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いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く5 (スラムの真ん中で)

ニューズウィーク日本版 2016年6月22日 18時0分

<「国境なき医師団」の取材で、ハイチを訪れることになった いとうせいこう さん。首都ポルトー・フランスのコーディネーションオフィスで、ハイチという国の成り立ちと苦難の歴史のレクチャーを受け、ハイチに対する考えを新たにし、そして本格的な取材が始まった...>

これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 1、2、3、4」

マルティッサンへ

 マルティッサン救急・容態安定化センターは、まさに前日モハメドから聞いた治安の悪い地区の中にあった。危険度については日本外務省のページにもハイチの「3大スラム街」のひとつと明記されているし、「ギャング同士の銃撃戦」が発生していると注意が喚起されている。

 コンテナ・ホスピタルから移動する途中も、ずいぶんテントが密集する区画を通り、あらゆるものが売られているらしき凄まじい人ごみと、そこからもうもうと立ち上る白い煙と埃を見たのだが、リシャーによればそこは「かつて奴隷たちが売買されていた市場」だったのだそうで、もちろん身分はとっくに解放されたのであれ、今も貧しい人たちが大勢集まって自分たちの市場としてにぎわっている、いや騒然としているのだった。

 我々は首都ポルトー・プランスの港側へ近づいていたのだと思う。そこが全域立ち入ってはいけない場所だと聞いていたし、四駆の中では「ポルトー・プランスとは王子様の港という意味で、18世紀初頭にこの地に現れたプランス号の船長がそう名づけた」という由来をリシャーが話していた記憶があるから。

 30分ほどで車は白い壁の前に着いた。壁には赤いペンキで『国境なき医師団』と書かれ、さらに大きな「小銃の絵とバツ印」が描かれていた。MSFは武器を持っていない、と主張するためだろうかと不思議に思いながら四駆を降りて、開いた鉄扉の中に素早く入ったが、あとから谷口さんに「病院内に入るなら武器を携帯してはならない」というサインだと聞いた。

 どのような勢力であれ、『国境なき医師団』は医療を拒まない。だからこそ、どのような勢力であれ武器は放棄せねばならない。そのことは以前にも書いた。院内での対立は絶対にあってはならないからだ。患者や医師たちが紛争に巻き込まれることになってしまう。

 ただ、その救急・容態安定化センターの場合は少し事情が違った。武器を持つ者のほとんどは政治勢力でなく、ギャングだからである。ただし、その時点で俺は何も考えておらず、周囲に急がされるまま、かなりのんきな感じで鉄条網に守られた壁の中に入ったのである。事実、メモには「にぎやかなところだ」と実に無自覚な言葉が書いてある。

修羅場で医療する

 我々をここで迎えたのはデルフィネ・アグヤナというフランス人女性だった。落ち着いた雰囲気の彼女が、そのかなり緊迫した病院をOCBの管轄下で運営しているプロジェクト・コーディネーターとのことだった。あとから聞いた話だが、マフィアの抗争が絶えない地域で無料医療を行っているとなれば、修羅場は常にある。それを日々切り抜けているスタッフにはしかし、まるでそれを予感させない柔らかさが備わっていた。

 その救急・容態安定化センターで、彼らは一年に六万人の患者を看ているそうだった。もちろん無料で。コンテナ・ホスピタルからすれば面積はさほど広くないから、20人だというスタッフはさらにてんてこまいに違いなかった(うち、外国人派遣スタッフは6人)。

(写真は現地スタッフ看護師)

 施設はコンクリ、机や椅子は木で出来ていた。なんだか子供の頃に見た小さな医院のようだった。内部を見せてもらいながら、俺はデルフィネさんから「現在、ハイチ保健省と合同で運営する72床の病院を作ろうとしている」と聞いた。国の予算も合わせられれば、もっと有効な医療が出来るだろうとのことだった。

 「僕らも子供のために、それが早く出来てくれればと思う」
 後ろでダーンがそうデルフィネさんに言った。

 「自分たちの施設だけで未熟児を看ているのにはもう限界があるから」



 前回書いた乳幼児の病床不足を、ダーンは再び強調した。菊地紘子さんもシリアスな表情でデルフィネさんを見上げ、何度もうなずいていた。最初の日にポール校長から聞いた「震災直後とは違って、我々MSFは他の団体とは異なる働きをすべきだと思う」という考えのひとつがそうした合同作業への呼びかけにつながるのかもしれなかった。国が被災者や、その後生まれた患者の面倒を看るよう、MSFがバックアップするのだ。

 そして、やがて彼らは撤退し、ハイチ政府自身が国民の医療をすべて担う。MSFの究極の願いがそうであることを、俺はのちの取材でも耳にした。

 話題にあがった小児科の診察室にも我々は入った。週末なのでちょうど人がはけたところだと言って、ハイチ人医師フェネルス・ジャン・マルクが木の椅子に座ったまま、にこやかに我々を出迎えた。狭い一室だった。途端にダーン、菊地さん、デルフィネさんたちがフランス語で何かしゃべり出した。小児のケアのことだろうと思われた。あらゆる機会に彼らはディスカッションするのだった。

 他に放射線室を見て、ハイチ人スタッフで整形外科医のエマニュエル・ディアフール医師とカゾ・ジョリエット技師に挨拶をし、続いて外傷を看る部屋でデルフィネさんから「一日に銃傷患者は3人」というとんでもない数字を聞いてようやく俺は場所の危険性を認識し始め(一体どれだけの抗争が周囲で起こっているというのだろう)、実際タンカに乗せて運び込まれてきたパンツ一枚のハイチ人青年の体をしげしげ見ることにもなった(どこを撃たれたのだろうか、とつい......)。

 紘子さんがその時にデルフィネさんから聞いてくれた話によると、「銃傷患者を看たスタッフがリストアップされ、あとで心理ケアを受けることもかつてはあった」そうだ。俺ではとても気づかない質問を紘子さんはしていたのだろう。つまり、ショックは患者だけでなく、医療側にもあるのでは?と。

 「私のいる産科救急センターでは思いもよらない危険がここにはあります」
 紘子さんはそう言い、回りのスタッフに尊敬のまなざしをむけたものだ。

 実際、回復室という、手術後の患者が休む部屋の中でデルフィネさんからこんな笑い話も聞いた。つい数日前のことだが、警察が外傷のある患者を運び込んできたそうで、それがギャングだったので治療後すぐに逃げ出して捕物になり、登った屋根が抜け落ちて再度逮捕されたのだという。

 デルフィネさんは「早く屋根を直さなきゃ」と言ってシニカルな笑顔になったが、聞いているこっちは応急処置の天井を見やりながら、医療だけでない問題に日々対応しているスタッフの気苦労を思うばかりだった。

 小児の経過観察のための、9床の部屋にも我々は入った。現地スタッフの女性看護師が2人いて、確かベッドには3組の母子がいたと思う。看護師が集まっている机の上に、大きなカルテ帳のような本があり、彼女らはそれをめくって中を見せてくれた。むろん俺が読めるはずもなく、紘子さんにかいつまんでもらった。

 「貧血、肺炎、栄養失調、髄膜炎などが多いですね」
 部屋は静かだった。生後五ヶ月だというアリーシャという女の子が、母親の膝の上で点滴を受けていた。

コレラ病棟(テント)

 いったん病院のメインの施設を出ると、「PANSMAN」(ハイチのクレオール語で「包帯」)と看板のある別棟があり、まさに包帯をあちこちに巻いた患者たちが木の椅子に座って並んでいた。棟の中にはふたつのベッドがあって、そこで一日平均50人の患者が包帯を変えたり、抜糸をしたりするのだそうだった。

 患者たちは一様に寡黙だった。これは他の施設でも同じで、外国人の俺たちを警戒しているのか、決して街の中のようにはしゃべらないのだ。MSFで診察してもらっていること自体に、何か遠慮のような気遣いがあるのかもしれなかった。

 また、灰色の大きなテントにも我々は入った。まず入り口に座った係の女性がポンプにつながったノズルを持って、我々一人ずつの靴の裏に白濁した消毒液をかけた。出入りには各一回ずつ、そうやって消毒が必要だった。

 中には土の上にずらりと簡易ベッドが並べられていた。それがコレラ病棟だった。乾季の終わりにはまだ数人の患者しかいないとのことで、しかも病棟に彼らはいなかったが、雨季になって12月のピークを迎えるとそこに3、40人が常にひしめくとのことだった。

 ベッドのお尻が当たるところに穴が開いていた。そこから直接下痢の便を出してもらうのだそうで、幾つかのベッドの穴の下にはバケツが設置されていた。「コレラは尋常でない下痢になりますので」と谷口さんが教えてくれた。



 さらに教わったところによると、大地震からの5年間に70万人以上の人を苦しめたコレラは(死者はおよそ9000人)、もともとハイチに存在した病気ではなかった。2010年の大地震の際、救助に来た外国人からもたらされて感染が拡大してしまったのだ。皮肉といえば、それほど皮肉なこともなかった(MSFがその感染源だったわけではないのに、彼らは入院した42万人の半数を治療した)。



 また、もし妊婦がコレラに感染していた場合が難しく、隔離をしながら医師の判断で帝王切開か自然分娩かを決める。責任重大かつ繊細な観察と高い技術の必要な医療のひとつだろう。

 まだ患者の少ないテントから、ピーク時の緊張を想像するのはなかなか困難だった。けれども、ベッドが埋まり、さらに患者が駆け込み、誰もが際限なく下痢をし、高熱にさいなまれるとすれば、スタッフは昼夜を徹して救護を行い、しかし施設の外の街にゴミが浮き、汚水が流れている現実の前に力を落とすに違いない。構造から国自体を変えなければ、患者は減らないのだから。

 そして治安の関係で、夕方には病院を出て宿舎に帰らざるを得ないのだ。

 我々は最後に屋根だけがある広い受付で、たくさんの木製ベンチに座っているハイチ市民が風に吹かれながら辛抱強く順番を待つのを見た。どうやら輸血の呼びかけらしい絵が壁にかけてあって、その素朴さに心ひかれながら考えてみれば、ハイチの識字率が低いのだった。それで病院からの訴えが絵になる。

 確かに野外のトイレにも、とても味のある訴求力の高い絵があったのを俺は思い出した。

 それを写真に撮りに行き、帰ってくると出かける時間になっていた。我々はダーンや紘子さんと別れ、宿舎に帰って昼食をとることになった。どうやらデルフィネさんも別な四駆に乗って自分の宿舎に戻るのがわかった。

 つまり彼女はわざわざ休みの日に、俺の取材のため出てきてくれていたのだ。

(クレオール語がわからないが、たぶん輸血の呼びかけ)

パーティに招待される

 夕方から、私たちの宿舎にいらっしゃいませんか?

 マルティッサンでの別れ際に紘子さんがそう言った。

 街の中のチカイヌという地域にある宿舎で、週末の屋上パーティがあるというのだった。

 いかにも気楽なように見えるが、催すのも派遣スタッフ、出席するのも派遣スタッフ。つまりそれが彼らのストレスマネージメントのひとつなのだ、とわかった。

 一体どんな宴を、彼らは開くのか。

 興味を持って出かけることにして本当によかった、と今つくづく思う。

 俺はそこで各国からの MSFスタッフに一気に会い、話をし、何が彼らを突き動かしているのかを知ることになるのだから。

(男子トイレ)

(女子トイレ。洗濯するべからず)

続く


いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

いとうせいこう

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