<「国境なき医師団」の取材で、ハイチを訪れることになった いとうせいこう さん。取材を始めると、そこがいかに修羅場かということ、そして、医療は医療スタッフのみならず、様々なスタッフによって成り立っていることを知る。そして、性暴力被害専門クリニックを訪問する>
これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く」
前回の記事:「いとうせいこう、ハイチの産科救急センターで集中治療室の回診に同行する(9)」
細心の注意を払って
3月29日(たぶん)、俺たちは朝7時半の便(四駆)でコーディネーション・オフィスへ移動することになっていた。同乗者はオランダから来た小児科医のヘンリエッタとプント、そしてその日から任務地を変えるスーダン出身のモハメッド・アリ・オマール。
出かける前にダイニングで朝食を摂り終えると、ポール校長は珍しく俺を見送る仕草を見せ、まずにっこりこう言った。
「楽しんできてくれ」
意外な言葉だと思った。なぜなら俺がその日訪問するのは性暴力被害専門クリニックだったから。
無言でうなずく俺に校長は今度はしっかりと噛みしめるような言葉つきで言った。
「ただし、極度に注意を払うことが君に要求されている」
俺もしっかり声を出して返事をした。
「はい。わかっています」
コーディネーション・オフィスまで行って車を乗り換え、俺と谷口さん、そしてリシャーはそこから20分ほどの鉄扉の前まで移動し、開けてもらった二階建ての建物の前に立った。俺のミッションはきわめて重かった。
『CLINIQUE PRAN MEN M』とクレオール語で書かれた看板が車庫の入り口にあった。クリニックの後ろは『私の手を握って』と訳せるのだとリシャーは小声で教えてくれた。
建物の外階段から静かに2階へ上がった。すぐに出てきてくれたのはMSFのTシャツに青いズボンをはいたアンジー・カラスカル・マルドナードという女性で、コロンビア出身であることはすでにイースターのランチで知っていた。背の小さな、けれどパワフルに動く人で確か2004年から現地プロジェクトに参加したあと、今度は海外派遣スタッフとして南スーダン、ネパール、スワジランドを経てハイチに入った強者だった。彼女が性暴力被害専門クリニックのプロジェクト・リーダーを務めていた。
招き入れられてロジスティックの部屋を通り、政府の保険教育担当の部屋に行く。小さな間取りの中でソファに座り、外の擦りガラスから差す日が白い内壁に反射する中、コーヒーをもらいながら話を聞いた。
前年5月からオープンしたその場所には、一ヶ月に4、50人以上の被害者が来るのだそうだった。望まぬセックスを強要される者たちの半数は18歳以下で、中には幼い少年もいた。駆け込んでくる被害者を受け入れたクリニックでは、最初期に避妊とHIV対策をし、家庭内暴力などで帰る場所がないのなら隣にある施設へと入居してもらって、そののちに地域の救援組織へと橋渡しするのだそうだ。
「男性の中にはこの場所に反感を持つ人もいるでしょうね」
谷口さんはそう質問した。
アンジーは何度もうなずき、
「だからシェルターが必要なの」
と答えた。二人の女性の間にはやるせなく、しかも許しがたいものへの静かな怒りのようなものが感じられた。俺は男ながら、その感情に連鎖し、少しでも理解を伝えたかったので、短く控えめにこう言った。
「日本でも同じです」
隣の建物に設けられたシェルターには、最大8人の被害者が暮らせるそうだった。
医師と臨床心理士、ソーシャルワーカーが一体となって、彼らのケアを続けており、その他に前日俺が産科救急センター、CRUOで見たような啓蒙活動を政府の保健教育担当が続けているのだそうだった。
性的な暴力がどれだけ人間を破壊してしまうか、人は人の性的な道具ではないこと、またもし被害に遭ったら駆け込むべき場所があること。それらを今は国の機関と共に伝えているのだというアンジーは、出来れば早く国全体に広げたいし、それこそが自分たちのゴールだと言った。実際、MSFはラジオでもスポット広告を打っているそうだ。
目をくりくり動かし、時々思わぬところでコロコロ笑うのがアンジーで、おかげで取材の緊張と気詰まりを解いてもらうことが出来た。少しずつ俺はリラックスして質問するようになり、コンゴ民主共和国の首都キンシャサで学んだという女性医師、ジーンズとTシャツ姿のヨニー・ヨワに紹介してもらって、さらに細かい情報を受け取った。アンジー自身は非医療従事者だった。
(性暴力被害クリニック)
もう一人の俺
いつどこで被害者と出くわしてしまうかわからない気おくれが俺にはあったが、ヨニーたちがそれはきちんと計算してあったのだろう。誰にも会わずに一階に降り、実際に外から来て受付を通り、緊急の医学的対応をする部屋と、臨床心理士の部屋の前へ行った。前者からは誰かが何かを訴える声がした。男性一人と女性一人の合わせて二人がその訴えを聞き、なだめているように聞こえた。
ヨニーは部屋の中を見せてくれようとしていたらしいが、しばらく時間がかかりそうだった。当然俺たちは遠慮した。他にも取材したい場所があったので、あとでまた来てみることになった。算段はリシャーがつけてくれた。
それじゃまたと言いながら、おしゃれなアフリカ女性ヨニー(なにしろキンシャサは昔からアフリカで最もファッショナブルな都市だ、と俺たちアフリカ音楽好きは叩き込まれている)はこれだけは言っておかねばという調子ではきはきと話した。
「私たちは被害者をケアすると同時に、被害者の親の心を変えなければならないの。被害にあった人を実の親が責めてしまう。誰にでも起きる被害なのに、味方がいなくなる」
これは日本の性被害でも全く同じことであった。どうしてそんなことになったんだと親がまず初めに被害者を詰問してしまう。そして友人が、社会が。深刻な二次被害が性暴力にはつきまとう。ハイチでもどこでも女性が受けている不条理は全く同じだと思った。
すると話の続きのようにヨニーが言った。
「あなたは小説家だと聞いたけど」
「あ、まあそうです」
「昨日も小説家が取材に来たのよ。一体どういうことなのかな」
「え?」
と驚いたのは俺よりもまずリシャーだった。そうした取材をコントロールしているのが彼だったからだ。リシャーが知らないうちに、どこの国の小説家がなぜ性暴力被害専門クリニックを訪れ、ヨニーたちにくわしく話を聞いたというのだろうか。
リシャーとヨニーはフランス語になって、少し離れたところでひそひそ話し出した。俺はふらふらと狭い通路を移動し、二段ベッドのある部屋の前まで行ってしまっていた。一人で外から窓を通して差す陽光を見ているうち、自分がその"前日に来た小説家"であるような気持ちがした。つまり前日へとタイムスリップしてしまったように思ったのだ。
事実、俺は行きの飛行機の乗り継ぎ時点で、正しい日付がわからなくなっていた。おまけにハイチは世界の標準時間から外れ、勝手にサマータイムを設置して動いていた。何があってもおかしくないと俺は思い、ではもう一人の俺は一体どんな小説を書こうとしているのだろうと思った。俺は自分の記憶を失った気がした。
(ふと入ってしまった緊急用の部屋)
オペレーションセンター・ブリュッセルへ
いったん性暴力被害専門クリニックから三十分ほどをかけ、OCB、つまりオペレーションセンター・ブリュッセルのコーディネーション・オフィスへ行った。それまで俺が世話になっていたのがOCA(オペレーションセンター・アムステルダム)だから、MSFの別の現地統括チームを見るいい機会だった。
鉄扉は同じ感じだったが、中は螺旋階段のある建物で、そこを上がっていくと受付があり、奥に中庭があって幾つかの部屋に囲まれていた。
俺たちが会おうとしているのはソン・ジョンシル(宋正実)さんで、俺たちの国の言葉で言えば在日韓国人、海外では韓国系日本人の女性だった。もともと谷口さんが日本のMSFで知っている人で、現在ハイチのミッションに参加していると聞いてどうにか会って様子を聞こうということになっていたのだ。
少し待っていると髪をきっちりアップにしてよく日に焼けたジョンシルさんが現れた。ぴかぴかに明るいムードを持っていて、いきなりそのあたりにいたオリビア・ゲイローさんという、地震の前からハイチでミッションを行っていた古参のメンバーを紹介してくれた。医療コーディネーターのオリビアさんは実に品のいい、外交官夫人のような感じの人物で、しかし手ごわいハイチのギャングたちにも文句を言えるような女性だということだった。話を聞いてみるといいですよとジョンシルさんは少しダミ声でさかんに言った。
しかし、俺たちがその日、話を聞きたいのはジョンシルさんからだった。MSFジャパンから派遣された人間の現状、メッセージをビデオに撮りたいという谷口さんの希望もあった。つまりジョンシルさんは元気のいい女の人特有の照れでオリビアさんを代理に立てようとしていたわけだ。
アフリカ風のブラウスを着たジョンシルさんにMSFのチョッキをはおってもらい、俺と谷口さんの取材は始まった。
彼女は神戸出身で阪神・淡路大震災に遭っていた。もともとはオーガニック関係の商品を扱う会社にいて貿易に携わっていたが、サステナビリティのある暮らしについて考えるようになってウミガメの保護などの活動をするうち、MSFのサイトに出会った。そして、そもそも震災後の神戸に最初に入った国際救援団体がMSFだったと知るに及んで参加の決心がついたのだそうだ。2008年、彼女は満を持して海外派遣スタッフとなり、初任地スーダンへ赴いたのだという。
つまり彼女も非医療従事者だった。MSFに入ってからは経験を活かしてサプライコーディネーターに専心し、物資調達を一括して見ている。緊急治療が必要な時のための薬や医療器具を揃え、安定した水や医薬品の輸入にあたって政府とたどたどしいフランス語で交渉し(英語はもともとの仕事もあって堪能だった)、輸入先とは値段についてタフなやりとりをする。
ジカ熱が流行するピーク時に経験から薬剤を補給したり、手術器具のメインテナンス契約をするのも彼女の役割だった。これまでになんと最大20ヶ月のミッションをインドやパキスタンで行ったというから、ベテランの領域に彼女はいた。それでも体験談にいちいち「なんちゃって」とか、「あたしなんか言える立場にないんですけどね」などと自分を茶化す。面白い人だった。
(リシャーとジョンシルさん)
寄付の力
けれどもいざ寄付をしてくれているドナーたちへの思いを谷口さんが聞くと、ジョンシルさんの顔つきが一変した。
「世界各地にMSFが一番乗りして困っている人を救援出来るのは、寄付して下さる人がいるからです。皆さんが思ってらっしゃるより、その力って凄いんです」
これは実際にお金の動きを見ている物資調達関係者だからこその実感に違いなかった。彼女たちはそこにお金がなければ医薬品も手術器具もテントも水も届けることが出来ないのだ。
「年末になると、支援者の方々の声を派遣先のパソコンで一通ずつ読むんすよー。そうすると疲れてるからなのかなあ、どうしても泣いちゃうんです。感動して。支援者の方にもそれぞれストーリーがあって、あたしたちにもあって、そういうものが全部つながってドライブされて、それが活動になっていくんだなってわかって」
俺の心も動いた。"全部つながってドライブされて、それが活動になっていく"というダイナミズムは、善意が持つ力だった。それをジョンシルさんは身をもって知ってしまったのだ、と思った。関係する力、と言ってもいい。知ったらもう後戻り出来ない力だ。
「でね、言葉が通じなくても気持ちは伝わります。税関と交渉してるうちに、あたしなんか日本語でしゃべってる時ありますよ。だから、MSFに参加してみようかなって思って下さる方へのアドバイスは、成せば成るです。興味があったら一緒に働きましょう!」
ジョンシルさんはそう言い、次は中近東に行きたいのだと話した。情勢がよくないから、と彼女は言った。そこで政治を解決しようなどと考えているわけではない。けれど情勢がよくない場所には困難を抱えた人間がたくさん生まれる。彼らをジョンシルさんは放っておけないのだった。
「そもそも、怪我をして泣いてた子供が治療を受けて元気になるでしょ。それを見てるだけであたしたちはうれしいんです」
なんちゃって、を付けて彼女はそう言った。シンプルな、実にシンプルな人間の心の基本を、俺はハイチの空の下で知ることが出来たのだった。
さて、この回でハイチ編を終わろうと考えていたのだが、書くべきことはまだまだあった。
次に訪問する『国境なき医師団』派遣地もようやく決まった矢先だが、その取材期間中にもう一本のレポートを自動アップする予約をして、ハイチ編のラストとしたい。
おつき合い下さい。
続く。
追記
ジョンシルさんにビデオコメントしてもらったMSF公式の映像が出来上がったという。
是非こちらをどうぞ→ソン・ジョンシル@OCBコーディネーション・オフィス
ハイチで活動するサプライ・コーディネーター 宋正実(2016年3月)【国境なき医師団】
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう
これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く」
前回の記事:「いとうせいこう、ハイチの産科救急センターで集中治療室の回診に同行する(9)」
細心の注意を払って
3月29日(たぶん)、俺たちは朝7時半の便(四駆)でコーディネーション・オフィスへ移動することになっていた。同乗者はオランダから来た小児科医のヘンリエッタとプント、そしてその日から任務地を変えるスーダン出身のモハメッド・アリ・オマール。
出かける前にダイニングで朝食を摂り終えると、ポール校長は珍しく俺を見送る仕草を見せ、まずにっこりこう言った。
「楽しんできてくれ」
意外な言葉だと思った。なぜなら俺がその日訪問するのは性暴力被害専門クリニックだったから。
無言でうなずく俺に校長は今度はしっかりと噛みしめるような言葉つきで言った。
「ただし、極度に注意を払うことが君に要求されている」
俺もしっかり声を出して返事をした。
「はい。わかっています」
コーディネーション・オフィスまで行って車を乗り換え、俺と谷口さん、そしてリシャーはそこから20分ほどの鉄扉の前まで移動し、開けてもらった二階建ての建物の前に立った。俺のミッションはきわめて重かった。
『CLINIQUE PRAN MEN M』とクレオール語で書かれた看板が車庫の入り口にあった。クリニックの後ろは『私の手を握って』と訳せるのだとリシャーは小声で教えてくれた。
建物の外階段から静かに2階へ上がった。すぐに出てきてくれたのはMSFのTシャツに青いズボンをはいたアンジー・カラスカル・マルドナードという女性で、コロンビア出身であることはすでにイースターのランチで知っていた。背の小さな、けれどパワフルに動く人で確か2004年から現地プロジェクトに参加したあと、今度は海外派遣スタッフとして南スーダン、ネパール、スワジランドを経てハイチに入った強者だった。彼女が性暴力被害専門クリニックのプロジェクト・リーダーを務めていた。
招き入れられてロジスティックの部屋を通り、政府の保険教育担当の部屋に行く。小さな間取りの中でソファに座り、外の擦りガラスから差す日が白い内壁に反射する中、コーヒーをもらいながら話を聞いた。
前年5月からオープンしたその場所には、一ヶ月に4、50人以上の被害者が来るのだそうだった。望まぬセックスを強要される者たちの半数は18歳以下で、中には幼い少年もいた。駆け込んでくる被害者を受け入れたクリニックでは、最初期に避妊とHIV対策をし、家庭内暴力などで帰る場所がないのなら隣にある施設へと入居してもらって、そののちに地域の救援組織へと橋渡しするのだそうだ。
「男性の中にはこの場所に反感を持つ人もいるでしょうね」
谷口さんはそう質問した。
アンジーは何度もうなずき、
「だからシェルターが必要なの」
と答えた。二人の女性の間にはやるせなく、しかも許しがたいものへの静かな怒りのようなものが感じられた。俺は男ながら、その感情に連鎖し、少しでも理解を伝えたかったので、短く控えめにこう言った。
「日本でも同じです」
隣の建物に設けられたシェルターには、最大8人の被害者が暮らせるそうだった。
医師と臨床心理士、ソーシャルワーカーが一体となって、彼らのケアを続けており、その他に前日俺が産科救急センター、CRUOで見たような啓蒙活動を政府の保健教育担当が続けているのだそうだった。
性的な暴力がどれだけ人間を破壊してしまうか、人は人の性的な道具ではないこと、またもし被害に遭ったら駆け込むべき場所があること。それらを今は国の機関と共に伝えているのだというアンジーは、出来れば早く国全体に広げたいし、それこそが自分たちのゴールだと言った。実際、MSFはラジオでもスポット広告を打っているそうだ。
目をくりくり動かし、時々思わぬところでコロコロ笑うのがアンジーで、おかげで取材の緊張と気詰まりを解いてもらうことが出来た。少しずつ俺はリラックスして質問するようになり、コンゴ民主共和国の首都キンシャサで学んだという女性医師、ジーンズとTシャツ姿のヨニー・ヨワに紹介してもらって、さらに細かい情報を受け取った。アンジー自身は非医療従事者だった。
(性暴力被害クリニック)
もう一人の俺
いつどこで被害者と出くわしてしまうかわからない気おくれが俺にはあったが、ヨニーたちがそれはきちんと計算してあったのだろう。誰にも会わずに一階に降り、実際に外から来て受付を通り、緊急の医学的対応をする部屋と、臨床心理士の部屋の前へ行った。前者からは誰かが何かを訴える声がした。男性一人と女性一人の合わせて二人がその訴えを聞き、なだめているように聞こえた。
ヨニーは部屋の中を見せてくれようとしていたらしいが、しばらく時間がかかりそうだった。当然俺たちは遠慮した。他にも取材したい場所があったので、あとでまた来てみることになった。算段はリシャーがつけてくれた。
それじゃまたと言いながら、おしゃれなアフリカ女性ヨニー(なにしろキンシャサは昔からアフリカで最もファッショナブルな都市だ、と俺たちアフリカ音楽好きは叩き込まれている)はこれだけは言っておかねばという調子ではきはきと話した。
「私たちは被害者をケアすると同時に、被害者の親の心を変えなければならないの。被害にあった人を実の親が責めてしまう。誰にでも起きる被害なのに、味方がいなくなる」
これは日本の性被害でも全く同じことであった。どうしてそんなことになったんだと親がまず初めに被害者を詰問してしまう。そして友人が、社会が。深刻な二次被害が性暴力にはつきまとう。ハイチでもどこでも女性が受けている不条理は全く同じだと思った。
すると話の続きのようにヨニーが言った。
「あなたは小説家だと聞いたけど」
「あ、まあそうです」
「昨日も小説家が取材に来たのよ。一体どういうことなのかな」
「え?」
と驚いたのは俺よりもまずリシャーだった。そうした取材をコントロールしているのが彼だったからだ。リシャーが知らないうちに、どこの国の小説家がなぜ性暴力被害専門クリニックを訪れ、ヨニーたちにくわしく話を聞いたというのだろうか。
リシャーとヨニーはフランス語になって、少し離れたところでひそひそ話し出した。俺はふらふらと狭い通路を移動し、二段ベッドのある部屋の前まで行ってしまっていた。一人で外から窓を通して差す陽光を見ているうち、自分がその"前日に来た小説家"であるような気持ちがした。つまり前日へとタイムスリップしてしまったように思ったのだ。
事実、俺は行きの飛行機の乗り継ぎ時点で、正しい日付がわからなくなっていた。おまけにハイチは世界の標準時間から外れ、勝手にサマータイムを設置して動いていた。何があってもおかしくないと俺は思い、ではもう一人の俺は一体どんな小説を書こうとしているのだろうと思った。俺は自分の記憶を失った気がした。
(ふと入ってしまった緊急用の部屋)
オペレーションセンター・ブリュッセルへ
いったん性暴力被害専門クリニックから三十分ほどをかけ、OCB、つまりオペレーションセンター・ブリュッセルのコーディネーション・オフィスへ行った。それまで俺が世話になっていたのがOCA(オペレーションセンター・アムステルダム)だから、MSFの別の現地統括チームを見るいい機会だった。
鉄扉は同じ感じだったが、中は螺旋階段のある建物で、そこを上がっていくと受付があり、奥に中庭があって幾つかの部屋に囲まれていた。
俺たちが会おうとしているのはソン・ジョンシル(宋正実)さんで、俺たちの国の言葉で言えば在日韓国人、海外では韓国系日本人の女性だった。もともと谷口さんが日本のMSFで知っている人で、現在ハイチのミッションに参加していると聞いてどうにか会って様子を聞こうということになっていたのだ。
少し待っていると髪をきっちりアップにしてよく日に焼けたジョンシルさんが現れた。ぴかぴかに明るいムードを持っていて、いきなりそのあたりにいたオリビア・ゲイローさんという、地震の前からハイチでミッションを行っていた古参のメンバーを紹介してくれた。医療コーディネーターのオリビアさんは実に品のいい、外交官夫人のような感じの人物で、しかし手ごわいハイチのギャングたちにも文句を言えるような女性だということだった。話を聞いてみるといいですよとジョンシルさんは少しダミ声でさかんに言った。
しかし、俺たちがその日、話を聞きたいのはジョンシルさんからだった。MSFジャパンから派遣された人間の現状、メッセージをビデオに撮りたいという谷口さんの希望もあった。つまりジョンシルさんは元気のいい女の人特有の照れでオリビアさんを代理に立てようとしていたわけだ。
アフリカ風のブラウスを着たジョンシルさんにMSFのチョッキをはおってもらい、俺と谷口さんの取材は始まった。
彼女は神戸出身で阪神・淡路大震災に遭っていた。もともとはオーガニック関係の商品を扱う会社にいて貿易に携わっていたが、サステナビリティのある暮らしについて考えるようになってウミガメの保護などの活動をするうち、MSFのサイトに出会った。そして、そもそも震災後の神戸に最初に入った国際救援団体がMSFだったと知るに及んで参加の決心がついたのだそうだ。2008年、彼女は満を持して海外派遣スタッフとなり、初任地スーダンへ赴いたのだという。
つまり彼女も非医療従事者だった。MSFに入ってからは経験を活かしてサプライコーディネーターに専心し、物資調達を一括して見ている。緊急治療が必要な時のための薬や医療器具を揃え、安定した水や医薬品の輸入にあたって政府とたどたどしいフランス語で交渉し(英語はもともとの仕事もあって堪能だった)、輸入先とは値段についてタフなやりとりをする。
ジカ熱が流行するピーク時に経験から薬剤を補給したり、手術器具のメインテナンス契約をするのも彼女の役割だった。これまでになんと最大20ヶ月のミッションをインドやパキスタンで行ったというから、ベテランの領域に彼女はいた。それでも体験談にいちいち「なんちゃって」とか、「あたしなんか言える立場にないんですけどね」などと自分を茶化す。面白い人だった。
(リシャーとジョンシルさん)
寄付の力
けれどもいざ寄付をしてくれているドナーたちへの思いを谷口さんが聞くと、ジョンシルさんの顔つきが一変した。
「世界各地にMSFが一番乗りして困っている人を救援出来るのは、寄付して下さる人がいるからです。皆さんが思ってらっしゃるより、その力って凄いんです」
これは実際にお金の動きを見ている物資調達関係者だからこその実感に違いなかった。彼女たちはそこにお金がなければ医薬品も手術器具もテントも水も届けることが出来ないのだ。
「年末になると、支援者の方々の声を派遣先のパソコンで一通ずつ読むんすよー。そうすると疲れてるからなのかなあ、どうしても泣いちゃうんです。感動して。支援者の方にもそれぞれストーリーがあって、あたしたちにもあって、そういうものが全部つながってドライブされて、それが活動になっていくんだなってわかって」
俺の心も動いた。"全部つながってドライブされて、それが活動になっていく"というダイナミズムは、善意が持つ力だった。それをジョンシルさんは身をもって知ってしまったのだ、と思った。関係する力、と言ってもいい。知ったらもう後戻り出来ない力だ。
「でね、言葉が通じなくても気持ちは伝わります。税関と交渉してるうちに、あたしなんか日本語でしゃべってる時ありますよ。だから、MSFに参加してみようかなって思って下さる方へのアドバイスは、成せば成るです。興味があったら一緒に働きましょう!」
ジョンシルさんはそう言い、次は中近東に行きたいのだと話した。情勢がよくないから、と彼女は言った。そこで政治を解決しようなどと考えているわけではない。けれど情勢がよくない場所には困難を抱えた人間がたくさん生まれる。彼らをジョンシルさんは放っておけないのだった。
「そもそも、怪我をして泣いてた子供が治療を受けて元気になるでしょ。それを見てるだけであたしたちはうれしいんです」
なんちゃって、を付けて彼女はそう言った。シンプルな、実にシンプルな人間の心の基本を、俺はハイチの空の下で知ることが出来たのだった。
さて、この回でハイチ編を終わろうと考えていたのだが、書くべきことはまだまだあった。
次に訪問する『国境なき医師団』派遣地もようやく決まった矢先だが、その取材期間中にもう一本のレポートを自動アップする予約をして、ハイチ編のラストとしたい。
おつき合い下さい。
続く。
追記
ジョンシルさんにビデオコメントしてもらったMSF公式の映像が出来上がったという。
是非こちらをどうぞ→ソン・ジョンシル@OCBコーディネーション・オフィス
ハイチで活動するサプライ・コーディネーター 宋正実(2016年3月)【国境なき医師団】
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう