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リングと米社会で戦い続けた英雄アリが語った奇跡の一戦

ニューズウィーク日本版 2016年6月15日 18時0分

<モハメド・アリが74歳でこの世を去った。一度はボクシング界から追放されながらも復帰し、74年には前評判を覆して王座を奪回。この原稿はパーキンソン病との闘病を続けるアリが99年、74年の伝説の一戦を自ら振り返った本誌への寄稿文だ>

 俺の人生最高の試合は、1975年、ジョー・フレージャーと戦った「スリラー・イン・マニラ」だ。だが人生でやって最もよかったことは、兵役を拒否してベトナム戦争に行かなかったことだろう。人からは「おい、いい度胸してるな」と言われた。俺はそのたびにこう答えた。「あんたはベトナムに行って、たぶん殺されるだろう。いい度胸してるのはあんたのほうさ」

 74年にザイールで行われたジョージ・フォアマンとの一戦「ランブル・イン・ザ・ジャングル」は、アメリカ人をもっと神経過敏にさせた試合だった。あの戦いはつまり、人種問題でありベトナム問題だった。

【参考記事】モハメド・アリは徴兵忌避者ではない

 誰しもジョージが俺をぶちのめすだろうと言った。試合前、俺は記者たちに言ってやった。「俺が負けると思っている奴らは皆、(当時のザイール大統領モブツ・セセ・セコに)焼いて食われるぞ」って。俺は白人の奴らを震え上がらせたかったんだ。なんでかって? 奴らが俺たち黒人を怖がるからだよ。

 あの試合の契約書にサインした日、俺はジョージがどう戦うか分かっていたし、自分の動きも分かっていた。俺は15ラウンドずっと、奴の攻撃をかわしてやろうと思っていた。

 だから第1ラウンドでは攻撃をかいくぐり続けたが、このままじゃペースがもたないと気付いた。俺がロープ・ア・ドープ(ロープを背にして衝撃を逃し、相手を疲れさせる作戦)を使おうと決めたのはその時だった。

 俺はロープに背を預け、パンチを打たせるままにした。トレーナーが俺に叫んだ。「ジャブだ、両手を下げるな」。でも、そのとおりにする必要はなかった。偉大な戦士は皆、自分なりの戦いをするもの。誰かに戦い方を指示されることはない。



 第4ラウンドにはジョージに疲れが見え始めた。だから次は挑発することにしたんだ。「どうしたこの野郎、なんとかしてみろよ。全然効かないぞ。もうガス欠か。だったらこっちからぶちのめしてやるぞ」ってね。

 奴を怒らせて、パンチを打ち続けさせたかったんだ。時々視線を上げて、こっちからもパンチを繰り出す。で、またロープ際に戻るんだ。奴の腕の動きがどんどん鈍くなっていくのが分かったよ。

 リングに立ったら、相手をKOする最高の一発を狙うもんだ。でも、いくつものパンチの中で、どれが相手を倒すかは、その時が来るまで分からない。第8ラウンドにジョージが倒れたとき、分かったよ。これで終わったんだって。うれしかった。もしジョージが起き上がってまだ戦おうとしたら、もう1発殴り飛ばしてやったさ。

【参考記事】紫の異端児プリンス、その突然過ぎる旅立ち

 今、俺はパーキンソン病と闘っている。だけど病気も俺を止めることはできない。どこにでも行くし、仕事もするし、インタビューだって受ける。

 世界中がぶったまげるようなことを言ってやろうか。トレーニングを再開して、体を作り直すつもりなんだ。体重を35ポンド落として、マジソンスクエア・ガーデンで2、3人を相手にエキシビションをやる。

 15ラウンドの間ダンスし続けて、そいつらをぶっとばす。俺は(戦い方を)忘れちゃいない。体重は210ポンドにする。それで言ってやるんだ。「戻ってきたぞ。契約書を出しな」ってな。

[2016.6.14号掲載]
モハメド・アリ

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