<「国境なき医師団」の取材で、ハイチを訪れることになった いとうせいこう さん。取材を始めると、そこがいかに修羅場かということ、そして、医療は医療スタッフのみならず、様々なスタッフによって成り立っていることを知る。そして、「産科救急センター」を取材する>
これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く、前回はこちら」
産科救急
ポルトー・プランスの中心部にあるCRUO(産科救急センター)に俺たちはいて、やがて明るく活発な病院長のハイチ人女性ロドニー・セナ・デルヴァを紹介してもらい、全体を見学させてもらうことになった。
玄関の受付にはトリアージを行う場所があり、すぐ近くに緊急患者を診察する部屋があって、7つのベッドが用意されていた。薄暗い廊下を隔てた反対側は分娩室で、つまり"着いたらすぐに産める"状態になっていた。それをロドニーさんはにこにこ説明してくれた。
廊下をそのまま行くと両側に部屋が続き、それぞれにベッドがあった。どこからか赤ん坊の声が聞こえ、扉の奥をのぞき込むと生まれたてらしい乳児がタオルに包まれ、母親に抱かれているのが見えた。
ほほ笑ましい気分になっていると、後ろから紘子さんが小さな声で情報を補った。
「ここで乗り切れない場合は、あっちに移します」
指さす先にはプラスチックの保育器が廊下のひんやりした日陰にあった。生まれてきても危険領域にある場合、子供はそこに入れられて別の部屋に入るのだった。
お腹の中で子供が死んでいると言われたの
病院には他に妊産婦のためのメンタルケアの部屋が用意されていたし、血液検査室もあった。至れり尽くせりの状況を、スタッフたちは自力で作り出していた。
最も多いのは妊婦たちが控える部屋で、幾つかあったと思う。そのひとつからじきに産気づく声がして、オーオーと地の底を這うようなうめきになった。慣れずにおののいているのは俺一人で、各スタッフも入院女性たちも何も気にしていない様子だった。子供が産まれてくる前の苦しみを、誰もが当たり前のこととして共有しているようなのだ。
廊下の先に別称「カンガルー室」と呼ばれる新生児たちの部屋があった。中に入ると、20ベッドとずいぶん広かった。6つくらいのベッドにすでにお母さんたちが寝たり座ったりしていて、一様にライトグリーンのチューブトップを上半身に着ていた。その部屋では、成育状態のよくない乳児のお腹側をカンガルーのように肌と肌をつけて母親の胸に抱えるのだった。これはコロンビアで長く行われている「発達ケア」だそうで、未熟児への効果が大きいので取り入れているのだそうだった。
実際、どの子供も小さかった。動きも気のせいか鈍く、中には表情の読み取れない子供もいた。それをある母は胸に入れて仰向けになり、ある母はいったん取り出してベッドに寝かせていた。静かな部屋だった。
中の一人、ダディ・セインビルさんがベッドに腰かけ、ふくよかな胸の下に乳児を抱いて、注射器から針の部分を取ったものをくわえさせて飲み物を与えていた(哺乳器からミルクを吸う力がないからだ)。生まれて数週間の女の赤ちゃんにはサラ・ウリカ・タイルスという名が付いていた。
聞いてみると、妊娠したダディをそこに連れて来たのは、彼女の姉だそうだった。
何かトラブルがあったらMSFに助けてもらえ、というのがそもそも家族の助言だったという。だからダディはそこに来た。
けれど帝王切開で産まれてきたサラ・ウリカは心臓が悪く、なかなか退院出来ないのだという。早く自分の村に帰りたいのだけれど、とダディは言った。
心臓に障害のある子供を抱えて、これからの生活への不安も大きいだろうと思った。目をつぶってミルクを口にふくまされているサラ・ウリカちゃんを、俺はじっと見た。
するとダディが言い出した。
「最初はお腹の中で子供が死んでいると言われました」
どうやら産まれる直前まで、別の病院で看てもらっていたらしいのだった。彼女はそこからこの産科救急センターに移って来たのだ。ダディは赤ん坊の世話をしながら続けた。
「だけど、あたしにはわかった。この子は死んでなんかいない。だから産むと言った。お医者さんはあたしが狂っていると言いました。そこでこの病院に駆け込んだんです。おかげであたしはこの子を産めました」
そして最後の言葉を、ダディは注射器の先を天に向けて言った。
「MSFのスタッフに感謝します」
彼女は不安より喜びをあらわしたのだった。
貧しい母親、親に去られた乳児
他にも話を聞く中に、クラウディア・セルテラスさんという母親がいた。妊娠半年と2週と推定される時期(なぜ推定かと言うと、妊産婦検診にかかるお金が払えず、知らぬ間にお腹が大きくなっているケースが多いのだ)に具合が悪くなり、入院して3日後に帝王切開。当然早期過ぎる出産だった。
「急に気分が悪くなってタプタプに乗りました。どこか病院に連れていってくれ、と言って。けれどどこで降ろされたかわからなくなったんです。目の前が暗くなって何も見えないまま、歩きました。するとここに着きました」
クラウディアさんは、ダディと違って眉を悲しそうに寄せながら話をしてくれた。彼女の場合、子供もさることながら、自分の健康と生活に危惧があった。
「これで6人目の子供です。片方のお乳しか出ないのでなかなか育ちません。家には5人の子が待っています。早く家に戻らないと、夫は働かねばいけないので他に面倒をみる者がいないんです」
俺はため息をつくのをこらえた。彼らは貧しい。母親自身、栄養が足りていないのだ。果たしてこの場合、産まれてくる子供、産む親は幸せなのだろうか。それがわからなくなった。
入り口近くにプラスチックの"ゆりかご"があり、産まれて一ヶ月ほどした子供が仰向けになっていた。母親は彼を産んで姿をくらまし、病院は母親探しをしながらしばらくその子を預かっているそうだった。養護施設への連絡も始まる時期だとも聞いた。
「せめてと思って毎日、少し早めに出勤して、この子をほんのちょっと世話するんです」
紘子さんはそう言った。
「お母さんが見つかるといいんですけど」
忙しい日々の中、紘子さんは自分が出来る小さな行為を実践していた。
ともかく、俺の目の前にいるのは捨て子なのだなと思った。
そこまでリアルに捨て子を見たことがない俺の視線は何度も泳いだ。きちんと面と向かえないのだった。
捨て子はじき、やたらに大きなあくびをした。
それで俺は自然にその口の中を見た。赤くて健康的な頬の内側を。
新生児集中ケア
さらに俺は新生児集中ケアの部屋に招かれた。他とは違って内扉があり、厳重に衛生管理がされていた。専門の服をまとい、手洗いし、マスクをして中に入った。若干、外より涼しかった。新生児にちょうどいい28度を保っているそうだった。
台が壁際の三方にぐるりと20個弱あったろうか、その上にそれぞれ透明プラスチックの保育器があって、中に小さな生命が入っていた。低酸素、低血糖、未熟といった乳児が、なんとか命をつないでいる場面なのだった。1000グラム以下で産まれるとそこに入れられると聞いた。
上のふたが外されているものと、完全に密封されているものがあった。正面奥の4つの保育器が完全密封で、内部が青い光線に満ちていた。光線療法中なのだそうだった。白いアイマスクをしている未熟児もいて、きわめて危険な状態を乗り越えようとしているのがわかった。
そうした子供たちはみな、白いタオルをU字にしたものの中に寝ており、「巣ごもり」の形にしてあるのだそうだった。さらに保育器を布で覆って闇にし、子宮内を模すこともあると紘子さんは説明してくれた。
「ここまでの集中ケア室は、他の活動地にはなかなかありません。ですから私たちも赤ちゃんも恵まれていると言えるんですが、それでも"ごめんなさい"という時もあって......」
集中ケアをストップする、ということだった。医師や看護師にとって頻繁にあることなのだろうけれど、捨て子の面倒を見に来るような人物にとって、それは毎回さぞつらいことに違いなかった。
最も手前右側の台の上は"ゆりかご"そのものが取り払われていて、そこに赤ん坊とさえ言えないくらい小さな体が横たわっていた。明らかに未熟きわまりない子供だった。医師が来て心臓あたりに触れ、心拍を調べた。腕に点滴をしていたようにも記憶する。
保育器の並ぶ中に、現地の女性看護師も二人いた。リシャーも通訳として部屋に入ってきてくれていた。俺は彼女たちの話を聞きたいと思って、
「日本から来ました」
と英語で言った。リシャーがそれをクレオール語に訳した。
すると一人の女性看護師がすかさず、日本語を知っていると言い出した。聞かせてくれと言う間もなく、彼女は私の耳元で大声を出した。
「オナカ、ペコペコー」
いきなりで腰が抜けそうになった。俺が幼児たちを気にしながらも大笑いすると、最高のギャグを見つけたみたいに看護師は繰り返した。
「オナカ、ペコペコー」
止まらない俺の笑いを見て、リシャーも日本語を知っていると指を立てて示しながら口を開いた。
「オ・ハ・カ」
今ここでかよ、と私はまた意表を突かれてその場に倒れそうになった。二人の女性看護師は新しい日本語に興味津々でリシャーを真似し始めた。
「オ・ア・カ?」
「オ・ハ・カ」
「オ・ハ・カ?」
「オ・ハ・カ」
最初は不謹慎な気がして背中が凍りついたのだけれど、看護師たちの明るい笑い声を聴くうちにそれでいいと思い始めた。赤ん坊たちにその明るさが伝わっていく気さえした。
そこに赤い制服を着た女性看護師が入ってきて、あの右手前の台の上でむき出しになっていた新生児の付けている酸素吸入器の確認を始めるのがわかった。
俺たちは静かになった。
途端に、周囲がみな壊れやすさの塊であるという事実に、俺は再び息苦しくなった。
カンガルー療法をしている新生児室にまた移った。産まれたばかりの三つ子が部屋に戻ったと聞いたからだった。母親は体の小さく細いジュディス・クラージェさんで、黒い別珍の短いワンピースを着ていた。やがて来たパパも若く、23才でウェンドリー・バロテレミーと言った。
産まれるまで三つ子だと知らなかったと両親は緊張気味に言った。例の検診不足ゆえのことだった。市内の別の病院から緊急に運ばれてきて帝王切開を行ったのだそうだった。
彼女と子供たちを谷口さんは是非撮りたいと言い、リシャーが許可を取る間、俺は例の捨て子の保育器のところへ移動した。
赤ん坊は眠りから覚めていて、びっくりするほど大きな目をしていた。
紘子さんの話では、妊娠7ヶ月弱(28週)で産まれてしまい、700グラム以下なので救命しないステージであるはずが、途中まで手術が進んでいたためにプロジェクトを続けたのだそうだった。つまり赤ん坊は九死に一生を得たのだ。
けれど、母親がいなくなってしまった。
せっかく生きたのに、子供は天涯孤独になっていた。
一日ごとにすくすく育っているのは体のパーツの太さでわかった。瞳の光でわかった。動きの素早さで知れた。
突然、奴が俺をつぶらな目で見た。
何か言ってやらなければいけないという気がした。そうでなければ物扱いじゃないか。
そして、口からつい出てきた英語に俺自身驚いた。
It's nice to meet you.
俺は赤ん坊にそう話しかけていた。
言ってから、ほんとにまったくそうだと思った。
niceに決まってる。
すると、赤ん坊の目の奥に一瞬、認識が宿った。奴が俺を人間として感じたように思った。
俺は大事なことをなし終えた気持ちになって、なおも奴の目を見た。
ただし"認識"と見えたのは、踏ん張っておしっこをする表情だったのかもしれない。現に係の看護師がおしめを替えに来たから。
さて、産科救急センターについては、もう一回分書きたい。
ダーン先生の回診と、「母親たちの村」、新人スタッフの悩みについてなど。
ここは俺にとって特に重要なミッションだ。ハイチ編もあと三、四回で終わり、別のプロジェクトを俺は見に行かねばならない。
追加
そうだ。
次の章がアップ出来るようになるまでに、このYoutubeを見ておいてもらうのもいい。
俺がハイチに出かける前に唯一準備として見ておいた映像。
スペースシャワーTVでいつも世話になっている村尾君がリンクを送ってくれていたのだった。
内容はレッドホットチリペッパーズのベーシスト、フリーがハイチの村を巡るというもの。
これがあるからこそ、俺は見かけののんびりしたハイチがただごとでない状況だと自分に警告し続けることが出来た。
そして彼らミュージシャンへの敬意を込めて、せめて文を書く人間としてその勇気とハートに準じるレポートをしようと取材の注意を怠らなかったのである。
では、フリーの果敢な旅をご覧下さい。
英語が出来なくても十二分に、彼の感情もハイチの村の状態も伝わります。
FLEA from the Red HOT Chili Peppers Travels to HAITI
続く
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう
これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く、前回はこちら」
産科救急
ポルトー・プランスの中心部にあるCRUO(産科救急センター)に俺たちはいて、やがて明るく活発な病院長のハイチ人女性ロドニー・セナ・デルヴァを紹介してもらい、全体を見学させてもらうことになった。
玄関の受付にはトリアージを行う場所があり、すぐ近くに緊急患者を診察する部屋があって、7つのベッドが用意されていた。薄暗い廊下を隔てた反対側は分娩室で、つまり"着いたらすぐに産める"状態になっていた。それをロドニーさんはにこにこ説明してくれた。
廊下をそのまま行くと両側に部屋が続き、それぞれにベッドがあった。どこからか赤ん坊の声が聞こえ、扉の奥をのぞき込むと生まれたてらしい乳児がタオルに包まれ、母親に抱かれているのが見えた。
ほほ笑ましい気分になっていると、後ろから紘子さんが小さな声で情報を補った。
「ここで乗り切れない場合は、あっちに移します」
指さす先にはプラスチックの保育器が廊下のひんやりした日陰にあった。生まれてきても危険領域にある場合、子供はそこに入れられて別の部屋に入るのだった。
お腹の中で子供が死んでいると言われたの
病院には他に妊産婦のためのメンタルケアの部屋が用意されていたし、血液検査室もあった。至れり尽くせりの状況を、スタッフたちは自力で作り出していた。
最も多いのは妊婦たちが控える部屋で、幾つかあったと思う。そのひとつからじきに産気づく声がして、オーオーと地の底を這うようなうめきになった。慣れずにおののいているのは俺一人で、各スタッフも入院女性たちも何も気にしていない様子だった。子供が産まれてくる前の苦しみを、誰もが当たり前のこととして共有しているようなのだ。
廊下の先に別称「カンガルー室」と呼ばれる新生児たちの部屋があった。中に入ると、20ベッドとずいぶん広かった。6つくらいのベッドにすでにお母さんたちが寝たり座ったりしていて、一様にライトグリーンのチューブトップを上半身に着ていた。その部屋では、成育状態のよくない乳児のお腹側をカンガルーのように肌と肌をつけて母親の胸に抱えるのだった。これはコロンビアで長く行われている「発達ケア」だそうで、未熟児への効果が大きいので取り入れているのだそうだった。
実際、どの子供も小さかった。動きも気のせいか鈍く、中には表情の読み取れない子供もいた。それをある母は胸に入れて仰向けになり、ある母はいったん取り出してベッドに寝かせていた。静かな部屋だった。
中の一人、ダディ・セインビルさんがベッドに腰かけ、ふくよかな胸の下に乳児を抱いて、注射器から針の部分を取ったものをくわえさせて飲み物を与えていた(哺乳器からミルクを吸う力がないからだ)。生まれて数週間の女の赤ちゃんにはサラ・ウリカ・タイルスという名が付いていた。
聞いてみると、妊娠したダディをそこに連れて来たのは、彼女の姉だそうだった。
何かトラブルがあったらMSFに助けてもらえ、というのがそもそも家族の助言だったという。だからダディはそこに来た。
けれど帝王切開で産まれてきたサラ・ウリカは心臓が悪く、なかなか退院出来ないのだという。早く自分の村に帰りたいのだけれど、とダディは言った。
心臓に障害のある子供を抱えて、これからの生活への不安も大きいだろうと思った。目をつぶってミルクを口にふくまされているサラ・ウリカちゃんを、俺はじっと見た。
するとダディが言い出した。
「最初はお腹の中で子供が死んでいると言われました」
どうやら産まれる直前まで、別の病院で看てもらっていたらしいのだった。彼女はそこからこの産科救急センターに移って来たのだ。ダディは赤ん坊の世話をしながら続けた。
「だけど、あたしにはわかった。この子は死んでなんかいない。だから産むと言った。お医者さんはあたしが狂っていると言いました。そこでこの病院に駆け込んだんです。おかげであたしはこの子を産めました」
そして最後の言葉を、ダディは注射器の先を天に向けて言った。
「MSFのスタッフに感謝します」
彼女は不安より喜びをあらわしたのだった。
貧しい母親、親に去られた乳児
他にも話を聞く中に、クラウディア・セルテラスさんという母親がいた。妊娠半年と2週と推定される時期(なぜ推定かと言うと、妊産婦検診にかかるお金が払えず、知らぬ間にお腹が大きくなっているケースが多いのだ)に具合が悪くなり、入院して3日後に帝王切開。当然早期過ぎる出産だった。
「急に気分が悪くなってタプタプに乗りました。どこか病院に連れていってくれ、と言って。けれどどこで降ろされたかわからなくなったんです。目の前が暗くなって何も見えないまま、歩きました。するとここに着きました」
クラウディアさんは、ダディと違って眉を悲しそうに寄せながら話をしてくれた。彼女の場合、子供もさることながら、自分の健康と生活に危惧があった。
「これで6人目の子供です。片方のお乳しか出ないのでなかなか育ちません。家には5人の子が待っています。早く家に戻らないと、夫は働かねばいけないので他に面倒をみる者がいないんです」
俺はため息をつくのをこらえた。彼らは貧しい。母親自身、栄養が足りていないのだ。果たしてこの場合、産まれてくる子供、産む親は幸せなのだろうか。それがわからなくなった。
入り口近くにプラスチックの"ゆりかご"があり、産まれて一ヶ月ほどした子供が仰向けになっていた。母親は彼を産んで姿をくらまし、病院は母親探しをしながらしばらくその子を預かっているそうだった。養護施設への連絡も始まる時期だとも聞いた。
「せめてと思って毎日、少し早めに出勤して、この子をほんのちょっと世話するんです」
紘子さんはそう言った。
「お母さんが見つかるといいんですけど」
忙しい日々の中、紘子さんは自分が出来る小さな行為を実践していた。
ともかく、俺の目の前にいるのは捨て子なのだなと思った。
そこまでリアルに捨て子を見たことがない俺の視線は何度も泳いだ。きちんと面と向かえないのだった。
捨て子はじき、やたらに大きなあくびをした。
それで俺は自然にその口の中を見た。赤くて健康的な頬の内側を。
新生児集中ケア
さらに俺は新生児集中ケアの部屋に招かれた。他とは違って内扉があり、厳重に衛生管理がされていた。専門の服をまとい、手洗いし、マスクをして中に入った。若干、外より涼しかった。新生児にちょうどいい28度を保っているそうだった。
台が壁際の三方にぐるりと20個弱あったろうか、その上にそれぞれ透明プラスチックの保育器があって、中に小さな生命が入っていた。低酸素、低血糖、未熟といった乳児が、なんとか命をつないでいる場面なのだった。1000グラム以下で産まれるとそこに入れられると聞いた。
上のふたが外されているものと、完全に密封されているものがあった。正面奥の4つの保育器が完全密封で、内部が青い光線に満ちていた。光線療法中なのだそうだった。白いアイマスクをしている未熟児もいて、きわめて危険な状態を乗り越えようとしているのがわかった。
そうした子供たちはみな、白いタオルをU字にしたものの中に寝ており、「巣ごもり」の形にしてあるのだそうだった。さらに保育器を布で覆って闇にし、子宮内を模すこともあると紘子さんは説明してくれた。
「ここまでの集中ケア室は、他の活動地にはなかなかありません。ですから私たちも赤ちゃんも恵まれていると言えるんですが、それでも"ごめんなさい"という時もあって......」
集中ケアをストップする、ということだった。医師や看護師にとって頻繁にあることなのだろうけれど、捨て子の面倒を見に来るような人物にとって、それは毎回さぞつらいことに違いなかった。
最も手前右側の台の上は"ゆりかご"そのものが取り払われていて、そこに赤ん坊とさえ言えないくらい小さな体が横たわっていた。明らかに未熟きわまりない子供だった。医師が来て心臓あたりに触れ、心拍を調べた。腕に点滴をしていたようにも記憶する。
保育器の並ぶ中に、現地の女性看護師も二人いた。リシャーも通訳として部屋に入ってきてくれていた。俺は彼女たちの話を聞きたいと思って、
「日本から来ました」
と英語で言った。リシャーがそれをクレオール語に訳した。
すると一人の女性看護師がすかさず、日本語を知っていると言い出した。聞かせてくれと言う間もなく、彼女は私の耳元で大声を出した。
「オナカ、ペコペコー」
いきなりで腰が抜けそうになった。俺が幼児たちを気にしながらも大笑いすると、最高のギャグを見つけたみたいに看護師は繰り返した。
「オナカ、ペコペコー」
止まらない俺の笑いを見て、リシャーも日本語を知っていると指を立てて示しながら口を開いた。
「オ・ハ・カ」
今ここでかよ、と私はまた意表を突かれてその場に倒れそうになった。二人の女性看護師は新しい日本語に興味津々でリシャーを真似し始めた。
「オ・ア・カ?」
「オ・ハ・カ」
「オ・ハ・カ?」
「オ・ハ・カ」
最初は不謹慎な気がして背中が凍りついたのだけれど、看護師たちの明るい笑い声を聴くうちにそれでいいと思い始めた。赤ん坊たちにその明るさが伝わっていく気さえした。
そこに赤い制服を着た女性看護師が入ってきて、あの右手前の台の上でむき出しになっていた新生児の付けている酸素吸入器の確認を始めるのがわかった。
俺たちは静かになった。
途端に、周囲がみな壊れやすさの塊であるという事実に、俺は再び息苦しくなった。
カンガルー療法をしている新生児室にまた移った。産まれたばかりの三つ子が部屋に戻ったと聞いたからだった。母親は体の小さく細いジュディス・クラージェさんで、黒い別珍の短いワンピースを着ていた。やがて来たパパも若く、23才でウェンドリー・バロテレミーと言った。
産まれるまで三つ子だと知らなかったと両親は緊張気味に言った。例の検診不足ゆえのことだった。市内の別の病院から緊急に運ばれてきて帝王切開を行ったのだそうだった。
彼女と子供たちを谷口さんは是非撮りたいと言い、リシャーが許可を取る間、俺は例の捨て子の保育器のところへ移動した。
赤ん坊は眠りから覚めていて、びっくりするほど大きな目をしていた。
紘子さんの話では、妊娠7ヶ月弱(28週)で産まれてしまい、700グラム以下なので救命しないステージであるはずが、途中まで手術が進んでいたためにプロジェクトを続けたのだそうだった。つまり赤ん坊は九死に一生を得たのだ。
けれど、母親がいなくなってしまった。
せっかく生きたのに、子供は天涯孤独になっていた。
一日ごとにすくすく育っているのは体のパーツの太さでわかった。瞳の光でわかった。動きの素早さで知れた。
突然、奴が俺をつぶらな目で見た。
何か言ってやらなければいけないという気がした。そうでなければ物扱いじゃないか。
そして、口からつい出てきた英語に俺自身驚いた。
It's nice to meet you.
俺は赤ん坊にそう話しかけていた。
言ってから、ほんとにまったくそうだと思った。
niceに決まってる。
すると、赤ん坊の目の奥に一瞬、認識が宿った。奴が俺を人間として感じたように思った。
俺は大事なことをなし終えた気持ちになって、なおも奴の目を見た。
ただし"認識"と見えたのは、踏ん張っておしっこをする表情だったのかもしれない。現に係の看護師がおしめを替えに来たから。
さて、産科救急センターについては、もう一回分書きたい。
ダーン先生の回診と、「母親たちの村」、新人スタッフの悩みについてなど。
ここは俺にとって特に重要なミッションだ。ハイチ編もあと三、四回で終わり、別のプロジェクトを俺は見に行かねばならない。
追加
そうだ。
次の章がアップ出来るようになるまでに、このYoutubeを見ておいてもらうのもいい。
俺がハイチに出かける前に唯一準備として見ておいた映像。
スペースシャワーTVでいつも世話になっている村尾君がリンクを送ってくれていたのだった。
内容はレッドホットチリペッパーズのベーシスト、フリーがハイチの村を巡るというもの。
これがあるからこそ、俺は見かけののんびりしたハイチがただごとでない状況だと自分に警告し続けることが出来た。
そして彼らミュージシャンへの敬意を込めて、せめて文を書く人間としてその勇気とハートに準じるレポートをしようと取材の注意を怠らなかったのである。
では、フリーの果敢な旅をご覧下さい。
英語が出来なくても十二分に、彼の感情もハイチの村の状態も伝わります。
FLEA from the Red HOT Chili Peppers Travels to HAITI
続く
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう