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優柔不断なツァーは追加の電報で気が変わった――第一次世界大戦史(3)

ニューズウィーク日本版 2016年7月11日 17時6分

<ある点において、2016年夏の英EU離脱騒動は、1914年夏の第一次世界大戦開戦に似ている。1914年6月の「サラエボ事件」後、オーストリアとセルビア間で高まった紛争の機運。そしてロシアは、総動員をかけた最初の国になった。歴史をひも解くシリーズ第3回>

(上図:「ユダのキス」〔ドイツ〕。ツァーが左手に匕首を持ち、カイザーに「ユダの裏切りのキス」をしている。ツァーの裏切りが戦争を導いたとの見方を示す。)――『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』より

 まさか、こんな結果になるとは思っていなかった――。おそらく後世の歴史家から見れば、2016年夏の英EU(欧州連合)離脱騒動は、指導者たちの思惑が複雑に絡み合い、意図せざる結果を生んだ好例になるのではないか。そのくらい、国民投票での離脱派勝利は英国内外で驚きをもって受け止められた。

 あの1914年の夏と同じだ。第一次世界大戦(1914~1918)の歴史をひも解くと、人類最初のあの世界大戦も、思惑と偶然が絡み合った意図せざる産物であったことがよくわかる。

「一九一四年夏、ヨーロッパは、各国の一握りの為政者の決定と、それらの相互作用の積み重ねから戦争にいたる」と、飯倉章・城西国際大学国際人文学部教授は『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』(中公新書)の「まえがき」に記す。「大戦期の個性豊かな政治家、君主、軍人たちの多くは、必ずしも戦い――少なくともヨーロッパ全土での戦争――を望んではいなかったが、憶測や利害、希望的観測に振り回されて、この大戦争の渦の中に巻き込まれていった」

 100点近くの諷刺画を織り交ぜ、その戦いの軌跡をたどった本書は、登場する指導者たちの選択と行動に着目し、さらには絵を挿入することで、当時の様子や戦争の展開を生き生きと描き出すことに成功している。通史でありながら、歴史のダイナミズムを感じさせる一冊だ。

 ここでは、「序章 七月危機から大戦勃発まで」の前半を抜粋し、3回に分けて掲載する。以下は、シリーズ第3回。サライェヴォ(サラエボ)で暗殺事件があり、オーストリアとセルビア間で紛争の機運が高まる中、周辺各国の指導者は局地的な戦争に留めようとするが、歯車は狂いだす。なぜロシア皇帝(ツァー)は、部分動員と総動員で揺れ動き、結局、総動員をかけることになったのか。


『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』
 飯倉 章 著
 中公新書


※シリーズ第1回:テロリストの一弾が歴史を変えた――第一次世界大戦史(1)
※シリーズ第2回:ロシアの介入はないと無責任な約束をしたドイツ――第一次世界大戦史(2)

◇ ◇ ◇

「外交的あいまいさの傑作」に対するオーストリアの宣戦布告

 セルビア政府は最後通牒の一〇条項の要求に対する回答で、オーストリア官憲が共同でサライェヴォ事件の究明にあたるという条項に対し、留保条件をつけることにした。これは、パシッチ首相が、テロを背後で画策・支援した組織と間接的なつながりがあり、露見するのを恐れたためとも言われる。パシッチ首相は自らオーストリア公使館に出向き、期限の二五日午後六時の五分前に、オーストリア公使へ回答を手渡した。

 セルビア側の回答については、ほとんどオーストリアの要求に屈服したものだと言われることが多い。しかし、実のところ、この回答は「外交的あいまいさの傑作」とも称されるものであった。個々の条項に対して、受諾、部分的受諾、回避、拒否など手練手管を弄し、オーストリアに対して「驚くほどほとんど何も与えていない」と歴史家クラークは評している。

 一方、元より呑めない条件を提示していたオーストリア側にとって、全面受諾以外は何であれ同じだ。公使は予定通りすぐさま公使館をたたみ、七時前にはセルビア国境を通過する。



 他方、北欧クルーズに出かけていたカイザーは、報告を受けてはいたものの、最終的にヨーロッパ戦争に発展はしないと楽観視していた。二七日にポツダムへ戻ったカイザーは、翌日、セルビアの回答内容を知り、それが宥和的であることを「予想以上」と捉えた。彼はオーストリアが戦争に訴える理由はなくなったと考え、自ら仲裁に乗り出す意向も示す。

 しかし、指示を受けた外相も、ベートマンも、カイザーの主張をまともにオーストリア側に伝えようとしなかった。クラークが書いているように、カイザーが以前のように臣下を動かす力を十分持っていたら、カイザーの介入で危機の展開も変わったであろうが、そうはならなかった。

 それでもまだ妥協の余地は残っていた。なぜなら、ロシア側に最後通牒の期限の延期を求められて、ベルヒトルトは拒否したものの、彼は期限が切れてからもセルビア側が要求に従えば戦争を避けることができると回答していたからである。

 しかし、ロシアの部分動員を知って、セルビア政府はむしろ勢いづいていた。駐露セルビア公使は、「セルビア人の完全な統一」を果たす絶好の機会が訪れたとさえ報告している。

 七月二八日午前、皇帝フランツ・ヨーゼフは、対セルビア宣戦の詔勅に署名する。こうして、オーストリア対セルビアの戦争は始まったが、まだこの段階では地域紛争に留まっていた。この七月危機のさなか、老皇帝は次のような趣旨のことを漏らしたと伝えられる。「この君主国が亡びなければならないならば、その時には少なくとも名誉をもって亡びなければならない」。名誉ある滅亡かどうかは別にして、この古くからの帝国は亡ぶ。しかし、老皇帝はそれを目撃せずに済む。

揺れるツァーの決断

 部分動員を決めていたロシアは、さらに総動員(三〇日下令)へと向かう。これを「七月危機におけるもっとも重大な決定の一つ」とクラークは言う。当時は外交文書の捏造(ねつぞう)などもあり、はっきりとしなかったが、ロシアは総動員をかけた最初の国だった。なぜロシアは部分動員を総動員へと切り替えたのか。

 まずは、先にも述べたように、部分動員が技術的に実行困難であったことがある。さらに外交交渉の行き違いもあった。少し経緯を見てみよう。

 ドイツでは、戦争をオーストリアとセルビアとの間に局地化したいと考えたベートマンが、カイザーからツァー宛の電報(二八日付)で、墺露間の調停の意向を伝えた(二九日の夕刻にはもう少し踏み込んだ内容の電報を打つ)。



 一方でベートマンは、二九日の午後、駐露ドイツ大使を通してサゾノフ外相に、ロシアが軍事的準備を続けるならばドイツも動員せざるを得なくなるという警告を伝えた。あくまで警告のつもりだが、サゾノフは怒り、あたかも最後通牒であるかのように受け止め、総動員がすぐに必要だと確信してしまう。

 その晩、サゾノフはツァーに、これ以上、総動員が遅れればロシアは危ういという軍の見解を伝えた。ツァーは、総動員を承諾する。ところが、その総動員令が発せられる直前の午後九時二〇分に先述のカイザーが夕刻に発した電報が、ロシア側に届く。「ロシアの軍事的手段は、オーストリアには脅威とみなされ、我々が避けたいと望んでいる大惨事に陥り、余への貴殿の友情と助力の訴えに基づき、余が喜んで引き受けた調停の役割を危うくするだろう」と電文は締めくくられていた。「大惨事」の責任を負いたくないと考えたツァーは、総動員令を撤回し、部分動員に切り替えることにした。部分動員の命令は、その夜遅くにとりあえず発せられた。

 しかし、優柔不断なツァーは、翌三〇日の朝、ベートマンがサゾノフに伝えた警告と同じような内容が記された、カイザーからの追加の電報に接して気が変わる。ツァーは、オーストリアが動員をしているのにロシアが止めると自国は無防備になるという考えにもとりつかれていた。実際にはオーストリアは総動員に踏み切っていなかった。ツァーがそのように信じた背景には、ロシアの軍事諜報(ちょうほう)分析で、伝統的にオーストリア軍の能力が過大評価されており、とくに先制攻撃で優れていると見られていたからだ。

 開戦後、主要国は自国の正当性を訴えるため色付き表紙の外交文書集を発刊した。その一つであるロシアの『オレンジブック』で、ロシア政府はオーストリアの総動員令を三日早く二八日とし、ロシアに先んじたと捏造した。しかし、実際にはロシアは七月危機の中で最初に総動員をかけた国であることが現在では明らかになっている。さらに口裏を合わせるため、フランスは自国外交文書を載せた『イエローブック』で、でっちあげをしている。

 三〇日午後三時、サゾノフが拝謁した際、ツァーは「疲れ果て心ここにあらず」の様子であった。サゾノフは、「平和を保持する希望は残されていない」という結論を伝える。ツァーは、「参謀総長に余の動員命令を伝えよ」と言った。かくして総動員令は再び承認されて、今度こそ本当に発せられたのである。


『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』
 飯倉 章 著
 中公新書




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