<ダラスの警官銃撃事件でさらに複雑化するアメリカの人種問題。その背景には、黒人コミュニティと白人警官のコミュニケーション上の問題や、銃が蔓延する社会での警察活動の困難さなどがある>
ここ数年、アメリカでは「白人警官による黒人射殺」の事件が頻発し、その結果として人種分断とも言える緊張した状況が続いています。
発端は2014年8月にミズーリ州ファーガソンで発生した黒人青年射殺事件で、その白人警官が不起訴となったことで暴動が発生しました。同じ年には、ニューヨークのスタッテン島で起きた「白人警官による黒人密売人の絞殺事件」に関する不起訴処分があり、抗議行動が拡大しました。
昨年4月には、メリーランド州のボルティモアで警察に拘束された黒人青年が死亡し、この青年の葬儀をきっかけに暴動が発生しています。
その後、この種の事件は沈静化していたのですが、まず先週5日にルイジアナ州のバトンルージュで、また翌日6日にはミネソタ州のセントポール郊外で、同様の事件が発生しました。
要するに、通常の「確保行動」や「交通取り締まり」において、白人警官が「身の危険」を感じ、その場で一方的に黒人男性を射殺するという事件が2日続けて起きてしまったのです。2つの事件ともに一部始終が動画で記録され、SNSやテレビを通じて拡散されました。
【参考記事】白人が作った「自由と平等の国」で黒人として生きるということ
さらに翌日7日には、2つの事件に対する抗議が平和的なデモとして行われていたテキサス州のダラスで、いきなりプロ級のスナイパーが登場して狙撃を開始し、白人警官が狙い撃ちにされて5人が虐殺されるという衝撃的な事件が起きました。
ダラスの事件では、狙撃犯が駐車場ビルに立てこもり、ネゴシエーター(交渉人)の説得にも応じなかったばかりか、ビルに多くの爆発物を仕掛けたという脅迫をしてきたため、ダラス警察は無人車両(ロボット)を使って狙撃犯を爆殺するという緊急対応に出ています。犯人のアフリカ系男性は、アフガニスタン戦線で戦った経験がある退役軍人でした。
ルイジアナとミネソタの事件に対しては、全米で「警官の暴力反対」という主旨の抗議行動が続いていますが、ダラスの事件では「全く正当化のできない報復テロ」が起きてしまったために、人種問題をめぐる議論は複雑化しています。
論点の一つは、「ルイジアナとミネソタの事件に対する黒人側の抗議行動が過剰であったかどうか?」という問題です。つまり「過激な動画を拡散し、怒りを爆発させた」ことが「心に闇を抱えた退役軍人の異常な報復テロ」を触発したのではないか、という批判です。
この点については、2014年から全国的な運動として広がってきた「Black Lives Matter (BLM)」という運動への賛否が論争になっています。black lives というのは複数形で「黒人の生命」ということであり、最後の matter というのは動詞で「それは重要だ」という意味です。日本語に意訳すると「全ての黒人の生命は尊重されるべき」運動ということになります。「自分たちが殺されるのはおかしい」という非常に明確なメッセージを発するために立ち上がった運動です。
このBLMは、ルイジアナとミネソタの事件を受けて抗議行動を強化していますが、右派からは強い批判があります。例えばサラ・ペイリンなどは「BLMこそ人種分断の元凶。その自覚がない以上は狂言回しに過ぎない」という言い方で批判をしています。一部には、BLMは「暴力で白人を迫害しようという新ブラック・パンサー党と提携している」というような中傷もあります。
注目されるトランプ候補について言えば、一連の事件が起きる前は一貫して「正しいのは警官。自分は100%警官の側に立つ」と言ってきましたが、さすがに今の状況ではそんな無責任なことを言うわけにはいかないのか、本稿の時点では言動を控えているようです。
【参考記事】リングと米社会で戦い続けた英雄アリが語った奇跡の一戦
もう一つの論点は、そもそも「白人警官による黒人射殺事件は、どうすれば防止できるのか?」という問題です。
この点については、アメリカでは「政治的な配慮」からオブラートに包んだような言い方しかされていないのですが、私には少なくとも次の3つの問題があるように思います。
1つは、黒人独特の言語やカルチャーについて白人警官が正確に理解できていない、そこで多くの局面でコミュニケーション上の誤解が起きていることです。ルイジアナの事件では巨漢の被害者に対して白人警官の2人が「馬乗り」になっていましたし、ミネソタの事件では被害者は決して反抗的ではなかったようです。
言語面のコミュニケーションが上手くいかず、被害者なりの「反抗姿勢」の「危険度」が警察官に正確に伝わらなかった、そこでおそらくは「殺意と誤解され」たのだと思います。その背景に、多くの黒人家庭で子供に対して「卑屈になるな」と厳しく教育していることがあります。結果的に、言葉の強さや独特のアクセントを理解しない白人警官は大変な誤解をして「身の危険」を感じてしまうのです。
2つ目は銃の存在です。ルイジアナの事件では、被害者は「お尻に銃を下げて」いました。そこで警官はもみ合っているうちに「奴の手が銃に届いたら殺される」という「身の危険」を感じて射殺してしまいました。そしてミネソタの事件でも、被害者は「自分は銃を携帯している」と口頭で言っています。そこで免許証を出そうとお尻に手を回したら瞬間的に殺されてしまったわけです。警官は「一瞬でも身の危険を感じ」たら「相手を無力化せよ」と徹底的に叩き込まれているからです。銃社会が前提の事件という側面は大きいと思います。
3つ目はビデオの問題です。ルイジアナの事件でも、ミネソタの事件でも、動画が(それも実に生々しい動画が)出回っています。そのために、憤激した人間が毎晩のように町に繰り出してデモを行い、その中で偶然に病的な帰還兵がとんでもない凶行に走ったのです。いずれにしても動画が簡単に出回ることの弊害は議論されていいと思います。ただ、警官の不当な取り調べに憤慨して抗議しようとする人は、必ずスマホで動画を撮っていますので、それを止められない難しさはあるでしょう。
実はダラス市警というのは、黒人のデイビッド・ブラウン本部長の指揮下で、このような「白人警官と黒人コミュニティの間のコミュニケーション問題」について、意欲的な取り組みをしてきた地域でした。その取り組みがあったがゆえに、白人警官の多くは飛び交う銃弾の中で、逃げ惑う黒人のデモ隊を「守ろう」として落命しています。
そのことを誠実に訴えているブラウン本部長は、自分の息子さんを警察とのトラブルで白人警官に誤射されて亡くすという悲劇を背負いつつ、「人種間融和」を目指して警察組織を率いてきたという個人的事情があります。これは大変に困難な問題ですが、次元の低い政争に利用されないようにしつつ、何とか和解への筋道をつけて欲しいと思います。
ここ数年、アメリカでは「白人警官による黒人射殺」の事件が頻発し、その結果として人種分断とも言える緊張した状況が続いています。
発端は2014年8月にミズーリ州ファーガソンで発生した黒人青年射殺事件で、その白人警官が不起訴となったことで暴動が発生しました。同じ年には、ニューヨークのスタッテン島で起きた「白人警官による黒人密売人の絞殺事件」に関する不起訴処分があり、抗議行動が拡大しました。
昨年4月には、メリーランド州のボルティモアで警察に拘束された黒人青年が死亡し、この青年の葬儀をきっかけに暴動が発生しています。
その後、この種の事件は沈静化していたのですが、まず先週5日にルイジアナ州のバトンルージュで、また翌日6日にはミネソタ州のセントポール郊外で、同様の事件が発生しました。
要するに、通常の「確保行動」や「交通取り締まり」において、白人警官が「身の危険」を感じ、その場で一方的に黒人男性を射殺するという事件が2日続けて起きてしまったのです。2つの事件ともに一部始終が動画で記録され、SNSやテレビを通じて拡散されました。
【参考記事】白人が作った「自由と平等の国」で黒人として生きるということ
さらに翌日7日には、2つの事件に対する抗議が平和的なデモとして行われていたテキサス州のダラスで、いきなりプロ級のスナイパーが登場して狙撃を開始し、白人警官が狙い撃ちにされて5人が虐殺されるという衝撃的な事件が起きました。
ダラスの事件では、狙撃犯が駐車場ビルに立てこもり、ネゴシエーター(交渉人)の説得にも応じなかったばかりか、ビルに多くの爆発物を仕掛けたという脅迫をしてきたため、ダラス警察は無人車両(ロボット)を使って狙撃犯を爆殺するという緊急対応に出ています。犯人のアフリカ系男性は、アフガニスタン戦線で戦った経験がある退役軍人でした。
ルイジアナとミネソタの事件に対しては、全米で「警官の暴力反対」という主旨の抗議行動が続いていますが、ダラスの事件では「全く正当化のできない報復テロ」が起きてしまったために、人種問題をめぐる議論は複雑化しています。
論点の一つは、「ルイジアナとミネソタの事件に対する黒人側の抗議行動が過剰であったかどうか?」という問題です。つまり「過激な動画を拡散し、怒りを爆発させた」ことが「心に闇を抱えた退役軍人の異常な報復テロ」を触発したのではないか、という批判です。
この点については、2014年から全国的な運動として広がってきた「Black Lives Matter (BLM)」という運動への賛否が論争になっています。black lives というのは複数形で「黒人の生命」ということであり、最後の matter というのは動詞で「それは重要だ」という意味です。日本語に意訳すると「全ての黒人の生命は尊重されるべき」運動ということになります。「自分たちが殺されるのはおかしい」という非常に明確なメッセージを発するために立ち上がった運動です。
このBLMは、ルイジアナとミネソタの事件を受けて抗議行動を強化していますが、右派からは強い批判があります。例えばサラ・ペイリンなどは「BLMこそ人種分断の元凶。その自覚がない以上は狂言回しに過ぎない」という言い方で批判をしています。一部には、BLMは「暴力で白人を迫害しようという新ブラック・パンサー党と提携している」というような中傷もあります。
注目されるトランプ候補について言えば、一連の事件が起きる前は一貫して「正しいのは警官。自分は100%警官の側に立つ」と言ってきましたが、さすがに今の状況ではそんな無責任なことを言うわけにはいかないのか、本稿の時点では言動を控えているようです。
【参考記事】リングと米社会で戦い続けた英雄アリが語った奇跡の一戦
もう一つの論点は、そもそも「白人警官による黒人射殺事件は、どうすれば防止できるのか?」という問題です。
この点については、アメリカでは「政治的な配慮」からオブラートに包んだような言い方しかされていないのですが、私には少なくとも次の3つの問題があるように思います。
1つは、黒人独特の言語やカルチャーについて白人警官が正確に理解できていない、そこで多くの局面でコミュニケーション上の誤解が起きていることです。ルイジアナの事件では巨漢の被害者に対して白人警官の2人が「馬乗り」になっていましたし、ミネソタの事件では被害者は決して反抗的ではなかったようです。
言語面のコミュニケーションが上手くいかず、被害者なりの「反抗姿勢」の「危険度」が警察官に正確に伝わらなかった、そこでおそらくは「殺意と誤解され」たのだと思います。その背景に、多くの黒人家庭で子供に対して「卑屈になるな」と厳しく教育していることがあります。結果的に、言葉の強さや独特のアクセントを理解しない白人警官は大変な誤解をして「身の危険」を感じてしまうのです。
2つ目は銃の存在です。ルイジアナの事件では、被害者は「お尻に銃を下げて」いました。そこで警官はもみ合っているうちに「奴の手が銃に届いたら殺される」という「身の危険」を感じて射殺してしまいました。そしてミネソタの事件でも、被害者は「自分は銃を携帯している」と口頭で言っています。そこで免許証を出そうとお尻に手を回したら瞬間的に殺されてしまったわけです。警官は「一瞬でも身の危険を感じ」たら「相手を無力化せよ」と徹底的に叩き込まれているからです。銃社会が前提の事件という側面は大きいと思います。
3つ目はビデオの問題です。ルイジアナの事件でも、ミネソタの事件でも、動画が(それも実に生々しい動画が)出回っています。そのために、憤激した人間が毎晩のように町に繰り出してデモを行い、その中で偶然に病的な帰還兵がとんでもない凶行に走ったのです。いずれにしても動画が簡単に出回ることの弊害は議論されていいと思います。ただ、警官の不当な取り調べに憤慨して抗議しようとする人は、必ずスマホで動画を撮っていますので、それを止められない難しさはあるでしょう。
実はダラス市警というのは、黒人のデイビッド・ブラウン本部長の指揮下で、このような「白人警官と黒人コミュニティの間のコミュニケーション問題」について、意欲的な取り組みをしてきた地域でした。その取り組みがあったがゆえに、白人警官の多くは飛び交う銃弾の中で、逃げ惑う黒人のデモ隊を「守ろう」として落命しています。
そのことを誠実に訴えているブラウン本部長は、自分の息子さんを警察とのトラブルで白人警官に誤射されて亡くすという悲劇を背負いつつ、「人種間融和」を目指して警察組織を率いてきたという個人的事情があります。これは大変に困難な問題ですが、次元の低い政争に利用されないようにしつつ、何とか和解への筋道をつけて欲しいと思います。