところに行けず、会いたい人にも会えず、「もう二度と、こんな目に遭いたくない」と懲りて、出所後に社会復帰できるとすれば、それは初めから自分の意思で犯罪をやめられる人である。
【参考記事】マリフアナ合法化は格差を拡大させる
覚せい剤のような中毒性の強い違法薬物を長期間にわたって使ってしまった人の大半は、もはや自力ではその犯罪をやめられなくなっている。処罰より先に、本人の内側にある「中毒症状」という根本原因を取り除かなければならない。
今月から新たに導入された「一部執行猶予」は、犯罪を繰り返している人に1カ月~3年の懲役刑などを言い渡す場合、「実刑と執行猶予をミックス」させる制度だ。
具体的には「主文 被告人を懲役3年に処する。その刑の一部である懲役1年につき、3年間、執行を猶予する」といった、少々複雑な内容になると思われる。これは「まず、懲役2年の実刑。その後は釈放され、執行猶予(3年間)のついた懲役1年」という意味である。裁判所は、実刑か執行猶予かの二者択一ではなく、さじ加減を効かせて、それぞれの被告人の事情に合った処遇を調整できるようになった。
今後、刑の一部執行猶予で出所する薬物依存者は、年間約3000人と見積もられている(『更生保護学研究』(日本更生保護学会)2015年版p.99より)。
また、薬物犯罪者に対して一部執行猶予判決を言い渡すとき、その執行猶予期間中は、必ず「保護観察」を受けさせるようにしたのも、新制度の大きな特徴だ。
保護観察とは何か?
保護観察とは、犯罪を犯した人が立ち直って社会に復帰していけるよう、保護観察官と保護司がタッグを組むことで、国が責任をもって支援ないし監督する制度である。
保護観察官は常勤の国家公務員であり、全国に約1000人いる。保護観察の対象者が出てきたら、本人や家族と面会したうえで、その地域から担当の保護司を選ぶ。
保護司は無給のボランティアという立場で、定期的なペースで保護観察の対象者と面会し、より密接な距離感で立ち直りをサポートする。現在、全国で約4万7000人が保護司としての活動を行っている。
保護観察の対象となった薬物犯罪者に対しては、保護観察所で「薬物処遇プログラム」を受けさせることもある。その引受人や家族などの関係者を対象にした「引受人会・家族会」という名のセミナーも実施している。
また、身寄りのない刑務所出所者に一定期間住居を与えて生活指導などをする「更生保護施設」の中には、薬物犯罪者の立ち直りを重点的に行っているところもある。
さらに、保護観察所と連携している医療機関や精神保健福祉センターに、治療などを委託することも可能だ。覚せい剤などの違法薬物が脳内にもたらす「見えない毒牙」から逃れられず苦しんでいる人々を公的に救済する治療環境は、着実に整ってきている。
ここからが清原氏の最大の「天王山」
なお、清原氏に対する今回の執行猶予判決に、裁判所は「保護観察」を付けなかった。本人が希望していたにもかかわらず、あえて保護観察を不要と判断した明確な理由はわからない。
野球人として著名な清原氏には、保護観察を付けるまでもなく、医療関係者を含めてたくさんの協力者が集まると考えたのか。それとも、自ら病院と契約して自費で治療を続けるだけの経済力を持っているとの認識だろうか。
いずれにせよ、彼にとって最大の「天王山」の戦いが、引退後に訪れたといえるのかもしれない。だが、そのぶん、最大規模の応援や関心、注目が寄せられている。治療という戦いに専念することで、見事「勝利」を収め、また豪快な笑顔を見せていただきたい。
その「勝利」が社会にもたらしうる、ポジティブな影響力は計り知れない。
[筆者]
長嶺超輝(ながみね・まさき)
ライター。法律や裁判などについてわかりやすく書くことを得意とする。1975年、長崎生まれ。3歳から熊本で育つ。九州大学法学部卒業後、弁護士を目指すも、司法試験に7年連続で不合格を喫した。2007年に刊行し、30万部超のベストセラーとなった『裁判官の爆笑お言葉集』(幻冬舎新書)の他、著書11冊。最新刊に『東京ガールズ選挙(エレクション)――こじらせ系女子高生が生徒会長を目指したら』(ユーキャン・自由国民社)。ブログ「Theみねラル!」
長嶺超輝(ライター)