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自称「救世主」トランプがアメリカを破壊する

ニューズウィーク日本版 2016年8月5日 15時30分

<大衆の声を代弁する強いリーダーを気取るトランプだが、こうしたデマゴーグは社会の激動期に現われがち。同時多発テロ後に容疑者への拷問が横行した実例を考えても、注意が必要だ>(7月の共和党大会で候補指名されたトランプは自分だけが問題を解決できると豪語した)

 古代ギリシャの哲学者はあなたの出現を予見していた。そう教えたら、ドナルド・トランプは大いに悦に入るだろう。うぬぼれ屋の彼のこと、「さもありなん」と言うかもしれない。

 古代の賢人が警告してから2400年後、そして近代初の民主共和制の国アメリカが誕生してから240年後の今、賢者の警告を裏付けるようにトランプは出現し、アメリカの政治制度を破壊しようとしている。

 トランプは「救世主」を自称している。混乱に陥ったアメリカを救えるのは自分しかないというのだ。7月21日、共和党全国大会で大統領候補に指名された受諾演説で今のアメリカを暴力やテロが吹き荒れる地獄のように描き出した。1時間を超える演説でトランプは聴衆を脅し、憎悪と怒りをあおり立てた上で偽りの安心感を与えた。私が大統領になれば、もう大丈夫、すべて解決してみせる、と。

 アメリカが抱える数々の問題を「私だけが解決できる」――トランプがそう断言すると、ファシズムの時代に逆行したかのように2万人近い聴衆が歓声を上げた。トランプの顔に浮かんだのはムソリーニさながらの笑みだ。「(国務長官時代の)ヒラリー・クリントンの負の遺産は、死、破壊、衰弱だ」

 そう決め付けると、トランプは「私があなた方の声だ」とがなり立てた。大衆の声を代弁すると誓ったつもりだろうが、「おまえたちは私の臣下だ」という独裁者の宣言に聞こえた。

【参考記事】戦没者遺族に「手を出した」トランプは、アメリカ政治の崩壊を招く

 演説するトランプの後ろには大型スクリーンがあり、そこに映し出された巨大な彼の顔が会場を威圧的に睥睨(へいげい)していた。

 その光景はジョージ・オーウェルの小説『1984年』の一場面そのものだった。「真実省」が虚偽の情報を流し、謎めいた「ビッグ・ブラザー」が人々を支配する息苦しい近未来社会。大衆は日々、敵に憎悪を燃やし、全知全能の神のような支配者に恍惚として忠誠を誓う......。

CIAが拷問をした訳

 私はCIA時代に国際テロ組織アルカイダの幹部の尋問を行った。このときの経験が今のアメリカ政治においてトランプが体現しているものの正体とその危うさを教えてくれる。

 9・11テロ後、私の同僚も全米の人々と同じく恐怖と怒りにとらわれていた。私たちは敵の攻撃を防ぎたかった。自分たちの国を、家族を守りたかった。自由と民主主義の国アメリカを守りたかった。

 大統領が「より有効」な尋問方法を認め、その実行を命じた――私たちはそう聞かされた。それはアメリカの法律では明らかに拷問の定義に当てはまるものだった。だが、指導部は必要な措置として認めたという。

 そう言われただけで十分だった。高潔で自制心ある人々、私の敬愛してやまぬ同僚たちが一瞬もためらわず、正義感に駆られてそれを実行した。彼らは法の支配と民主主義を守ろうとして、まさにそれを破壊する行為を受け入れたのだ。

 何という矛盾だろう。拷問はあっという間に実行に移され、異議を唱えれば愛国心がないと非難された。私が同僚や上司、そして大統領に異論を唱えるのには、特別な勇気が必要だった。



 トランプは今、その政治的レトリックでアメリカ人に「拷問をしろ」と呼び掛けている。私たちが行ったよりもはるかに悪質な拷問だ。彼は特定の宗教を丸ごと排除せよと主張する。イスラム教徒の入国を禁止すると叫び、南米系の人々を「レイプ犯」と決め付け、不法移民を国外に退去させると豪語している。

 そればかりかテロリストの家族は全員殺害すべきだと言いだし、拷問を禁じた法律があろうが米軍とCIAが拷問を渋ろうが「心配ない」と妙な安請け合いをしている。「私が命じれば、彼らはやる」と。

 トランプの発言からうかがわれるのは、CIAの拷問よりもはるかに危険な野望だ。権力の暴走を防ぐシステムや法律があっても、専制的な「指導者」はいとも簡単に民主主義を破壊できる。その手法はこうだ。まずマイノリティーに対する憎悪と偏見をあおり、強権支配に警鐘を鳴らす知識人を大衆の敵に仕立てる。そしてエリートの支配を覆す大衆の戦いの先頭に立つ。

 首尾よく政権を握ったらわれこそは「大衆の意思」の代弁者だと言い張る。後はそれを盾に取って自分に逆らう組織や不都合な制度を次々につぶすだけだ。

 以上が、法に基づく民主的な統治を破壊する恐ろしいまでに簡単な方法だ。たった1人のポピュリズム政治家がいればすべてをたたき壊せる。

【参考記事】ライアンやマケインも敵に回し、ますます孤立するトランプ

ソクラテスの時代から

 トランプはよく「いま何が起きているか知っているか」と聴衆に問い掛ける。その問いに答えるなら、トランプによる民主主義の破壊こそいま起きている危険極まりない事態だ。

 共和党全国大会のステージで自身の巨大な顔の下に立ち、傲慢な思い上がりを全身にみなぎらせたトランプ。社会の急速な変化に怯え、不満を募らせている人々に、彼は甘い誘惑の言葉を投げ掛けた。強いリーダーが1人出現すれば、社会の転換期の混乱とストレスは魔法のように解消される、と。

 プラトンの著作『ゴルギアス』では、ソクラテスが「古代ギリシャのトランプ」とも言うべきカリクレスと論戦を繰り広げる。テーマは理想の統治。カリクレスは強者が弱者を支配するシステムがいいと言う。「力は正義なり」という考えだ。世の中には「勝者」と「敗者」しかいないというトランプの考えと相通じるものがある。

 だがソクラテスは言う。カリクレスやトランプのようなデマゴーグは人々の不安に付け込み、忠誠心を吸い取り、自分こそが人々を救う強いリーダーだと思い込ませる。揚げ句に人々の自由を奪い、希望さえも打ち砕く。

 トランプの手法はソクラテスの時代から知られていたということだ。それにまんまと乗せられるのか。私たちの良識と判断力が問われている。アメリカ合衆国は今、震えている。

[2016.8. 9号掲載]
グレン・カール(本誌コラムニスト、元CIA諜報員)

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