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いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く6 (パーティは史上最高)

ニューズウィーク日本版 2016年7月4日 16時50分

<「国境なき医師団」の取材で、ハイチを訪れることになった いとうせいこう さん。取材を始めると、そこがいかに修羅場かということ、そして、医療は医療スタッフのみならず、建物を造ったり、水を確保したり、といった様々なスタッフによって成り立っていることを知る。そして、夕方、パーティーに招待された...>

これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 1、2、3、4、5」

革命家の銅像

 治安のよろしくない地域を抜け、紘子さんとダーンと谷口さんとリシャーと俺の五人を乗せた四駆はポルトー・プランスの中心街をゆっくり走った。

 正午前のそこには多くの官庁が集中し、公園があり、あるいは確か少し手前に市内最大の墓地があって、白い壁が続く先に『2010』と刻まれた白い門が立っていたりした。天秤も描かれていたように記憶する。天災を前にしてなお裁きを求めるとは、ある意味いい加減な仏教的心性を持つ身からはいかにも厳しく感じられた。

 「おはか」
 と言っているのは谷口さんだった。
 「ウ・ア・カ」
 とリシャーが反復した。
 「お・は・か」
 「オ・ハ・カ」
 リシャーは日本語を覚えて満足そうだったが、初めての日本語が「お墓」でよかったのだろうか。

 やがて車は独立の志士を称える像の横を通り、美術館の脇を過ぎた。その美術館のあるシャンドマルス公園では昨年、MSFの写真展も開かれたそうだった。

 アイスクリームの屋台があちこちに並んでいて、明るい日差しを浴びていた。紘子さんはいつもそれを食べたくて仕方がなくなると言ったが、コーディネーション・オフィスは屋台の食べ物を衛生的に禁じていた。見るだけなら街並み同様、まことにのんびりしていた。

 官庁街は美しかったが、中がうまく機能しているとは言えなかった。例えば、1957年に政権をとったデュヴァリエ大統領が二代にわたって独裁を続け、逆らう者を殺め、国外追放をし、好き放題にふるまったあげくフランスへ逃亡したのだった。そのあと左派の司祭アリスティドが大統領となったが、すぐにクーデタが起こり、アメリカが介入。再びアリスティドが選挙で選ばれるも3年後の建国200周年(2004年)に反政府武装勢力が蜂起。さらに暫定を含む3代の大統領の政治とハリケーンと大地震を経て、その日があった。

 政変の連続の中で軍を持たなくなったハイチは警察国家であり、それ以外は国連が仕切っていた。公園に人が集まれば、クーデタになる可能性が今も当然あった。だからこそ日本の外務省が渡航を控えるよう呼びかけているに違いなかった。ギャングの撃ち合いだけが理由ではないはずだ。

 しかし、黒人奴隷が広場に集まって蜂起した歴史を持つ以上、ハイチ国民にとって権力の言うことを聞かないのは伝統なのに違いなかった。それがアナーキーな貧困を産み出し続けているにせよ。

 問わず語りのように、紘子さんは四駆の中で"以前、西アフリカのベナンに2年いた"ことを話し出した。MSFに参加する前に、海外協力隊としてかの地で働いていたのだという。

 「そこでもさっきの、銅像を見たんですよ。当時は歴史があんまりよくわかっていなかったんですけど。だからハイチにミッションで派遣されて、あの人だ!って思いました。縁があるっていうか」

 銅像がかたどっていたのは『ポール校長の授業』でも書いたトゥーサン・ルヴェルチュール、ハイチを独立に導いた人物の姿だった。ではなぜベナンにもそれが建っているのかといえば、かつてそこに存在したダホメ王国がトゥサンの父イポリトの出身地だったからだ、と今はインターネットで調べたから俺にもよくわかる。

 "奴隷海岸"とヨーロッパ人が名付けた地域から、イポリトはハイチに運ばれた。ダホメ王国では首長だったというから、もともと周囲の者への説得力も違っただろう。

 そして息子トゥーサンが生まれ、黒人初の共和国を打ち立てるに至る。
 つまりベナンはそれを誇っているわけだ。

 偉大なる革命を起こしたのは、我らの大地から奪われて行った一滴の血なのだ、と。
 そして書き手の俺と読み手の貴方は今、その血が造り出した国家の、長い苦難の一端を目の前にしている。



仮眠の中で考える

 車がチカイヌで紘子さんとダーンを降ろすと、そこで2台の四駆にそれぞれ乗り換えてリシャーはコーディネーション・オフィスへ、谷口さんと俺は山の宿舎(今さらだが、モン・ラカイという場所にあった。ラカイ山ということだろう)へ向かった。各々昼食をとるためだった。

 前日のポールの話からすると、俺たちが冷蔵庫から取り出した幾つかのグラタンや野菜の煮込みやサラダは、特別にまかないの女性たちが作ってくれたものかもしれなかった。自分の食べる分だけ取ってレンジで温め、コーヒーをエスプレッソマシンで作って飲んだ。

 招かれたパーティーまでには数時間あり、俺は部屋の四角いベッドで仮眠をとった。浅い夢のようなものの中で、俺は他人のためになろうとする人たちのことを考えていた。そういう人がなぜか"偽善者"などと呼ばれるのは、一体どういうことなのかと。

 自分もたまたま、解放される前のアウン・サン・スーチーさんを支援する運動に参加していたことがあった。その時、俺としては実につまらない中傷に出会った。

 例えば、「他にも問題を抱えた国があるのをどうするんだ?」と真面目に言ってくるのだった。俺は神様か何かと間違われていた。俺を万能の何かのように勘違いする人々は同時に、「ミャンマー軍事政権に抗議するなら、まず中国にするべきだ」とも言った。なぜ俺がやることの順番を他人に決められねばならないのかわからなかった。出来ることからしか俺は始められないのだ。

 そうした「善への反発」はなぜ、いかにして生まれて来るのか。
 と、勝手に紘子さんたちを自分の側に引き入れて、眠ってしまう直前の俺は考えた。

 少なくとも、こうして日本の外に一歩でも出れば、彼らの言うことにはなんのリアリティもない。
 困った人と助ける人が互い違いになって共に毎日生きているだけだ。

 いや、困った人を放っておけない紘子さんのような人がいるように、善を志向する人間を「放っておけずに」文句を言いたい人がいるだけかもしれない、とも俺ならぬ俺、色々人格の混じり出した夢うつつの俺は思った。

 もしも「放っておけなさ」において、両者が似ているとすれば、少なくとも俺はやっぱり人の役に......。

スタッフたちの休息

 ぐっすり寝て起きて、宿舎に四駆を呼んだのは夕方5時過ぎだった。
 ドライバーに「チカイヌ」と行き先を言おうとしたが、谷口さんも俺もど忘れをしていた。確か日本語に似ていたという記憶から、「コマルネ」とか「サワグネ」などと言ってみたが、ドライバーは不審そうな顔をした。要するに困った自分たちの状況、これからパーティーで騒がしいかもしれないという期待をそれぞれが日本語四文字にしているだけだった。

 キクチヒロコさんのいるところですと英語で頑張ると、ドライバーの方からようやくチカイヌという言葉が出た。俺たちはほっと胸をなでおろして、山を下り始めた。

 着いたのは街の中のでこぼこした狭い道沿いの鉄扉の前だった。入ると四駆が二台くらい止まる空間があって、そこにロジスティックの小屋があった。白板がかかっていて、訪問者として俺の名前が書かれていた。

 迎えに来てくれた紘子さんはシャンブレー的なワンピースをふんわりと着ていた。連れて行かれるままに階段を上がりながら、見せてくれた部屋はタイル敷きで、小さな四角いスペースになっており、アジアのリゾート地でバックパッカーが泊まる場所に似ていた。実に簡素なもので、中に置かれている荷物もそれぞれ少なかった。それが3階だったか4階だったか、階段に沿って幾つもあった。

 屋上に出ると、周囲が見渡せた。高い建物がひとつもないからだった。民家の屋根が続く先に低い山並みが見えた。

 その屋上の、一段高くなったスペースに長い木のテーブルが置かれていて、そのまわりに7、8人の外国人スタッフたちが立っていた。すでに皿などが配置され、専用のオーブングリルまであって、そこで串に刺した牛肉らしきものやホイルに包んだ何かが焼かれていた。彼らはその屋上でだけ安全を確保されていた。

 俺たちがそこへ近づいていくと、各自が実に自然に手を上げたり、にっこり微笑んだりした。すぐに話しかけてきてくれたのは、スウェーデンから来たというアナ・ブライドマンという小柄な女性で、確か30代前半だと言っていたように思う。金色の髪を風になびかせて、彼女は人懐っこく自分のブログの話をし、また俺の話を聞いた。彼女自身、それが初めてのMSFのミッションだと語ったはずだ。

 少しずつどこか曖昧なのは、俺が帰路に着くまで一切メモを取らなかったからだ。俺は取材者として彼らに接する気がなくなっていた。なぜなら彼らが俺を外部者でなく、あたかもMSFの新しいスタッフのように受け入れたから。そしてまた、俺としてもせっかくの彼らのパーティに水をさしたくなかったから。

 さらに言えば、俺は彼らのキャラクターを忘れない自信があった。ひとめでそう思うくらい、実際に彼らは独特な人間味にあふれていた。


(個性豊かなMSFスタッフたち)

 だから俺はグラスを片手に、下手な英語をやたらにしゃべった。谷口さんもすぐに通訳として俺に付いている必要がないと判断したらしく、あちらこちらで会話をし始める。面白いのは、他ではフランス語をしゃべるメンバーが紘子さんには片言の英語で話しかけることで、なんとそれはフランス語に堪能な紘子さんが英語も習得したいと願っているからこその、スタッフたちの気遣いなのだった。

 ここでは、すべてが何かのためなのだと俺は思った。




 グリルを支配しているのは、俺より年上の体の大きなオランダ人でフェルナンド・シッパーズと言い、みんなにフェリーと呼ばれていた。とても滑らかな英語を聞き取りやすく発音してくれる人で、銀髪のスティーブン・セガールみたいな男だった。ちょっと危険な冗談を言っては、フェリーは片目をつぶってみせた。彼はロジスティックのベテランっぽく、いかにも宿舎のリーダーという感じだった(実際の役職はプロジェクト・コーディネーターで、産科救急センターの責任者)。
 「頭の上に気をつけていた方がいいよ、セイコー。ハイチでは何かあると、それがいいことでも悪いことでも天に銃を向けてバーン!だ。で、その銃弾はどこに落ちると思う?」

 にやり。
 みたいな。

(フェリーたちが焼くおいしいやつ)

ダーン、インゴ、ウルリケ、ルカ

 ダーンももちろんそこにいた。
 コンテナ・ホスピタルやマルティッサンではよく質問していたダーンは、パーティーだとおとなしかった。けれど寡黙というのではない。誰かに常に話しかけられ、よく耳を傾け、何か的確な答えを言って食事に戻る。そういう人だ。

 他にものちに、「空飛ぶ」電気技師(Flying Electrician)と呼ばれる種類の人だとわかる(世界各地を常に飛行機で移動し続ける電気系統の技師)、ドイツ出身でほとんど何もしゃべらずにいつでもみんなをにこにこ見ているインゴ・クルツワイル。

 アナと同じく初のミッションだという、少し神経質でみんなにたくさんの質問をしている女性、ウルリケ・バックホルツ。

 ジャーナリストを思わせる風貌の、おしゃれな眼鏡をかけたイタリア人のルカ・ザリアーニ。

 などなどがいて、それぞれに深く話を聞きたかったのだけれど、夜が来て暗くなっていく屋上で照明もない中(あるのはロウソクだけだが風が強く、何本かはすぐに消えてしまった)、結局俺は一人のドイツ人と暗がりの中でしゃべり続けることとなった。

そしてカール

 名前をカール・ブロイアーと言った。年齢は64だったと思う。
 痩せていて身軽で背が高く、控えめでにこやかな人だった。

 フェリーと共によくグリルの火の具合を見ていて、気づかぬうちに立って確認していつの間にか戻っているという感じで、自分を前に押し出すタイプではないようだった。

 ハイチの現状について、カールはゆっくりと英語で伝え間違いのないように気をつけている風に語った。足りないものは多かった。施設の不足による医療の届かなさ、政府のインフラ対策の少なさ、ハイチの人々の衛生への意識など。しかしカールはそれを責めるのではなかった。もしもっとあれば、その分だけ人の命が助かるのにと静かに悔しく思っているのだった。

 まるで若者が理想に燃えるかのように、還暦を過ぎたカールは希望を語り、しかし終始にこやかに遠くを見やっていた。その暗がりでの表情の柔らかさを、俺は今でも思い出すことが出来る。頬に刻まれたシワとよく光る細い目をゆらめくロウソクが照らしていたが、それが消えてもなお俺にはカールが見えた。どうしてかは今ではもうわからない。

 俺はカールがこれまでどんなミッションを経てきたのか聞きたかった。
 もしよければ教えていただけませんか?
 すると微笑と共に答えが来た。

 「初めてなんですよ」

 俺は驚いて黙った。

 「これが生まれて初めてなんです」

 カールはまるで自分に孫が出来たかのような初々しい喜びをあらわしてさらに言った。
 「私はエンジニアとして、ドイツの中でたくさんの仕事をして来ました。あっちの会社、こっちの会社とね」
 「あ、お医者さんでなく?」
 「そう。技術屋です。それで六十才を超える頃から、ずっとMSFに参加したかった。そろそろ誰かの役に立つ頃だと思ったんですよ。そして時が満ちた。私はここにいる」

 たったそれだけのことを聞く間に、俺の心は震え出してしまっており、とどめようがなかった。暗がりなのをいいことに、俺はカールに顔を向けたまま涙を流してしまっているのだった。



 気づかれないように、俺は声を整えた。まさか泣いているなんて知ったら、カールが驚いて悪いことをしたと感じてしまうに違いなかったから。それは俺の本意じゃない。

 「ご家族は、反対、しませんでしたか?」
 「私の家族?」

 いたずらっぽくカールは片言の英語で言った。反対を押し切ったのだろうと俺は思ったが、答えは違った。
 「彼らは応援してくれています。妻とは、毎晩スカイプで話しますしね。いつでもとってもいいアドバイスをくれるんです。子供たちもそうです。私を誇りにしてくれている」

 カールはどうしても俺を感動させたいらしかった。いやいや、とんでもない。彼にはまったくそのつもりはなく、だからこそ俺の心の震えは収まらないのだった。

 そして追い打ちが来た。
 「それにね、セイコー。私はここにいる人たちと知り合えました。64才になって、こんなに素敵な家族がいっぺんに出来たんです」

 俺はうなずくのが精いっぱいで、何かを考えるふりをしてカールから屋上の隅へと目をそらした。頬まで流れてきてしまったやつを、俺は手で顔をいじるふりで何度もふいた。

 カールが生きているのは、なんて素晴らしい人生なんだろう。
 俺は彼の新しい家族を改めて涙目で見渡してみた。すっかり暗いというのに、連中はまだ熱心に医療についてしゃべっていた。

 これは俺が経験した中で最高のパーティーだ、と思った。
 これ以上のやつは以後も絶対ないに決まってる。

 ふと気づくと、片づけの始まったグリルから知らぬ間にカールが鶏肉のスティックを持ってきてくれていて、それが目の前の皿に置かれてあった。

 腹は満ちていたが、俺はスティックをつまんで肉にかじりついた。

 カールさんの親切をふいにするような、俺は不人情な人間じゃねえ。

(誰かの工夫。水差しにロウソクを入れる照明)

山の闇の中で

 夜九時半にチカイヌを出た四駆は、モン・ナカイへ向かってがたがた走った。
 そして山の斜面で急に止まった。

 坂道の暗闇に、車のライトで照らされた4、50人のハイチ人がいて、二拍子ずつ左右にそっと揺れていた。
 思わず窓を少しだけ開けると、プリミティブな音楽が聴こえた。集団の内部で演奏が行われているようだった。
 彼らは夜の行進をしているのだった。

 それもヤヤと呼ぶのだろうか。
 ともかくイースターのまさに前夜に、彼らがキリストを模していることは確かだった。
 その静謐さと内に秘めて抑え込んだ声の熱狂で、俺にはそれがよくわかる気がした。
 聖夜、が来ていた。

 彼らは彼らで最高のパーティーを始めていた。

続く


いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。


いとうせいこう

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