論壇誌「アステイオン」84号(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス、5月19日発行)は、「帝国の崩壊と呪縛」特集。同特集から、朝日新聞論説委員である国末憲人氏による現代イスラム政治研究者ジル・ケペルのインタビュー「欧州ホームグロウンテロの背景」を4回に分けて転載する。 6月12日に米フロリダ州オーランドで悲惨なテロが起こったばかりだが、このところ注目を集めていたのはむしろ欧州で相次ぐテロだった。イスラム過激派による「ジハード」を3つの世代に分け、その思想や手法の違いを分析するケペル教授は、現状をどう見ているのか。
(写真:パリ同時多発テロでバー「カリヨン」のガラスに開いた弾痕)
※第1回:欧州ホームグロウンテロの背景(1)
※第2回:欧州ホームグロウンテロの背景(2)
※第3回:欧州ホームグロウンテロの背景(3)
◇ ◇ ◇
絆創膏より抗ウイルス薬
テロの挑戦を受けたフランスではいま、二つの極端な主張が大手を振っている。
一つは、しばしば右翼に見られる論理である。過激派を阻止しようとするあまり、イスラム教やイスラム教徒そのものに対しても拒絶感を示す。もう一つは、往々にして左翼の間に散見される発想だ。テロの原因はフランスの社会環境にこそ原因があり、イスラム教徒に対する偏見や差別が暴力を誘引している、との見方である。
この二つは、正反対であるように見えて、実は同じ意識の表と裏に過ぎない。前者は、テロの責任を大衆イスラム教徒が負うべきだと考える。後者はテロを、大衆イスラム教徒の意識が発露した一形態だと見なす。つまり、過激派やテロリストと大衆イスラム教徒とを、別個のものでなく、つながりのある一体と考えるのである。
しかし、過激派やテロリストは、実際には閉鎖性が極めて強く、社会から孤立したカルト集団的な存在である。一般のイスラム教徒との間には、容易に越えられない溝がある。近年のテロ容疑者らの背景を探っても、アル・カーイダ時代のテロリストの軌跡を追っても、地元社会との接点を見つけるのは難しい。
【参考記事】モスク幻像、あるいは世界史的想像力
ケペルの二〇一四年の著書『フランスの受難 団地の声』(Passion française: Les voix des cités)は、過激派の浸透とは全く逆の現象もフランスのムスリムの間で起きている様子を伝えている。これまで選挙にほとんど関心を示さなかった移民街で急速に参加意欲が高まり、多数の移民系の若者が立候補しているというのである。政治的立場も左派から右翼まで多様化している彼らの多くは、市民活動家として地元の失業問題や麻薬対策、差別の告発などに取り組んできた経歴を持つ。地元社会が抱える問題と真剣に向き合ってきたのはこうした人々であり、過激派ではないのである。
過激派側は「フランスでイスラム教徒は虐げられている」などと主張し、自分たちがムスリム一般の代表であるかのように振る舞う。しかし、これは暴力を正当化するための単なる口実に過ぎない。もちろん、口実を設けられないよう、格差を是正したり差別をなくしたりする努力は重要だが、それで彼らがテロをやめるわけではない。閉鎖的なテロ集団が何を狙い、どう動くか。その戦略をしっかり把握し、対策を練る姿勢が欠かせない。
問題は、政府や当局がそのような危機感を抱いているかどうか。ケペルは悲観的だ。
「欧米諸国の政府は、過激派の戦略が変化したことを全然理解していません。選挙と関係ないから、政治家たちは関心を示さないのです。何か問題が起きると、あわてて絆創膏かアスピリンで対応する。だけど、それが本当の病気なら、原因をきちんと究明しなくてはなりません。症状を分析し、抗ウイルス薬で治療すべきなのですが」
ケペルはかつて、欧州と中東が「歴史と文化遺産を共有している」として、共通の文明圏を築くべきだと提言してきた。ただ、もはやそのような楽観的な立場は取りえないという。
「ある時期までそのように信じてきました。しかし、『アラブの春』以降、状況は恐ろしいことになりました。シリア、イラク、イエメンで国家の機能が消滅し、激動期に入っています。クルド人との対立を深めるトルコの将来も予断を許さない。以前の提言は通用しません」
ならばこれからどうしたらいいのか。
「第一、第二世代が失敗したように、第三世代も長期的には成果を生まないでしょう。ただ、その後の世代交代がどこまで続くか。すべては、イスラム教徒自身が過激派の思想を拒否することから始まります。その営みなくして、イスラム過激派の活動が消え去ることはありません」
パリ同時多発テロの後で
このインタビューでケペルと会ったのは二〇一五年九月のことである。その二カ月後の十一月十三日、パリで一三〇人の犠牲者を出す同時多発テロが起きた。『シャルリー・エブド』事件で傷ついたフランスにとって、同じ年に受ける二度目の衝撃だった。
この日夜、独仏のサッカー親善試合が開かれていたパリ北郊サンドニのスタジアム周辺で三人が自爆し、市民一人が巻き添えになって死亡した。ほぼ同じ頃、市内東部の三カ所の飲食店が銃を持った男らに襲撃され、計三九人が死亡、別のカフェで一人が自爆した。また、ロックコンサートが開かれていたパリ中心部のホール「バタクラン」には三人が押し入って観客らを狙撃し、九〇人もの犠牲者が出た。容疑者の多くは、ベルギーやフランスの移民家庭の出身だった。
その五日後、首謀者と目されたモロッコ系ベルギー人アブデルアミド・アバウドは、潜伏していたサンドニのアパルトマンで警官隊と銃撃戦を繰り広げた末に死亡した。
【参考記事】ドキュメント:週末のパリを襲った、無差別テロ同時攻撃
【参考記事】ベルギー「テロリストの温床」の街
ケペルはこのテロの後、フランス各紙のインタビューに応じている。それによると、このテロも基本的にスーリーの理論に沿う形で実行されたと、彼は考えているようだ。ただ、標的が明確に定まっていた『シャルリー』の場合とは異なり、無差別の大衆を狙った側面が強くなった、とも指摘している。
『リベラシオン』紙のインタビューで、彼はテロリストの意図をこう分析した。
「彼らが狙ったのは、嫌イスラム傾向の強い右翼を刺激し、イスラム教徒に対するリンチを誘発させることだった。スカーフをまとったイスラム教徒の女性が襲われるだろう。イスラム教の戒律に沿ったハラールを商う店が焼き打ちに遭うだろう。本来『イスラム国』と何の関係もないイスラム教徒も、このような『嫌イスラム』意識に直面して、ジハードに合流するに違いない――。彼らはそう考えた」
もっとも、テロリストらの当ては外れた。確かにイスラム教徒に対する嫌がらせや脅しは一部で起きたが、フランスを覆う流れにはならなかった。多くのイスラム教徒は、右翼よりもテロリスト側に嫌悪感を抱き、容疑者らを非難した。『シャルリー』事件の際にはまだ、テロリスト側の訴えが一部のイスラム教徒を引きつけたが、今回のテロは逆に、彼らの離反を促したのである。
「テロリストらは結局、大衆の動員に失敗した」
今回のテロに標的がなかったわけではない。一つは「バタクラン」だ。十九世紀半ばに建てられて東洋風の奇妙な外観を持つこの劇場は、かつてユダヤ系が所有し、イスラエル支援のイベントの会場としても使われた。「ユダヤ人の施設」として、過激派らしき人物から脅迫を受けたこともある。また、襲撃を受けたカフェやレストランはいずれも、この地域に住む裕福な左派系インテリのたまり場だった。「ユダヤ人」「リベラルな知識人」は、スーリーが定めた標的通りである。ただ、『シャルリー』の時と違い、そうしたメッセージが伝わらないほど、今回は被害が大きい。犠牲者には、イスラム教徒の若者も含まれた。
テロリストらがこのような犯行に及んだ背景を、ケペルは『ルモンド』紙のインタビューで説明した。
「『イスラム国』のフランス語圏出身者は、(伝統的なイスラム社会で育ったのでなく)比較的最近になってネット経由でイスラム文化を吸収した一群だ。それだけに、過激派以上に過激になった。野蛮な発想に陥り、長期的に活動を続けるために必要な政治的計算ができなくなった」
テロもしょせんは、未熟な若者たちが暴力を手にした末の出来事なのだろうか。第三世代ジハードの限界は、そこにあるのかもしれない。
テロと向き合う文明社会に必要なのは、彼らに対して恐れおののくことではない。その深淵をこちらからしっかり見つめることだ。そうしてこそ、打開の糸口が見えて来る。その闇は、意外に浅いかもしれない。
[参考文献]
Kepel, Gilles(2002), Chronique d'une guerre d'Orient, Gallimard. (池内恵訳『中東戦記――ポスト9・11時代への政治的ガイド』講談社、二〇一一年)
Kepel, Gilles(2008), Terreur et martyre, Flammarion. (丸岡高弘訳『テロと殉教――「文明の衝突」をこえて』産業図書、二〇一〇年)
Kepel, Gilles(2012), Quatre-vingt-treize, Gallimard.
Kepel, Gilles(2014), Passion française: Les voix des cités, Gallimard.
Kepel, Gilles(2015), Terreur dans l'Hexagone: Genèse du djihad français, Gallimard.
国末憲人(二〇〇五)『自爆テロリストの正体』新潮社
Lia, Brynjar(2007), Architect of Global Jihad: The Life of Al-Qaeda Strategist Abu Mus'ab Al-Suri, Hurst & Co Publishers Ltd.
Cruickshank, Paul and Mohannad Hage Ali (2007), "Abu Musab Al Suri: Architect of the New Al Qaeda", Studies in Conflict & Terrorism, Taylor & Francis Group. Available from http://www.lawandsecurity.org/portals/0/documents/abumusabalsuriarchitecto henewalqaeda.pdf
※第1回:欧州ホームグロウンテロの背景(1)
※第2回:欧州ホームグロウンテロの背景(2)
※第3回:欧州ホームグロウンテロの背景(3)
*本稿は二〇一五年一〇月二〇日に朝日新聞に掲載されたインタビューを元に大幅に加筆している。
[インタビュイー]
ジル・ケペル Gilles Kepel
1955年生まれ。パリ政治学院卒業。フランスの政治学者、専門はイスラム・アラブ世界。1994~96年米コロンビア大学などで客員教授。パリ政治学院教授としてイスラム・アラブ世界研究を率いる。著書に『イスラムの郊外――フランスにおける一宗教の誕生』(1987年)、『ジハード』(2000年)、『中東戦記――ポスト9.11時代への政治的ガイド』(2002年)、『テロと殉教』(2008年)など多数。
[執筆者]
国末憲人(朝日新聞論説委員) Norito Kunisue
1963年岡山県生まれ。85年大阪大学卒業。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。パリ支局員、パリ支局長、GLOBE副編集長を経て論説委員(国際社説担当)、青山学院大学仏文科非常勤講師。著書に『自爆テロリストの正体』『サルコジ』『ミシュラン 三つ星と世界戦略』(いずれも新潮社)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』『巨大「実験国家」EUは生き残れるのか?』(いずれも草思社)、『ユネスコ「無形文化遺産」』(平凡社)など。
※当記事は「アステイオン84」からの転載記事です。
『アステイオン84』
特集「帝国の崩壊と呪縛」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
国末憲人(朝日新聞論説委員)※アステイオン84より転載
(写真:パリ同時多発テロでバー「カリヨン」のガラスに開いた弾痕)
※第1回:欧州ホームグロウンテロの背景(1)
※第2回:欧州ホームグロウンテロの背景(2)
※第3回:欧州ホームグロウンテロの背景(3)
◇ ◇ ◇
絆創膏より抗ウイルス薬
テロの挑戦を受けたフランスではいま、二つの極端な主張が大手を振っている。
一つは、しばしば右翼に見られる論理である。過激派を阻止しようとするあまり、イスラム教やイスラム教徒そのものに対しても拒絶感を示す。もう一つは、往々にして左翼の間に散見される発想だ。テロの原因はフランスの社会環境にこそ原因があり、イスラム教徒に対する偏見や差別が暴力を誘引している、との見方である。
この二つは、正反対であるように見えて、実は同じ意識の表と裏に過ぎない。前者は、テロの責任を大衆イスラム教徒が負うべきだと考える。後者はテロを、大衆イスラム教徒の意識が発露した一形態だと見なす。つまり、過激派やテロリストと大衆イスラム教徒とを、別個のものでなく、つながりのある一体と考えるのである。
しかし、過激派やテロリストは、実際には閉鎖性が極めて強く、社会から孤立したカルト集団的な存在である。一般のイスラム教徒との間には、容易に越えられない溝がある。近年のテロ容疑者らの背景を探っても、アル・カーイダ時代のテロリストの軌跡を追っても、地元社会との接点を見つけるのは難しい。
【参考記事】モスク幻像、あるいは世界史的想像力
ケペルの二〇一四年の著書『フランスの受難 団地の声』(Passion française: Les voix des cités)は、過激派の浸透とは全く逆の現象もフランスのムスリムの間で起きている様子を伝えている。これまで選挙にほとんど関心を示さなかった移民街で急速に参加意欲が高まり、多数の移民系の若者が立候補しているというのである。政治的立場も左派から右翼まで多様化している彼らの多くは、市民活動家として地元の失業問題や麻薬対策、差別の告発などに取り組んできた経歴を持つ。地元社会が抱える問題と真剣に向き合ってきたのはこうした人々であり、過激派ではないのである。
過激派側は「フランスでイスラム教徒は虐げられている」などと主張し、自分たちがムスリム一般の代表であるかのように振る舞う。しかし、これは暴力を正当化するための単なる口実に過ぎない。もちろん、口実を設けられないよう、格差を是正したり差別をなくしたりする努力は重要だが、それで彼らがテロをやめるわけではない。閉鎖的なテロ集団が何を狙い、どう動くか。その戦略をしっかり把握し、対策を練る姿勢が欠かせない。
問題は、政府や当局がそのような危機感を抱いているかどうか。ケペルは悲観的だ。
「欧米諸国の政府は、過激派の戦略が変化したことを全然理解していません。選挙と関係ないから、政治家たちは関心を示さないのです。何か問題が起きると、あわてて絆創膏かアスピリンで対応する。だけど、それが本当の病気なら、原因をきちんと究明しなくてはなりません。症状を分析し、抗ウイルス薬で治療すべきなのですが」
ケペルはかつて、欧州と中東が「歴史と文化遺産を共有している」として、共通の文明圏を築くべきだと提言してきた。ただ、もはやそのような楽観的な立場は取りえないという。
「ある時期までそのように信じてきました。しかし、『アラブの春』以降、状況は恐ろしいことになりました。シリア、イラク、イエメンで国家の機能が消滅し、激動期に入っています。クルド人との対立を深めるトルコの将来も予断を許さない。以前の提言は通用しません」
ならばこれからどうしたらいいのか。
「第一、第二世代が失敗したように、第三世代も長期的には成果を生まないでしょう。ただ、その後の世代交代がどこまで続くか。すべては、イスラム教徒自身が過激派の思想を拒否することから始まります。その営みなくして、イスラム過激派の活動が消え去ることはありません」
パリ同時多発テロの後で
このインタビューでケペルと会ったのは二〇一五年九月のことである。その二カ月後の十一月十三日、パリで一三〇人の犠牲者を出す同時多発テロが起きた。『シャルリー・エブド』事件で傷ついたフランスにとって、同じ年に受ける二度目の衝撃だった。
この日夜、独仏のサッカー親善試合が開かれていたパリ北郊サンドニのスタジアム周辺で三人が自爆し、市民一人が巻き添えになって死亡した。ほぼ同じ頃、市内東部の三カ所の飲食店が銃を持った男らに襲撃され、計三九人が死亡、別のカフェで一人が自爆した。また、ロックコンサートが開かれていたパリ中心部のホール「バタクラン」には三人が押し入って観客らを狙撃し、九〇人もの犠牲者が出た。容疑者の多くは、ベルギーやフランスの移民家庭の出身だった。
その五日後、首謀者と目されたモロッコ系ベルギー人アブデルアミド・アバウドは、潜伏していたサンドニのアパルトマンで警官隊と銃撃戦を繰り広げた末に死亡した。
【参考記事】ドキュメント:週末のパリを襲った、無差別テロ同時攻撃
【参考記事】ベルギー「テロリストの温床」の街
ケペルはこのテロの後、フランス各紙のインタビューに応じている。それによると、このテロも基本的にスーリーの理論に沿う形で実行されたと、彼は考えているようだ。ただ、標的が明確に定まっていた『シャルリー』の場合とは異なり、無差別の大衆を狙った側面が強くなった、とも指摘している。
『リベラシオン』紙のインタビューで、彼はテロリストの意図をこう分析した。
「彼らが狙ったのは、嫌イスラム傾向の強い右翼を刺激し、イスラム教徒に対するリンチを誘発させることだった。スカーフをまとったイスラム教徒の女性が襲われるだろう。イスラム教の戒律に沿ったハラールを商う店が焼き打ちに遭うだろう。本来『イスラム国』と何の関係もないイスラム教徒も、このような『嫌イスラム』意識に直面して、ジハードに合流するに違いない――。彼らはそう考えた」
もっとも、テロリストらの当ては外れた。確かにイスラム教徒に対する嫌がらせや脅しは一部で起きたが、フランスを覆う流れにはならなかった。多くのイスラム教徒は、右翼よりもテロリスト側に嫌悪感を抱き、容疑者らを非難した。『シャルリー』事件の際にはまだ、テロリスト側の訴えが一部のイスラム教徒を引きつけたが、今回のテロは逆に、彼らの離反を促したのである。
「テロリストらは結局、大衆の動員に失敗した」
今回のテロに標的がなかったわけではない。一つは「バタクラン」だ。十九世紀半ばに建てられて東洋風の奇妙な外観を持つこの劇場は、かつてユダヤ系が所有し、イスラエル支援のイベントの会場としても使われた。「ユダヤ人の施設」として、過激派らしき人物から脅迫を受けたこともある。また、襲撃を受けたカフェやレストランはいずれも、この地域に住む裕福な左派系インテリのたまり場だった。「ユダヤ人」「リベラルな知識人」は、スーリーが定めた標的通りである。ただ、『シャルリー』の時と違い、そうしたメッセージが伝わらないほど、今回は被害が大きい。犠牲者には、イスラム教徒の若者も含まれた。
テロリストらがこのような犯行に及んだ背景を、ケペルは『ルモンド』紙のインタビューで説明した。
「『イスラム国』のフランス語圏出身者は、(伝統的なイスラム社会で育ったのでなく)比較的最近になってネット経由でイスラム文化を吸収した一群だ。それだけに、過激派以上に過激になった。野蛮な発想に陥り、長期的に活動を続けるために必要な政治的計算ができなくなった」
テロもしょせんは、未熟な若者たちが暴力を手にした末の出来事なのだろうか。第三世代ジハードの限界は、そこにあるのかもしれない。
テロと向き合う文明社会に必要なのは、彼らに対して恐れおののくことではない。その深淵をこちらからしっかり見つめることだ。そうしてこそ、打開の糸口が見えて来る。その闇は、意外に浅いかもしれない。
[参考文献]
Kepel, Gilles(2002), Chronique d'une guerre d'Orient, Gallimard. (池内恵訳『中東戦記――ポスト9・11時代への政治的ガイド』講談社、二〇一一年)
Kepel, Gilles(2008), Terreur et martyre, Flammarion. (丸岡高弘訳『テロと殉教――「文明の衝突」をこえて』産業図書、二〇一〇年)
Kepel, Gilles(2012), Quatre-vingt-treize, Gallimard.
Kepel, Gilles(2014), Passion française: Les voix des cités, Gallimard.
Kepel, Gilles(2015), Terreur dans l'Hexagone: Genèse du djihad français, Gallimard.
国末憲人(二〇〇五)『自爆テロリストの正体』新潮社
Lia, Brynjar(2007), Architect of Global Jihad: The Life of Al-Qaeda Strategist Abu Mus'ab Al-Suri, Hurst & Co Publishers Ltd.
Cruickshank, Paul and Mohannad Hage Ali (2007), "Abu Musab Al Suri: Architect of the New Al Qaeda", Studies in Conflict & Terrorism, Taylor & Francis Group. Available from http://www.lawandsecurity.org/portals/0/documents/abumusabalsuriarchitecto henewalqaeda.pdf
※第1回:欧州ホームグロウンテロの背景(1)
※第2回:欧州ホームグロウンテロの背景(2)
※第3回:欧州ホームグロウンテロの背景(3)
*本稿は二〇一五年一〇月二〇日に朝日新聞に掲載されたインタビューを元に大幅に加筆している。
[インタビュイー]
ジル・ケペル Gilles Kepel
1955年生まれ。パリ政治学院卒業。フランスの政治学者、専門はイスラム・アラブ世界。1994~96年米コロンビア大学などで客員教授。パリ政治学院教授としてイスラム・アラブ世界研究を率いる。著書に『イスラムの郊外――フランスにおける一宗教の誕生』(1987年)、『ジハード』(2000年)、『中東戦記――ポスト9.11時代への政治的ガイド』(2002年)、『テロと殉教』(2008年)など多数。
[執筆者]
国末憲人(朝日新聞論説委員) Norito Kunisue
1963年岡山県生まれ。85年大阪大学卒業。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。パリ支局員、パリ支局長、GLOBE副編集長を経て論説委員(国際社説担当)、青山学院大学仏文科非常勤講師。著書に『自爆テロリストの正体』『サルコジ』『ミシュラン 三つ星と世界戦略』(いずれも新潮社)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』『巨大「実験国家」EUは生き残れるのか?』(いずれも草思社)、『ユネスコ「無形文化遺産」』(平凡社)など。
※当記事は「アステイオン84」からの転載記事です。
『アステイオン84』
特集「帝国の崩壊と呪縛」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
国末憲人(朝日新聞論説委員)※アステイオン84より転載