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邦人も避難へ、緊迫の南スーダン情勢と国連PKO

ニューズウィーク日本版 2016年7月11日 19時35分

<市民は逃げ惑い、負傷し、国連PKOはパトロールを妨害される──スーダンから分離独立して5年、10万人の犠牲を出したといわれる内戦が収束してから数カ月、またあっという間に内戦に逆戻りしかけている現地の情勢をリポート> (写真は戦闘が再燃した10日、マシャール第一副大統領の演説を聞くジュバ市民)

 南スーダンの首都ジュバで10日、大規模な戦闘が再燃した。数日前から続いた銃撃戦による死者は政府側と反政府側の双方で250人に上るなど、難航する和平交渉は危機に直面しており、南スーダンが再び全面的な内戦状態に突入する恐れがある。

 銃撃音が鳴り響いたのは10日の午前8時半頃、現場はジュバ近郊。リヤク・マシャール第一副大統領を支持する反政府軍のキャンプ内だ。マシャールは、南スーダンで2年以上続いていた内戦を終結させるのと引き換えに、今年4月にジュバへ帰還していた。目撃者は10日の昼前まで政府軍の攻撃用ヘリコプターが市内を旋回していたと証言。反政府軍側も、同キャンプがひっきりなしに政府軍による迫撃砲や重火器による砲撃を受けたと主張した。

難民や国連職員は戦闘の板挟みに

「戦闘はまだ続いており、今も内戦状態だ」と言うのは、国連がジュバ郊外のジェベルに設置した文民保護区(Protection of Civilian site、略してPoC)に避難した南スーダンの難民だ。ジェベルの近隣には、反政府軍が占拠するキャンプがある。「多くの怪我人が出て負傷者がこのPoCに押し寄せている最中、国連施設であるPoCの中にも砲弾が飛んでくる有り様だ」

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 国連南スーダン派遣団(UNMISS)のシャンタル・ペルサウド報道官は、小火器による小競り合いや追撃砲の応酬が始まったのは、PcCの施設の北東部で、10日の朝から晩まで「ほぼ休みなく続いた」と説明。国連施設の周辺地域に拠点を置くマシャール派の反政府軍を、政府軍が狙っていたことを示唆した。

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 しかし、数千人の難民や国連職員が戦闘の板挟みになっているにも関わらず、国連平和維持活動に携わるPKO部隊はまだ出動していない。

 電話取材に応じた難民は、ジェベルに駐在する国連平和維持活動の部隊について「あの隊員たちは、戦車と共にここにいるだけだ。銃を撃つことすらしない」と話した。男性は目撃情報として、PoCの敷地内で幼い少女が砲撃を受けたり、二人の成人が頭部に流れ弾を受けたりした現場に居合わせたと語った。

 電話中にも、男性の背後から大きな爆音が聞こえていた。「あれが着弾した砲弾の音だ。UNMISSの施設のちょうど向かい側だった」

 国連の派遣団は10日、「暴力の再燃に激しい憤りを覚える」と表明し、戦闘によって首都ジュバの市民が「重大な」被害を受けていると警告。「ジュバでUNMISSが運営する施設は2か所とも、小型の武器や重火器による攻撃を受けた」と声明を発表した。



 目撃者の証言によると、ジュバの市民は10日、混乱の最中に荷物をまとめ、比較的安全とされる国連施設を目指して避難した。援助職員の話では、およそ2000人がジェベルの国連施設に面した地域にあって空港に近い国連のトンピン施設へ、他の2000人が国連世界食糧計画(WFP)の施設へと避難した。

「皆、荷物をまとめて逃げ出している」と、別の職員も電話取材で証言した。

 そもそもの発端は7日夜、マシャール派の反政府軍と、ジュバの検問所に配置された政府側の兵士が衝突したこと。それが戦闘に発展し一気に拡大したのは8日。推定250人以上が死亡したと伝わり、午後に両陣営の指導者が事態の収束を求めて会談をしていた最中のことだった。9日までに戦闘は下火になり、ジュバは緊張状態ではあったものの沈静化していた。

 それにもかかわらず、政府軍の兵士は国連のPKO隊員による市内パトロールを妨害し、UNMISSのエレン・マルグローテ・ロイ事務総長特別代表が一時避難していたアメリカ大使館から国連施設へ戻るために派遣した警備隊の通行にも応じなかった。9日午後までに、平和維持部隊によるパトロールは許可され、ロイ事務総長特別代表も国連施設へ無事戻った。

 10日に戦いが再発したことで、両派の戦闘は一気にエスカレートした。

大統領派と副大統領派の戦闘

「サルバ・キール大統領を支持する政府軍は、ジェベルにあるマシャール派の拠点を武装ヘリコプターで爆撃、重砲で爆撃し、戦車も展開している」と、マシャール派の広報担当ジェームズ・ガデット・ダクは現地時間10日の正午ごろ、フェイスブックに投稿した。

 政府側のルル・ルアイ・コアング報道官は、10日の戦闘には「重砲や小型の武器による攻撃」があったと認めたが、「なぜ、だれが、戦闘を始めたかは把握していない」と述べた。

 南スーダンが内戦状態に陥ったのは2013年12月。数十年間断続的に続いた2度の内戦を経て、2011年7月にスーダンから分離独立を果たしてからわずか3年以内のことだった。独立前の内戦中、キールとマシャールは協力関係や敵対関係を繰り返しながら、最終的にアメリカ主導の和平プロセスの下で結束し、その際に設立したスーダン人民解放運動(SPLM)が2011年の分離独立によって自治政府を担うことにつながった。キールが大統領、マシャールは副大統領にそれぞれ就任した。

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 しかし独立による和平への期待は打ち砕かれ、キールが2013年7月にマシャールを副大統領職から解任し、双方を支持する勢力同士の対立が鮮明となった。内戦が勃発したのはその5カ月後、キール派の軍隊がマシャールの出身民族ヌエル人をジュバで虐殺した後だった。2016年の初めまでに、200万人以上の南スーダン人が難民や避難民となり、犠牲者は10万人に上ると推計される。

 2015年8月に調印された停戦合意では、両派が参加する統一政府の発足を目指していたが、それ以降も、双方ともに協定内容を破ることがしばしばあった。停戦合意に違反したり、憲法改正に非協力的な態度を示したりしたこともあったが、最も致命的なのは首都ジュバの武装解除を怠ったことだろう。

「予想されていた事態とはいえ、現実に最悪の結果となった」と言ったのは、米大西洋評議会の研究員で、南スーダンを研究するピーター・バイアール・アジャクだ。「この和平合意の内容はどれも、考え抜かれたものでなかったことが明白となった。十分な訓練を受けておらず、給与が支払われないこともある兵士たちが、完全武装で待機している。これは起きるべくして起きた事態だ」

From Foreign Policy Magazine

*ロイター通信によると、菅義偉官房長官は今日午前の会見で、国際協力機構(JICA)が南スーダンの経済協力関係者47人を退避させるべく、脱出準備中であることを明らかにした。

ジェイソン・パティンキン、タイ・マコーミック

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