Infoseek 楽天

いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く4 (READY OR NOT,HERE I COME)

ニューズウィーク日本版 2016年6月14日 11時30分

<『国境なき医師団』の活動を少しでも自分の手で広めようと、ハイチを訪れることになった いとうせいこうさん。首都ポルトー・フランスのコーディネーションオフィスに到着するやいなや、ハイチという国の成り立ちと苦難の歴史のレクチャーを受け、ハイチに対する考えを新たにした。そして到着2日目、本格的な取材が始まった...>

これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 1、2、3」

本格取材、始まる

(食堂に積まれた果物)


 2016年3月26日......だったかどうか時差の関係でよくわからない。しかも早朝の、たぶん8時(国際的に認められていないサマータイム)。

 ともかく爽やかな朝であった。
 キッチンで谷口さんが素早く果物をむいてくれていた。前夜、ダイニングのカゴにぎっしり入っていたものだ。俺はハイチ産コーヒーをエスプレッソマシンで淹れた。

 ここだけ読んだらリゾートのようだ。
 だが、四駆を呼んで名前を無線連絡して出発すると、あちこちの建物がいまだに壊れたままの道になった。ハイチ全体では数十万人が仮設の家でビニールを屋根にして暮らしているという話も聞いた。

 まずOCAコーディネーション・オフィスへ行って、前日同行することになった菊地さんと、もう一人、ダーン・ヴァンブリュッセレンというベルギーから来た優秀な小児科医と待ち合わせた。ダーンは銀ぶちの眼鏡をかけた短髪の、これまた人当たりの非常に優しい人だった。人柄のいいトルシエ監督みたいな感じがあった。

 菊地さんとダーンはフランス語で話し、谷口さんとダーンは英語で話し、俺と菊地さんは日本語で話すという言語のるつぼの中、黒人男性リシャー・アクシダットが現れた。

 大きな体躯が筋肉でふくれあがっているように見えた。しかしその体をリシャはことさら小さく縮めるようにし、我々とかすかな握手をするために腰を低めると、象のような目を細めて「ようこそいらっしゃいました」とフランス語訛りの英語で言った。

 彼はOCAとOCBの広報を兼務していて、その日からあちこち回る施設との交渉、写真撮影の可否など一切を担当してくれることになっていた。現地ハイチのスタッフだということだった。

READY OR NOT,HERE I COME

 首都ポルトー・プランスの東部に位置するタバル地区という場所に、我々の四駆は向かった。そこにはコンテナをつないで造営されたナプ・ケンベセンターというMSFの巨大な病院があるのだった。

 なぜそこに菊地さんやダーンが行くかというと、ハイチに派遣されている彼ら自身、担当の施設以外を訪れるチャンスはまずなく、たまたまイースターに我々が訪問をしたからこそ、休暇の彼らが見学可能になったのだった。つまり他の病院の医療体制を見たいという二人の真面目さによって、四駆の中がより国際色豊かになったわけだ。

 俺は運転手の横に席を取り、三つの言語が飛び交うのを背後に聞きながら町並みを見た。タプタプと呼ばれる安い乗車賃の乗り合いバスのような車に、人がぎっしり詰まっていた。アジアでもよく見るトラックのような車で、外側に様々な装飾がしてあった。

 道路には時にがれきが集めて置かれ、黒いビニール袋やむき出しのゴミが山になっていることもあった。それをさして不潔だと感じないのは、どうやら乾期だかららしいということが背後の会話でわかった。そろそろ来る雨季ではあちこちが冠水し、干上がっている小川に水が溜まる。すると、町全体にゴミが浮いている状態になるのだという。そしてコレラが大勢の人間を襲う。

 けれど、話をいくら耳にはさんだところで、目の前にある陽光の弾けるポルトー・プランスにはエネルギッシュに人が動き、道端で様々な食べ物を売り、ゴミの山を犬や牛がつつき回り、子供たちが笑っている頭上には家の軒から赤と白のブーゲンビリアが垂れて咲き誇っている。

 例の「リアルさのずれ」が俺を襲った。事態の深刻さが見えにくいのだった。

 そうした町の様子を車からスマホで撮ろうかとも思ったが、俺にはジャーナリスト気質が欠けていた。撮られる側のことが気になった。というより、撮る立場の俺が支配的な気分になるのが嫌だった。

 すると、リシャーがこういうところではカメラを向けないで欲しいと低い声で後ろから言った。彼らには彼らの権利がある、と現地スタッフとして言いたいのだろうと思ったが、法律的に言えば政府から俺に一般ジャーナリスト証が出ていないということらしい。つまりMSF以外での撮影には制限があるということになる。

 「はい」
 とだけ、俺は答えた。もともとそのつもりはなかったから。

 すると、道の脇に奇妙な集団がいるのに気づいた。十数人の若者が、ひらひらした紙のようなものを体中に下げていて、下を向いて小刻みにリズムをとりながら移動しているのだった。

「ヤヤ」

 とリシャーが言った。
 ハイチのイースターでは、キリストの復活の様子を自分たちで繰り返すために歩くのだそうだった。その儀式の名前がヤヤだった。ただし、そこで反復されているのはゴルゴダの丘へ行く悲劇の主キリストだと説明された記憶がある。ともかく、打楽器が集団の内側で打たれていた。ギターも鳴っていたかもしれない。車内からは聞こえにくかった。

 集団の中の一人の黒いTシャツの背に、フージーズがカバーしたヒット曲の元タイトル『READY OR NOT,HERE I COME』が白く印刷されていた。フージーズのメンバーであるワイクリフとプラーズにはハイチの血が流れており、大地震のあとにもさかんなチャリティを行っていたのを思い出した。

 けれど、その言葉「READY OR NOT,HERE I COME」は、元来のラブソングとは違う意味で俺の頭の中に響いていた。

なんにせよ私は来る。

 それは神のことなのか、地震か。
 四駆は彼らの歩行をゆっくり通り過ぎた。
 じき曲がって入っていった住宅街の道端に一頭の子ヤギがつながれていて、静かに足元をはんでいた。
 俺はもちろんその様子も撮らなかった。

『国境なき仁術団』とロジスティック部門の役割
-->

コンテナ・ホスピタル

(全体図を説明してくれるジャック医師)

 タバルの巨大な「コンテナ・ホスピタル」はOCB(オペレーションセンター・ブリュッセル)が運営していた。建設の時間を省くために、より急を要する施設をコンテナで造り、それをつなげてしまうという見事な発想であった。

 裏側のいかめしい鉄扉から中へ入った我々を出迎えてくれたのは、白衣を着た初老のやせて背の高い麻酔医、ベルギー人のジャック・マッソーだった。太陽が頭を圧してくるような陽気の中、そこでもフランス語と英語が入り乱れた。

 敷地は広大だった。見渡す限り白いコンテナで、それが整然と並んで結びつけられていた。

 地震の2年後2012年に開院し、現在121ベッドもあるナプ・ケンベセンターでは、今でも毎月600件の手術があり、スタッフはなんと500人、うち外国人派遣は20人とのことだった。

 ジャックさんはその病院内をすたすた歩き、次から次へと説明してくれたのだが、俺はそれをメモしながら一方で、彼が誰だったか欧米の映画に出てくる名脇役に似ているとも思っていて、気が散って英語を聞き取るのが大変だった。今でも思い出せない。

 玄関まで行くと、そこがトリアージの場所で、つまり状態を判断して緊急かそれとも経過観察かなどを決める。すでに少女や青年が奥のコンテナでベッドに横たわっていた。

 他に骨折を治療する部屋、生化学検査室、輸血を取り扱う部屋、レントゲン室、理学療法室、食堂などなどがあったが、あまりに設備が整っているので俺はジャックさんに聞いた。

 「これ、幾つコンテナがあるんですか?」
 すると即答だった。

 「知りません」

 まあそうだ。ジャックさんが知っているべきことは、どこに何があるかであって建築的なデータではない。

 逆に俺は医療的なことがよくわからないので、だんだんメモが少なくなっていった。反比例して後ろのダーンと菊地さんの質問が多くなった。フランス語だから正確にはわからないが、患者にどう対応するのかの専門的な話に違いなかった。ジャックさんもそこは厳しい表情で彼らに答えた。お互い、現場でどう仕事をしているかの情報交換が続いた。

 特に小児科の入院ベッドでは、ダーンと菊地さんの熱意も格段に違った。入り口から奥をそっと指さしてダーンが何か言った。翻訳してくれたのが菊地さんだった。

 「ゆうべ私たちの産科救急センターから、双子の赤ちゃんの片方がこっちへ送られたんです。ヘルニアで」
 ダーンはその子が元気そうだ、と言っているのだった。

 そもそもハイチでは地震以前から社会的インフラが整わず、交通事故や燃料事故(やけど)による外傷治療のニーズが大きい。小児科に関しても病床が不足しているから、幼児の受け皿をあれやこれやと工面せねばならないらしいのだ。

 医者のありがたみというか、これが本来なんだよなあと俺は思った。ジャックさんもダーンも菊地さんも、それぞれの国の中で十二分な暮らしが出来るだろうに、わざわざ他の国へ来て苦労しながら医療をしていた。

 医は仁術とはよく言ったもので、この人たちこそ『国境なき仁術団』と呼ばれるべきではないかと、すでに俺が最後尾になっている列の中、彼らの後ろ姿に頭が下がった。

(電気システムもロジスティック部門が設営する)

 もうひとつ、ジャックさんの説明してくれたことで、報告しておきたい事例がある。

 巨大なコンテナ群の横に、これまた巨大なタンクが並んでゴーゴー言っていた。それは一部は飲料に適した水、あるいは手術や器具を洗う水、洗濯用水であった。

 日本から行ったばかりの俺は、それがどれだけ大切かよくわかっていなかった。だが、ジャックさんがしきりと「これのおかげで医療が出来るのだ」と言うので目がさめたのである。

 すべてはMSFロジスティック部門の仕事なのであった。『国境なき仁術団』には医師、看護師だけがいるのではない。我々を安全に送り迎えしてくれる輸送、そして薬剤などを管理する部門、そして建物を造ったり直したり、水を確保するべく工事をするロジスティックがいなければ、医療は施せないのだ。

 つまり、MSFに参加したいと思えば、医療従事者でなくてもいい。というより、そうした人々と一体になって、団は形成されている。

 その適切な例を今すぐにも書きたいのだけれど、リシャーが控えめな態度で両手を体の前に置いて日だまりの中からこちらを見ている。みんなで四駆へ乗って、今度は町のかなり荒くれた地区にあるマルティッサン救急・容態安定化センターを見学しなければならない。

 もちろんそこにも『仁術団』は常駐しており、やっぱり頭の下がる日々を生きていた。

 次回はその、かなり危険なゾーンでの医療についてレポートする。
 ひょっとしたらそのまま「適切な例」を書いてしまうかもしれない。

 俺が思わず涙をこぼしてしまった夜の話を。

 続く

追記
(↓谷口さんが撮った写真もたまには「追記」に。ナプ・ケンベセンターの緊急治療室前で。左から紘子さん、ダーン、ジャックさん、俺)







いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

いとうせいこう

この記事の関連ニュース