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仲裁裁判がまく南シナ海の火種

ニューズウィーク日本版 2016年6月9日 17時10分

<領有権をめぐる国際仲裁裁判所の裁定で中国の反発は必至だが、それでも中国とアメリカの軍事衝突が起こると予想する専門家はほとんどいない>(写真はセカンド・トーマス礁から中国の沿岸警備艇に向けてピースサインを突き出し、挑発するフィリピン軍兵士)

 いまいち知名度の高くない裁判所が、世界有数の危険な海域に火ダネを投じることになるかもしれない。オランダ・ハーグの国際仲裁裁判所が近々下す裁定が、南シナ海での緊張を高め、アメリカを紛争に引きずり出す可能性があるのだ。

 南シナ海の領有権をめぐりフィリピンが中国を相手取って起こした国際仲裁手続きについて、同裁判所は今月中にも裁定を下す。識者の多くは、フィリピン側に有利な判決が出る可能性が高いとみている。

 しかし、中国は既に裁判を受け入れない意向を示している。南シナ海の浅瀬や岩礁、岩などすべてをひっくるめて、中国の領土であると強硬に主張しているのだ。

 極小規模の海軍と沿岸警備隊しか持たないフィリピンは、アメリカに外交的・軍事的支援を求めるだろう。だが今のところ、南シナ海で実際に衝突が起こった場合にどの程度フィリピンを支援するのか、米政府は明言を避けている。

 人工島造成に、数十隻の漁船団の進入、巡視船の派遣。こうした中国側の大胆な行動によって、南シナ海をめぐる争いは近年、ヒートアップしてきた。

【参考記事】旧敵国ベトナムに塩を送る武器禁輸解除の真意

 だが真の火ダネになりそうなのは、はるか遠く離れたハーグの国際仲裁裁判所だ。そこでは13年のフィリピンの申し立て以来、膨大な数の法律や数世紀前の地図、衛星画像などが精査されてきた。これに対し中国は、当初から裁判を認めず、手続きにも参加していない。

 中国は南シナ海上に弧を描くように引いた「九段線」を根拠にほぼ南シナ海全域の領有権を主張している。フィリピン側は、中国が主張するこうした「歴史的事実」に真っ向から反論。2009年まで中国はそうした主張をしておらず、歴史的記録や法的根拠も乏しいと、フィリピン側は言う。

 特に弁護団が重視しているのが、南沙(スプラトリー)諸島のファイアリークロス礁やガベン礁といった中国が領有権を主張する場所のどれにも、つい最近まで中国名が存在しなかったという点だ。

フィリピンに有利な裁定

 ハーグの裁判所を無視する一方で、中国は演説や声明などでは折に触れて反論を展開している。彼らのシンプルな主張によれば、南シナ海の岩や岩礁は中国固有の領土であり、中国は南シナ海の広大な海域について領有権を主張する「歴史的権利」がある。たとえ国連がその権利を認めないにしても。

 中国は裁定が下されるのを前に、最近ではハーグの裁判所の信用をおとしめて裁定を正当化させないためのPR作戦にも乗り出した。



 そんな中国の思惑とは対照的に、ほとんどの法律専門家は、フィリピンにかなり有利な裁定が下されるとみている。米海軍大学のジェームズ・クラスカ教授(国際法)は、中国は「決定に従う法的義務がある」と言う。

 それでも中国政府は、裁定がどう転んでも認めないと主張し続けている。これによって、アジアでの緊張が高まるのは避けられないだろう。中国高官らによれば、中国は国際法を尊重しているものの、ハーグの裁判所のような機関の正当性は認めないのだという。

 中国にしてみれば、ハーグでの法的敗北は政府のリーダーシップを脅かす可能性があり、中国のこれまでの主張を根底から覆すことになってしまうと、クラスカは言う。

 裁定が下された後、中国はどう出るのか。いくつかの選択肢があると、専門家は指摘する。外交ルートで抗議する、同海域により多くの船団を派遣する、人工島の拡張を進める、ADIZ(防空識別圏)を設置する、などが考えられるという。

 それでも、アメリカとの軍事衝突が起こると予想する専門家はほとんどいない。元米海軍作戦部長のジョナサン・グリナートが言うには、偶発的な緊張が高まる可能性は数年前よりむしろ低下している。不測の事態の発生を避けるため、昨年結ばれた米中軍事協定の効果もあるという。

【参考記事】南シナ海、強引に国際秩序を変えようとする中国

 対するフィリピンにとって、裁定での法的勝利は何より精神的な勝利になり得る。これにより、中国と領有権を争うほかのアジア諸国が、同様に仲裁手続きを求める可能性もあるだろう。事実、日本やインドネシアも裁判を検討している節がある。

 最大の懸念は、アメリカの反応だ。裁定が下された後、さらにはフィリピンと中国の間で緊張が高まったときに、アメリカはどう対応するのか。同海域が公海だとの裁定が下った場合、アメリカは米海軍による「航行の自由作戦」を強化していく必要性に迫られる。

 迫り来るさらに大きな問題は、南シナ海の岩礁をめぐってフィリピンが実際に中国と衝突した場合、アメリカはフィリピンを防衛するのか、という点だ。1951年に、アメリカとフィリピンは相互防衛条約を締結。冷戦時代に米政府は、フィリピン領土への攻撃だけでなく南シナ海での軍事衝突でも米軍はフィリピンを防衛すると明確にした。だがこの解釈がまだ当てはまるのかどうか、近年の米政府は明らかにしていない。

「バラク・オバマ米大統領が発言するとおり、アメリカのフィリピンへの関与は非常に強固なものだ」と、国務省の広報担当アンナ・リッチーアレンは言う。だが南シナ海で実際に衝突が起こった際にどの程度強固に関与するのかは明確になっていない。この点についてリッチーアレンは、「仮定の事態を検討することはない」とだけ答えた。



東シナ海には関与を明言

 こうした米政府の曖昧な立場が、おそらくフィリピンと中国双方への抑止力として働いていると、専門家らは指摘する。アメリカがどう出るか分からないだけに、軍事衝突に踏み込みにくくなるからだ。

「米政府の立場は、戦略的な曖昧さがかえって余裕を生む、という基本論理に基づいている」と、米政府の元当局者は言う。

 それでも中国との領有権争いを抱えるほかの同盟国について、米政府は極めて明確な関与を表明している。東シナ海での尖閣諸島(中国名・釣魚島)をめぐる日本と中国との争いにおいては、オバマ自ら尖閣諸島が日米安保条約の適用対象であると明言した。

 対日本と対フィリピンでのこうした違いは、それぞれの安保条約の内容が異なるためだろうと、専門家は指摘する。また、衝突の際に、自力で対応できる軍事力が日本のほうが高いことも影響しているとみられる。

 中国とフィリピンの間で緊張が高まることがあるとすれば、考えられる発火点の1つは、南沙諸島のセカンド・トーマス礁だろう。フィリピン海軍はここで領有権を主張するために第二次大戦時代の軍艦を故意に座礁させ、数人の兵士をその中に駐留させている。

 もしもフィリピン軍が衝突に巻き込まれたら、米政府は難しい決断を迫られる。だが当面のところアメリカは水面下で、武力衝突につながるいかなる行動も思いとどまるようフィリピン政府に働き掛けている。

 ある元米政府高官は米政府の真意についてこう言う。「ただの岩のために、アメリカが本気で世界大戦に突入したいとでも思うか?」

From Foreign Policy Magazine

[2016.6.14号掲載]
ダン・デルース、キース・ジョンソン

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