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テロリストの一弾が歴史を変えた――第一次世界大戦史(1)

ニューズウィーク日本版 2016年7月8日 18時3分

<ある点において、2016年夏の英EU離脱騒動は、1914年夏の第一次世界大戦開戦に似ている。1914年6月28日、「サラエボ事件」で暗殺されることになるフランツ・フェルディナント大公夫妻は、なぜ危険なサラエボにわざわざ赴いていたのか。歴史をひも解くシリーズ第1回>

(上図:「我々の犯罪者名簿より」〔ドイツ〕。「暗殺犯」プリンツィプ。作者グルブランソン〔ノルウェー生まれ〕は、当時のドイツを代表する諷刺画家。『ジンプリツィシムス』誌で活躍。同誌はイギリスの『パンチ』と並び称されるドイツの諷刺雑誌。)――『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』より

 まさか、こんな結果になるとは思っていなかった――。まるで登場する指導者全員が、そう言いたいかのようだ。

 よもや負けるとは思わず、EU(欧州連合)離脱の是非を問う国民投票の実施を約束したデービッド・キャメロン英首相。離脱派を率いて勝利しながら、キャメロンの後継を決める党首選不出馬を決め、リーダーシップを放棄したボリス・ジョンソン前ロンドン市長。離脱派の急先鋒でありながら、国民投票後に「自分の生活を取り戻したい」と言い放った英独立党(UKIP)のナイジェル・ファラージ党首......。

 おそらく後世の歴史家から見れば、2016年夏の英EU離脱騒動は、指導者たちの思惑が複雑に絡み合い、意図せざる結果を生んだ好例になるのではないか。あの1914年の夏と同じように。

 細谷雄一・慶應義塾大学法学部教授もコラム「イギリスは第2のオーストリアになるのか」でそう指摘しているが、第一次世界大戦(1914~1918)の歴史をひも解くと、人類最初のあの世界大戦も思惑と偶然が絡み合った意図せざる産物であったことがよくわかる。

【参考記事】年表:イギリスがEUを離脱するまで(1952-2016)

「一九一四年夏、ヨーロッパは、各国の一握りの為政者の決定と、それらの相互作用の積み重ねから戦争にいたる」と、飯倉章・城西国際大学国際人文学部教授は『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』(中公新書)の「まえがき」に記す。「大戦期の個性豊かな政治家、君主、軍人たちの多くは、必ずしも戦い――少なくともヨーロッパ全土での戦争――を望んではいなかったが、憶測や利害、希望的観測に振り回されて、この大戦争の渦の中に巻き込まれていった」

 100点近くの諷刺画を織り交ぜ、その戦いの軌跡をたどった本書は、登場する指導者たちの選択と行動に着目し、さらには絵を挿入することで、当時の様子や戦争の展開を生き生きと描き出すことに成功している。通史でありながら、歴史のダイナミズムを感じさせる一冊だ。

 ここでは、「序章 七月危機から大戦勃発まで」の前半を抜粋し、3回に分けて掲載する。以下、時は1914年6月28日、舞台はボスニア・ヘルツェゴビナのサライェヴォ(サラエボ)。第一次世界大戦の発端となった有名な「サラエボ事件」だが、暗殺されることになるフランツ・フェルディナント大公夫妻はなぜその時、危険なサライェヴォにわざわざ赴いていたのだろうか。


『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』
 飯倉 章 著
 中公新書


◇ ◇ ◇

愛ゆえのサライェヴォ事件

 すばらしく晴れ上がった夏の日曜日だった。一九一四年六月二八日、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナの州都サライェヴォをオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公と妻ゾフィーは訪れる。そして、待ち受けていたセルビア人民族主義者の凶弾に倒れた。

 運命のその日は、夫妻の結婚記念日である。それは、一四年前に二人の結婚がハプスブルク家にしぶしぶ認められた日でもあった。大公がゾフィー・ホテクと恋に落ちたのは、彼女が二七歳の時といわれる。

 二人の恋がスキャンダルとなったのは、一八九九年夏である。ゾフィーは、ハプスブルク家の大公妃の一人に仕える女官にすぎなかった。女官と言っても、れっきとしたチェコの伯爵家の令嬢であったが、ハプスブルク家の皇位継承者の妻としてふさわしい相手ではない。フランツ・フェルディナントは、彼女との結婚と皇位の両方を望み、家柄を重んじる伯父のオーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ一世と対立する。



 一九〇〇年六月二八日、ウィーンのホーフブルク宮殿で、フランツ・ヨーゼフは一族の大公たちを脇に従えて宣告する。結婚は承認するが、ゾフィーの「高貴ではあるが対等とは言えない出自」ゆえに、フランツ・フェルディナントが戴冠しても彼女には皇后の称号を与えず、その子にも皇位継承権は認めない、と言ったのだ。フェルディナント大公はその条件を呑み、二人は三日後に結婚式を挙げた。老皇帝はもとより、他の大公たちも式を欠席したが、彼はその恋を貫いたのである。

 身分違いの結婚のため、ゾフィーはハプスブルク家の公式行事で夫の隣に座ることも許されなかった。二人が死出の旅路となるサライェヴォに赴く時でさえ、途中までは別々に向かっている。ただ、その年の六月四日、フェルディナント大公が結果として最後になる拝謁をしたとき、老皇帝は危険が予想されていたにもかかわらず、ボスニアでの軍の大演習に彼が参加することに反対しなかった。あまつさえ、あたかも後押しをするかのように、ゾフィーが「多かれ少なかれ対等」の立場で同行することも認めた。

 愛ゆえに危険なサライェヴォに赴いたと言えば、言いすぎではあろう。しかし、ハプスブルク家の厳格なしきたりと闘い続けてきた大公にとって、この訪問は身分違いの結婚から生じた不本意な処遇を改善する好機でもあった。現在、写真で目にすることができる、オープンカーで並んだ夫妻の姿は、サライェヴォだからこそ実現したのだ。

 フランツ・フェルディナント大公は、知性はあるが怒りっぽく頑固で、自分の意見に固執する傾向があった。一方、ゾフィーは、大公の怒りっぽい性格を補える、健全で心のどかな女性であったという。二人は相性が良かったのだろう。子宝にも恵まれ、暗殺の時には二男一女がいた。大公は家庭生活に満足し、家族を心底愛していたという。

 テロリストの最初の一弾は、車のドアを貫通してゾフィーの腹部に、第二弾は大公の首筋に命中した。車中で大公は、意識を失った妻に「ゾフィー、ゾフィー、死なないでくれ、子どもたちのためにも生きていてくれ」と語りかけた。しかし、願いはかなえられず、大公自身もほどなく絶命する。

 まえがきで述べたような高まる民族意識を背景に、「黒手組(ブラックハンド)」と呼ばれるセルビア民族主義者のテロリスト組織は、オーストリアに併合されたボスニア出身のセルビア人青年らに訓練を施していた。そして、彼らに武器を渡して、一九一四年五月末にボスニアへ送り込んだのだ。大公夫妻を撃ったのは、その一人のガヴリロ・プリンツィプである。

 大公は、テロの標的となるような対セルビア強硬派だったのだろうか。むしろ、彼はセルビア人を含むスラヴ民族に宥和(ゆうわ)的で、帝国内のスラヴ人地域により多くの自治権を与えようとしていた。しかし、このような考えこそ、民族の支配地域を拡大したうえで統一を図ろうと考える人々にとっては脅威であった。



 逮捕されたプリンツィプは、大公が「将来の君主として、一定の改革を達成することによって、我々の統一を妨げたであろう」と言っている。第一次世界大戦の開戦過程を描いた名著『夢遊病者たち』で、歴史家クリストファー・クラークはこう指摘している。テロ活動の論理からすると、明白な敵や強硬派よりも、このような改革派や穏健派の方が恐れられるのである、と。

 暗殺の波紋はゆっくりと広がったが、大戦に発展する兆しはなかった。ただ、この暗殺によりオーストリア政府内では、セルビアに対して武力行使も辞さない強硬措置を取ろうとする意見が急速に台頭する。この時点で明瞭な証拠はなかったものの、暗殺の背後にはセルビアがいるか、あるいはセルビア政府は凶行を少なくとも黙認していた、と推察したのだ。

 これまでオーストリアで対セルビア強硬策が取り沙汰された時、常に待ったをかけてきたのはフェルディナント大公であった。しかし、皮肉なことに大公その人が殺されたのである。我慢にも限界があるという強硬派の申し出を受け、老皇帝は二重帝国のもう一方であるハンガリーの首相イシュトヴァーン・ティサの同意を条件とし、強硬措置を認めた。

似た者同士――ヴィルヘルム二世とフェルディナント大公

 老皇帝がどの程度、大公の死を怒り悲しんだかには諸説がある。ただ、老皇帝よりも怒り悲しんだ可能性が高いのは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世であろう。大公暗殺の報は、すぐにドイツ北部のキールでヨットレースを楽しんでいたカイザーに伝えられた。

 カイザーは大公としばしば狩りをする間柄であった。サライェヴォ事件の二週間ほど前である六月一二~一三日にも大公夫妻に招かれて親しく交遊し、スラヴ問題について意見を交わしたばかりである。カイザーは五五歳で、五〇歳の大公と年齢も近い。また、両人は落ち着きがなく、虚栄心に満ちた性格でも似た者同士であった。ただ、カイザーはハプスブルク家の人々と異なり、ゾフィーと分け隔てなく接したので、夫妻にとってはつきあいやすい相手であった。

 暗殺を知り、カイザーはすぐにベルリンに引き返す。七月二日、オーストリア政府内の見解を伝えるドイツの駐ウィーン大使の報告書を読んだカイザーは、その余白に「セルビア人は一掃されねばならない、それもすぐに!」と書き込んだ。後世の歴史家には、この書き込みこそがドイツ外交が過激になった転換点を示す証拠であり、「勅令」と同じ効果を持ったとさえ論じる者もいる。しかし、すぐに激昂するカイザーの性格や、書き込みにすぎないことから、そこまで重視すべき事柄ではないと思われる。

 七月三日、大公夫妻の葬儀がウィーンで行われた。カイザーは呼ばれれば参列したであろうが、フランツ・ヨーゼフは他国の君主を招く気はなかった。安全確保の問題もあったが、体調のすぐれない老皇帝は平穏な日常生活に一日も早く戻りたかったのだ。大公の葬儀で、老皇帝とともに、カイザーやロシア皇帝ニコライ二世(慣例でツァーとも呼ぶ)などが一堂に会していれば、大戦が回避されたかは別として、事態は違う展開を見せたであろう。

※シリーズ第2回:ロシアの介入はないと無責任な約束をしたドイツ――第一次世界大戦史(2)


『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』
 飯倉 章 著
 中公新書



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