Infoseek 楽天

ゲーム研究の現在――「没入」をめぐる動向

ニューズウィーク日本版 2016年7月17日 15時28分

論壇誌「アステイオン」84号(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス、5月19日発行)から、吉田寛・立命館大学大学院先端総合学術研究科教授による論考「ゲーム研究の現在――『没入』をめぐる動向」を転載する。デジタルゲーム学会(DiGRA)の初代会長フランス・マユラの著書『ゲーム研究入門――文化の中のゲーム』(邦訳未完)を紹介しながら、ゲーム研究の発展について解説。なかでも、もっともホットなテーマの1つである「没入(immersion)」は現在、どのように議論・研究されているのだろうか。

 筆者は近年、感性学の見地からゲームの研究に取り組んでいる。具体的には、日本語で「テレビゲーム」(ただしこれは和製英語)、英語では「ビデオゲーム」や「デジタルゲーム」、「コンピュータゲーム」などと呼ばれるゲームのことである。こうしたゲームは一九八〇年代から心理学や教育学などの領域で学術研究の対象となっていたが、「ゲームとそれに関連する事象を研究と学習の主題とする学際的領域であるゲーム研究」(マユラ)が新たなディシプリンとして浮上したのは世紀転換期の頃である。メルクマールとなる年は、査読付き学術雑誌の『ゲーム研究(Game Studies)』が創刊された二〇〇一年、そして国際的学術組織である「デジタルゲーム学会(DiGRA)」が設立された二〇〇三年だろう。同学会の初代会長はフィンランド人のフランス・マユラ(一九六六-)で、彼には『ゲーム研究入門――文化の中のゲーム』(二〇〇八年)という教科書としての使用を意識した入門書もある。

 そしてゲーム研究がこの時期に成立した背景には、幾つかの理由が考えられる。まず、ゲームが文化的、社会的、経済的、技術的に大きな影響力――良し悪しを問わず――を持つようになってきたことである。次に、自らもゲーム文化の中で育った――ビデオゲームの黄金期である一九八〇年代に青年期を過ごした――若い世代の研究者の増加である。ゲーム研究者の大半が、自らが属する既存のディシプリンの中からゲーム研究への越境を試みてきた。そのことはゲーム研究の学際的性格にかんがみれば好ましいが、その反面、方法論の分裂や術語の不統一といった弊害ももたらしてきた。ゲーム研究が固有の学問領域としての核心とアイデンティティを作ることは将来の課題として残されている。

【参考記事】「ポケモンGO現象」がさらに拡大:鬱が改善との声多数。検索数でポルノ超えも

 しかし他方で「どうしてゲームを研究するのか?」という素朴な――そしてときに意地悪な――問いに答えるのはさほど難しくはない。まず分かりやすいところから言えば、ゲーム産業の巨大さである。二〇一五年には世界のゲーム産業の市場規模が、映画産業と音楽産業の合計を上回った、という調査データも出た。ゲーム研究はいわゆる産学連携が比較的やりやすいこともあり、企業やクリエイターとの共同研究も盛んに行われている。そしてその産業の大きさは、ゲームが――それを娯楽と呼ぶにせよ、文化と呼ぶにせよ――われわれの日常生活にすっかりとけ込んでいることの証拠でもある。現在、世界のゲーム市場での売上げの三分の一はスマートフォンやタブレット向けのゲームが占めている。そうしたデバイスの普及によって、われわれは文字通りいつでもどこでもゲームができるようになった。だがその裏返しに、日本では、小中学生がゲームで遊ぶ時間が学業を圧迫していることが深刻な社会問題となってもいる。こうした問題もゲーム研究の大きな課題である。

【参考記事】米で大人気の「ポケモンGO」、ISISとの前線でプレイする猛者も登場


 フランス・マユラ
『ゲーム研究入門─―文化の中のゲーム』
 An Introduction to Game Studies
 by Frans Mäyrä (SAGE Publications Ltd, 2008)




 そしてゲームを――遊ぶだけでなく――「研究」するさらなる理由は、現代社会におけるICT(情報通信技術)とHCI(ヒューマン=コンピュータ・インタラクション)の重要性に求められる。感性学にとっては、こちらの方がより興味深い。日本でも欧米でも、ゲームは一般的普及にもっとも成功したICTの事例とされる。ゲームを入口にしてコンピュータの操作やキーボードの入力方法に習熟するケースは昔から多かったが、今やインターネットやSNSの使い方もゲームをしながら覚えていける時代である。またインタラクティヴィティをその本質の一つとするビデオゲームは、自ずと、高度に洗練されたユーザーインターフェイスを育んできた。コンピュータのハードウェアやOSの開発者や設計者が、しばしばゲームのデザインを手本にしてきたのはそのためである。認知工学の創始者ドナルド・アーサー・ノーマン(一九三五-)は、ビデオゲームが実現している「探索しながら段階的に学習できるデザイン」や「プレイヤーが直接行為をしているかのような感覚」を高く評価し、そこに「未来のコンピュータ」の理想を見出した("The Psychology of Everyday Things", 1988:『誰のためのデザイン? 認知科学者のデザイン原論』新曜社、一九九〇年)。ゲームがもたらすUX(ユーザーエクスペリエンス)は、人間と機械のより良い関係を模索する上で大きな鍵となるのだ。

 さてこうしたゲーム研究も、新たなディシプリンとして誕生してからおよそ二〇年が経過した。日進月歩の学問の世界では、もはや「若い」とは言えない。実際、一昔前までは、刊行文献のほとんどに目を通すことも不可能ではなかったが、今ではリストアップも追いつかないくらいに、文献の数もふくれ上がっている。それだけ研究者や関連学会の数が増えたということだ。情報のキャッチアップはたいへんになったが、とても喜ばしいことである。

 二〇一〇年代に入ると事典や手引書も刊行され、ゲーム研究は体系性とそれ自体の歴史を備えた学問領域として完成されつつある。かつては著名な研究者の著作や論文集を押さえておけば、主要な研究主題と状況が理解できたが、それが困難になるほどに文献の数が増えてくると――とくに初学者には――リファレンスの類が必須となる。マーク・J・P・ウォルフ編『ビデオゲーム百科事典(Encyclopedia of Video Games)』(二〇一二年)は、一〇〇名近くの執筆者による三〇〇以上の項目を含む、この分野で初めての事典だ。またマーク・J・P・ウォルフとベルナール・ペロン共編『ラウトレッジ版ビデオゲーム研究必携(The Routledge Companion to Video Game Studies)』(二〇一四年)は技術、形式、プレイ、一般、文化、社会学、哲学という七つの側面に分類された、六〇のトピックを扱っている。

 これらの著作がタイトルに「ビデオゲーム(video game)」を含むことも見逃せない。「コンピュータゲーム」でも「デジタルゲーム」でもなく、わざわざこの語が選ばれている理由は、そこで取り上げられるゲームが――聴覚や触覚にも作用するとはいえ――基本的に「視覚的」表象に基づくものであるからだ。ここには、映像メディア研究(主に映画とテレビの理論)の蓄積を継承し、そこにインターフェイスやプレイヤー行為、アルゴリズムといった新たな観点を追加することでゲーム研究の土台を築いてきた、編者ウォルフ自身の経歴と思想が表現されている。



 さて現在のゲーム研究の中で、ゲームの社会的活用やその物語構築の独自性などと並んで、もっともホットなテーマの一つに「没入(immersion)」がある。没入とはゲームの世界にのめり込むことであり、「没入させる(immersive)」という形容詞は、最近のゲームの宣伝によく見られる売り文句にもなっている。また没入は「臨場感(presence)」の同義語としてVR(バーチャルリアリティ)研究の文脈でも使用されてきた。しかしながら、没入がプレイヤーとゲーム世界との「距離」を無化するのか、そのときプレイヤーは「現実と虚構の区別」ができなくなるのか、といった点をめぐっては今も議論が絶えない。

 プレイヤーはゲームが「遊び」であることを忘れ、その経験が「現実」であると信じ込んでいる、という見解を、ケイティ・サレンとエリック・ジマーマン(一九六九-)は「没入の誤謬(immersive fallacy)」と呼んで退ける(『ルールズ・オブ・プレイ』、二〇〇四年)。ゲームや遊びを特徴付けるのは、それが虚構であることを知りながら、それにのめり込む、という一種の「二重意識」に他ならない、と二人は言う。メタ・コミュニケーションの理論(グレゴリー・ベイトソン)や、透明性と超越性を同時に作動させる「リメディエーション」概念(ジェイ・デイヴィッド・ボルターとリチャード・グルーシン)が、その裏付けとされる。「現実の規則」と「虚構の想像」を同時に成立させる「半-現実(Half-Real)」としてビデオゲームを定義するイェスパー・ユール(一九七〇-)も、ゲームプレイヤーが熱中するのはあくまでも「現実世界の活動」であるという考えから、サレンとジマーマンを支持する(『ハーフリアル』、二〇〇五年)。

 一方、ゴードン・カジェハ(一九七七-)はこれまでの研究者が「没頭(absorption)としての没入」と「移行(transportation)としての没入」を混同してきたことを批判し、それらを区分する。その上で彼は、一方向的な含意を持つこの語に代わり、「合体(incorporation)」の概念を提唱し、それに基づき、われわれと環境(仮想現実も含む)の間に生じる双方向的浸透の過程を明らかにした(『ゲームの中――没入から合体へ』、二〇一一年)。

 またゲームのプレイ経験とゲームへの没入を「多次元的現象」として捉えるラウラ・エルミとフランス・マユラは、知覚的没入、挑戦に基づく没入、想像的没入の三つを独立したタイプとして扱う「SCIモデル」を提唱した(「ゲームプレイ経験の基本要素――没入を分析する」、二〇〇五年)。このモデルは幾つかの修正も経ながら、今日でも多くの研究者によって受け入れられている。例えばヤン=ノエル・トーン(一九八一-)は、第四のタイプとして社会的没入を加えた、四分類のモデルを提起している(「再訪された没入」、二〇〇八年)。

 こうした没入をめぐる研究は、ゲームプレイの経験を解明するに留まらず、そこから翻って、読書や映画鑑賞といった旧来型の――従ってインタラクティブではない――メディア経験にもあらためて光をあてる。今日ではゲーム研究の成果が、必ずしもゲームや遊びを研究対象としない認知科学者や社会科学者、教育学者などからも頻繁に参照されるのは、そうした理由による。

 現代の都市生活者にとって日々の「現実」の大部分はデジタルメディアを媒介して構成されている。それこそが――背を向けることはできても――否定しようがない「現実」である。そうした時代にあって、デジタルメディアの伴侶として発展してきたゲームが、娯楽や産業の域には収まらない価値と意義を持つことは明らかだ。ゲーム研究は、今日のわれわれが「人間とは何か」を理解する上でもっとも重要なディシプリンであると言って過言ではない。

[執筆者]
吉田 寛(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授) Hiroshi Yoshida
1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了(美学芸術学専攻)。博士(文学)。東京大学大学院人文社会系研究科助教などを経て、現職。専門は美学、感性学、表象文化論。著書に『絶対音楽の美学と分裂する〈ドイツ〉』(青弓社、サントリー学芸賞)。

※当記事は「アステイオン84」からの転載記事です。






『アステイオン84』
 特集「帝国の崩壊と呪縛」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス


吉田 寛(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)※アステイオン84より転載

この記事の関連ニュース