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ロシアの介入はないと無責任な約束をしたドイツ――第一次世界大戦史(2)

ニューズウィーク日本版 2016年7月9日 11時3分

<ある点において、2016年夏の英EU離脱騒動は、1914年夏の第一次世界大戦開戦に似ている。1914年6月の「サラエボ事件」後、錯綜する思惑の中、ドイツ側にもロシア側にも、後に「白紙小切手を渡した」と言われる行動があった。歴史をひも解くシリーズ第2回>

(上図:「不幸なオーストリア!」〔ドイツ〕。フランツ・フェルディナント大公の暗殺を受けてのもの。タイトルは、ハプスブルク家のモットー「幸福なオーストリア」のもじり。たび重なる不幸から、死神が「さて、次はどうする?」と右手で「?」を描いている。不吉な予言とも思える。アメリカ人を父としてドイツに生まれた作者ジョンソンは、当時のドイツを代表する諷刺画家の1人。)――『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』より

 まさか、こんな結果になるとは思っていなかった――。おそらく後世の歴史家から見れば、2016年夏の英EU(欧州連合)離脱騒動は、指導者たちの思惑が複雑に絡み合い、意図せざる結果を生んだ好例になるのではないか。そのくらい、国民投票での離脱派勝利は英国内外で驚きをもって受け止められた。

 あの1914年の夏と同じだ。第一次世界大戦(1914~1918)の歴史をひも解くと、人類最初のあの世界大戦も、思惑と偶然が絡み合った意図せざる産物であったことがよくわかる。

「一九一四年夏、ヨーロッパは、各国の一握りの為政者の決定と、それらの相互作用の積み重ねから戦争にいたる」と、飯倉章・城西国際大学国際人文学部教授は『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』(中公新書)の「まえがき」に記す。「大戦期の個性豊かな政治家、君主、軍人たちの多くは、必ずしも戦い――少なくともヨーロッパ全土での戦争――を望んではいなかったが、憶測や利害、希望的観測に振り回されて、この大戦争の渦の中に巻き込まれていった」

 100点近くの諷刺画を織り交ぜ、その戦いの軌跡をたどった本書は、登場する指導者たちの選択と行動に着目し、さらには絵を挿入することで、当時の様子や戦争の展開を生き生きと描き出すことに成功している。通史でありながら、歴史のダイナミズムを感じさせる一冊だ。

 ここでは、「序章 七月危機から大戦勃発まで」の前半を抜粋し、3回に分けて掲載する。以下は、シリーズ第2回。1914年6月にサライェヴォ(サラエボ)でオーストリアの大公夫妻が暗殺された後、ドイツ、セルビア、イギリス、ロシアの各国で指導者たちの動きが活発化する。


『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』
 飯倉 章 著
 中公新書


※シリーズ第1回:テロリストの一弾が歴史を変えた――第一次世界大戦史(1)

◇ ◇ ◇

カイザーは「白紙小切手」を渡したのか?

 七月五日、ポツダムの宮殿でカイザーは、ドイツに協力を求めるフランツ・ヨーゼフの親書を携えたオーストリア大使に面会する。大使によれば、カイザーは慎重な物言いをしていたが、昼食を挟んだ二度目の謁見では、宰相の同意を条件としながらも、オーストリアは「ドイツの全面支援を当てにしてよい」と確約したという。

 さらにカイザーは、対セルビアの行動は「遅延されるべきではない」と釘を刺し、背後にいるロシアと戦争になった場合、ドイツがオーストリア側に立つことを信じてよいとも伝えたとされる。これが世に「白紙小切手」と言われる約束であった。

 翌六日、カイザーは毎年恒例である北欧へのヨット旅行に出かける。後を受けたドイツ帝国の宰相テオバルト・フォン・ベートマン=ホルヴェークは、オーストリアの大使と外相特使へ公式に返答した。大使の要約によれば、そのなかでベートマンは、彼もカイザーも、オーストリアがセルビアに直ちに干渉するのが「最善かつもっとも根本的なバルカンでの問題の解決方法」であると伝えたという。

 後世の一部の論者は、この一連のやりとりで、ドイツの皇帝も宰相も、オーストリアが控え目な措置を意図していたのに、それ以上の行動を煽ったと指摘した。オーストリアを戦争へと導き、それがロシアの介入を招き、連鎖的に世界大戦にいたらしめたというのである。ただ、こんにちの歴史家が明らかにしたのは、この時点でドイツの指導者たちは、オーストリアがセルビアに戦争をしかけたとしても、ロシアの介入がないと信じており、またその介入を誘発する意図もなかったことである。カイザーは、北欧へ旅立つ前に「今回のケースで、ツァーがレジサイド[国王殺害者。ここでは、前国王がクーデターで殺害されたセルビアを示す]の側に身を置くことはないだろう。おまけに、ロシアもフランスも戦争の備えができていない」と語ったという。

 つまり、ドイツはロシアと戦争するリスクを冒してまで、セルビアに対して強硬措置をとるようオーストリアに求める気はなかったのである。もしもドイツ側に責められる点があるとすれば、オーストリアに対して、いい加減な約束をし、なすがままに任せた無責任さにあると言えるかもしれない。



 オーストリアの強硬派は、ドイツの全面的な支援が得られないことを懸念していたので安堵(あんど)する。都合よくドイツの約束を、行動への督促だとも解釈した。確かにドイツの指導者たちは繰り返し、早急な行動を求めていた。ただ、彼らが考えていたのは、実のところオーストリアとセルビア間の紛争をヨーロッパ戦争に発展させないためであった。ロシア、あるいはその同盟国フランスが、セルビア支援を準備する間を与えず、オーストリアが強硬策を取れば、紛争は「第三次バルカン戦争」程度に局地化できると考えたのである。彼らはヨーロッパ戦争を懸念してはいたが、迅速な行動で紛争は局地化されると都合よく思い込んでいた。その計算に大きな狂いが生じたのは、オーストリア側の反応の遅さのためだった。

オーストリアの最後通牒とグレイ外相の後悔

 オーストリア政府は、もともと行動が遅いことに定評があった。それに加えて、ハンガリー首相のティサが強硬策に反対していた。ティサは、セルビアにかかわることで国内にスラヴ民族がさらに増えることを望まなかった。たとえ戦争に勝ったとしても、ただでさえ物騒で厄介な連中をこれまで以上に抱え込んでは、火種が増すだけだと考えたのだ。しかし、ティサは周囲の助言などによって七月一四日に翻意する。

 オーストリア政府内の強硬派を代表するのは、経験不足で人物的にも「軽佻浮薄(けいちょうふはく)」と評されたレオポルト・ベルヒトルト外相と、同じように経験不足のフランツ・コンラート=フォン=ヘッツェンドルフ陸軍参謀総長であった。コンラートは、敵が準備を整える前に戦争をしかけるという予防戦争の主唱者であったが、その機会をフェルディナント大公に何度も奪われていた。その障害がなくなったのである。また、妻に先立たれていた彼には大いなる戦功を挙げ、人妻と結婚せんとする個人的な動機もあり、張り切っていた。

 七月一九日、オーストリアの指導者らは、セルビアに対する強硬策を決める。彼らは、兵士の多くが農作物を収穫する休暇から戻る日程を考慮した。また二〇日からロシアの首都サンクトペテルブルクを訪れるフランス大統領・首相一行がロシアと会談をしている間に事を起こして両国を刺激しないように、帰路につくタイミングも考えた。そのうえで二三日にセルビアへ最後通牒を突きつけることにした。

 最後通牒は、七月二三日木曜日の午後六時にセルビア政府に渡された。それには、セルビア政府がとても承諾できないような条項が幾つか含まれていた。事実上は拒絶させるためのものだった。回答期限は四八時間以内と短い。翌二四日午前には、列強諸国の外交筋にも内容が伝えられた。ドイツだけは特別に二二日に知らされていたが、宰相ベートマンや外相も強硬過ぎると考え、直前に詳細を明かしたベルヒトルトを非難した。



 当時のヨーロッパ外交界でもっとも声望を集め、影響力を持っていたイギリス外相エドワード・グレイは、二四日午前に内容を知り、「一国から独立した他国に送られたもの」としては、これまで見たなかで「もっとも恐るべき文書」であると断じた。ただ、グレイはこの段階では、ヨーロッパ全体を巻き込む大戦争になってしまう危険を深刻に認識してはいなかったようだ。外務次官補は、「紛争がエスカレートした場合、イギリスは露仏の側に立つ」とするような警告をドイツへ送り、紛争を抑止すべきと助言した。しかし、グレイは「時期尚早」として聞き入れなかった。

 グレイは、この時の判断を亡くなるまで悔やんだとも言われる。イギリスは明確な参戦義務に縛られておらず、本来は調停者として影響力を行使できる立場にあったが、グレイは積極的に動かず、週末の釣り(彼はフライフィッシングで名高い)に出かけてしまう。

 その後、二六日の日曜日になり、グレイも同意して、イギリスは事態を収拾するための四ヵ国調停案をドイツに提示した。だが、これは翌日に拒否される。

ロシアの「白紙小切手」

 最後通牒を受け取ったセルビア政府の指導者らは、怒りの声を上げた。ただ、選挙遊説から呼び戻されたニコラ・パシッチ首相を始めとして、彼らは戦争を何としても避けたかった。大国オーストリアと単独で戦っても勝ち目はないため、セルビア政府は通牒の全面受諾を考えていた節もある。それが全面受諾より留保つき受諾へとセルビア政府が傾いた理由の一つは、七月二四日にロシアで決まった支援の約束が拡大解釈されたことにある。

 七月二四日、ロシア政府は大臣会議を開き、対応策を協議した。この場にツァーは臨席していない。後から考えると、この会議ほど重要なものはなかったかもしれない。会議でセルゲイ・サゾノフ外相は、(事実はそうでなかったが)オーストリアの最後通牒はドイツと共謀して書かれたものだと主張した。そして、スラヴ諸民族の独立を守る「歴史的使命」を放棄するならば、ロシアはすべての権威を失うと訴えた。他にも、反ドイツのタカ派の大臣は、過去に宥和的な措置をとっても独墺を懐柔できなかったことを強調し、独墺の「不当な要求に対してはより強硬で精力的な態度」を取るのが最上の策であると主張した。

 この会議では、オーストリアに回答期限の延期を求めることや、セルビアには国境で戦うのではなく軍を国の中央に撤退させるよう助言すること、そしてオーストリアに対応する四軍管区に限って動員をかける「部分動員」の裁可をツァーに求めることなどを決めた。大規模な軍事行動をする前には、兵士を召集し、軍を戦時編成に切り替える「動員」が必要となる。国全体ですべての軍を戦時編制にする場合は「総動員」を行うが、それは控えたのだ。



 その日、会議の後、外相サゾノフはセルビアの駐ロシア公使に、不必要な挑発は避けるよう助言するととともに、「ロシアの支援を非公式に当てにしてよい」と伝える。

 ただ、具体的な支援策についてはフランスと相談の上、ツァーが決めることだと釘を刺した。セルビア公使はその旨を本国政府に伝えたが、その後、ロシアの大臣会議では「動員まで含む積極策」を取ることが決まったと追加で打電した。セルビアのロシア駐在武官からも公使に、ロシアは総動員間近との情報が伝えられ、それはすぐに本国政府に伝えられる。

 ロシアの支援の約束、なかでも動員の決定は、セルビア側を大いに勇気づけてしまう。この決定は、現在ではロシアがセルビアに渡した「白紙小切手」とも呼ばれている。

 翌二五日、臨席したロシアの大臣会議で、ツァーは部分動員を含む強硬策を認めた。七月二四日の段階でツァーは「戦争は世界にとって災厄であり、一度起こったら止めがたい」と考えていた。ただ、彼は、独露墺の三皇帝の中でも一番若い四六歳であったが、家庭生活を好み、国を率いる知性もエネルギーも欠いていて、優柔不断であった。現に、かつて日露戦争前の対日交渉でも、一度決めたことに条件をつけるなど揺れ動き、現場を混乱させている。それは、七月危機でも同様であった。

 こうして決まったロシアの部分動員とはいかなるものであったのだろうか。ドイツやフランスと違い、ロシアでは動員令を下してから軍事行動が可能になるまで少なくとも一五日はかかる。ロシアが動員を急いだ背景には、このような事情もあった。ただ、ロシアの部分動員の決定は不可解であった。ドイツを刺激しないようドイツに隣接するワルシャワ軍管区での動員は避けた。これならば総動員ではないので、サゾノフ外相は独墺に手を引くよう説得するには十分と考えたのである。しかし、オーストリアのみに対する動員であるからといって、その同盟国であるドイツが対応しないと考えるのは甘すぎる。

 さらに技術的にも問題があった。ロシアには総動員計画はあったが、部分動員の計画は用意されておらず、軍管区をまたいでの予備役兵(軍務を終えて社会に戻っているが、非常時には召集を受ける存在)の召集や複雑な鉄道輸送に効率的に対処する能力もないので、混乱は目に見えていた。そのため、実際の部分動員の下令は引き延ばされていく。

 しかし、動員前の準備措置は早々ととられた。諸外国の関係者は、その措置を動員の開始と誤解した。一方、ドイツはこの段階では戦争の局地化を期待していたため、軍事的準備への着手は控えていた。

※シリーズ第3回:優柔不断なツァーは追加の電報で気が変わった――第一次世界大戦史(3)


『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』
 飯倉 章 著
 中公新書



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