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残虐映像に慣れきってしまった我々の課題 ―映画『シリア・モナムール』映像の受け取り方

ニューズウィーク日本版 2016年6月29日 16時20分

<ドキュメンタリー映画『シリア・モナムール』は、シリア内戦をリアルに描いている。そのショッキングな映像にも、どこか慣れてしまっている自分。そうしたことが起きる現代の情報環境を考える...>

 6月18日から公開中のドキュメンタリー映画『シリア・モナムール』は、シリア内戦のリアルを描いたものだ。これでもかと詰め込まれた残虐でショッキングな映像の数々は、シリアの現状を世界に伝えるためでもあり、観た者は言葉を失うという感想を述べている。

 しかし、日本で平和に暮らす多くの人々にとって、シリアの現状は同情しつつもどこか縁遠いと感じてしまうのも事実ではないか。もっといってしまえば、どこか残虐な映像を観ても、「かわいそうだな」という感想をぽつりと心につぶやいたその次の瞬間、もうシリアのことを考えなくなってしまうのではないか。

 残虐な映像も「よく観る光景」として処理してしまうとすれば、それは悲劇を「体験」ではなく映像を通して「見る」我々にとっての、映像の受け取り方に関する問題だ。

シリア内戦と映画の概略

 2010年から生じたチュニジアの「ジャスミン革命」。それを契機に中東の多くの国で「アラブの春」が訪れたことは記憶に新しい。シリアもその流れに乗って反政府組織が革命を企てて武器を手にとった。しかし、革命は達成されずに内戦は激化。2014年頃からはISILがシリアで勢力を拡大。政府軍や反政府軍、加えてISILや彼らに敵対する世界中の政府による様々な思惑が錯綜する現在のシリアは、混迷を極めている。

 映画の簡単なあらすじはこうだ。映画監督のオサーマ・モハンメドは、パリに亡命中のシリア人。自国の内戦に心を痛める中、モハンメドはSNSに日々投稿される名も無きシリア人が撮影した映像を繋ぎ合わせることで、シリア内戦の残虐さや悲劇を伝えようとする。そんな中、シマヴと名乗るシリア在住のクルド人(シリア内の少数民族)とSNSで出会い、彼女が撮影した映像がモハンメドに送られる。

 本作はドキュメンタリー映画であるが、監督のモハンメドは現地におらず、自ら撮影することはない。よって、名も無きシリア人やシマヴから送られた映像をつなぎ合わせることで映画を成立させる。そこには、自分が現地に行くことのできないもどかしさや、映像から感じる滲み出る深い悲しみが表現されている。

【参考記事】シリアの惨状を伝える膨大な映像素材を繋ぎ合わせた果てに、愛の物語が生まれる

我々にとっての映像体験とは

 『シリア・モナムール』を観た人々は、内戦の悲劇に衝撃を受ける。映画の公式ホームページには識者のコメントも掲載されており、筆者もコメントを寄せたが、悲劇の衝撃以上に、残虐映像の受け取り方のジレンマを表明した。

 映画の映像は確かに悲劇だ。戦闘で亡くなる若者や、幼い子供の遺体も登場する。まさに悲劇。しかしどうしても、「悲劇の既視感」が筆者の脳裏をよぎってしまった。



 筆者は32歳だが、私の世代やその下の世代にとって、インターネットは身近な存在だ。そこには古今東西の戦争をはじめとする悲劇、そしてそれに伴う悲惨な映像が日々投稿されている。確かにインターネットやSNSは悲劇を伝えることで感情的連帯や「ソーシャル革命」を促進している。しかし、真剣に戦争の悲劇を伝える映像を大量に見る中で、そうした映像にどこか慣れてしまった自分もいる。そして白状すれば、私は本作を観た時に、どこかで「見慣れた光景」だと感じてしまった。

 読者の中には「不謹慎だ」「戦争の悲劇を理解していない」と思う人もいるだろう。筆者も頭では理解しているつもりであることを断っておく。しかし、よくも悪くも日本で幸せに暮らし、映像を通してのみ悲劇を「見る」世代にとって、身体的な「経験」としての悲劇はない。どんなに年長世代に批判されたとしても、頭の中の「悲劇映像」というカテゴリーに収納されるだけに終わってしまいそうになる自分に、映画を観ていて気付かされた。そしてそうした感想を持つ人々も一定数いるのではないか。とりわけ小さな頃からネットを通して様々な映像をみてきた世代にとっては。

 要するにこれは映像経験と身体経験のズレである。湾岸戦争では、米軍側からの視点でのみ提供される、凄惨なシーンがひとつもない機械的な映像によって、戦争の悲劇的な側面はみられなくなった。そのためフランスの思想家ジャン・ボードリヤール(1929〜2007年)は『湾岸戦争は起こらなかった』という書物を書いている。それは、米軍による空爆の映像はまるでゲームのようなものであり、テレビで見える戦争は本来の戦争とは異なるものになったという、当時の鋭いメディア批評である。一方からの映像が現実を歪曲しているというわけだ。

 現在はSNSを通じて被害当事者の視点からも生々しい映像が送られており、戦争の悲劇を多く目にすることができる。それでも、実際に生じているのがわかっても我々の身体的反応は鈍感になる。戦争の現実をみせつけられても、それでも我々は映像を「ショッキングな映像」というフレームに回収してしまうということだ。シリアの問題を考えることが重要である一方、映像の受け取り方に関する問題もまた、我々に課されていることの気付かされた。

 『シリア・モナムール』の監督モハンメドは、身体はパリにあり、シリアの映像を撮ることはできない。だからこそSNSに投稿された映像を用いるが、彼の態度はどこまでも現実を伝えることの不可能性を示しているようにも思える。モハンメドは現地で映像を撮影するシマヴを媒介にすることで現実を伝えるが、彼自身の身体と映像の間のジレンマが印象的だ。

 この映画を観る私も、同じジレンマを抱えている。映像がどれほど悲劇的でも、それに心からの共感を示すことができない。そればかりか、映像慣れしてしまった私は現実に向き合う前に、そうした映像慣れの問題に取り組まなければならない。メディア論においては映像と身体の不一致という問題は古くから議論されているが、こうした問題はますます深く議論されなければならないだろう。

 最後にもう一点。シマヴがシリアの現実をモハンメドに知らしめるのであれば、日本の現実を知らしめるのは何なのだろうか。我々にとって、現実を映すシマヴのような存在とは何なのだろうか。本作を日本で鑑賞することには、様々な意味があるように思われる。



『シリア・モナムール』
監督:オサーマ・モハンメド
シアター・イメージフォーラムほかにて公開中 
(C)2014 - LES FILMS D'ICI - PROACTION FILM


[執筆者]
塚越健司
1984年生まれ。情報社会学研究者。専攻は情報社会学、社会哲学。ハッカー文化研究を中心に、コンピュータと人間の歴史など幅広く探求。得意分野はネット社会の最先端、コンピュータの社会学など。TBSラジオ『荒川強啓デイ・キャッチ!』火曜ニュースクリップレギュラー出演中。著書に『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)共著に東浩紀監修『開かれる国家 国境なき時代の法と政治』(KADOKAWA)など多数

塚越健司

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