<2016年5月27日にバラク・オバマ米大統領が広島を訪問するのに先立ち、本誌は原爆投下を決断した第33代大統領ハリー・トルーマンの孫、クリフトン・トルーマン・ダニエルを訪ねていた。2時間余りに及ぶインタビューの中で、ダニエルが率直に語った「祖父の決断」とその責任、そして、彼自身がヒロシマ・ナガサキの被爆者と交流を続ける理由とは> (写真:トルーマン元大統領と幼き日のダニエル、1959年)
謝罪(apology)──バラク・オバマ米大統領の広島訪問を前に、日米両国でにわかにこの言葉への注目が高まっている。オバマは日本人に謝罪すべきなのか。日本国民は米大統領に謝罪を求めるのか。戦時中の行為をめぐる「謝罪」について、日本はこれまで他国から求められることはあっても、こと原爆に関してアメリカにそれを求める声は大きくなかった。
では国家間の話ではなく、「当事者同士」という個人レベルの謝罪についてはどうなのか。日本には大勢の被爆者と、その血を受け継ぐ子孫たちがいる。一方、アメリカ側にも当事者はいる。その中心的な存在が原爆投下を決断し、指示した第33代大統領ハリー・トルーマンだ。
トルーマンは72年に死去したが、その血を引く人物が近年、日本の被爆者と交流を続けている。クリフトン・トルーマン・ダニエル、58歳。彼の母親はトルーマン元大統領の一人娘で、ダニエル自身は娘と2人の息子の父親だ。
戦後生まれのダニエル自身は、第二次大戦の「当事者」ではない。しかもアメリカでは今も原爆投下を正当化する声が根強い。にもかかわらず、彼はなぜ被爆者の体験をアメリカに伝える活動を続けているのか。祖父が下した決断と、どう向き合ってきたのか。それを知りたくて、今月14日、シカゴにあるダニエルの自宅を訪ねた。 閑静な住宅街にあるレンガ造りの一軒家。日本のように靴を脱いで上がったリビングで、元大統領の目鼻立ちをはっきりと受け継いだダニエルは2時間余り、片時も記者から視線をそらすことなくインタビューに答えてくれた。ダニエルの言葉を通して「謝罪」と「責任」の本質を探る――。
【参考記事】特別寄稿:TBSアナ久保田智子「私の広島、私達のヒロシマ」
――オバマ大統領の広島訪問の話をする前にまず、おじいさんについて聞かせてください。トルーマン元大統領はあなたにとってどんなおじいさんでしたか。
私にとっては普通の「おじいちゃん」だった。ヒロシマとナガサキについて話すとき、「おじいさんから話を聞いたか」とよく質問されるが、答えはノーだ。祖父は私が15歳のときに亡くなった。私たち兄弟はまだ子供で、祖父に会うのはクリスマスや感謝祭、春休みなど学校の長期休暇中だった。せっかくの休みに、歴史の授業が展開されるような質問はしたくなかった。
そもそも私たち家族は祖父の大統領時代についてあまり話をしなかった。祖父母も私の両親も、私たち兄弟に「普通」の生活を送らせようとしていた。だから、私たちはハリー・トルーマンの家系に生まれたことを重大なこととは考えていなかった。
私が原爆について学んだのは、一般の人と同じく歴史の教科書や先生を通してだ。アメリカ史を学び始めるのが9歳か10歳で、より総合的な歴史を学ぶのは高校に入ってからだ。
――どのように教わったのですか。
とてもシンプルだ。歴史の教科書は今も昔も、アメリカ史をすべて網羅しないといけない。分厚い教科書の中で原爆についての記述は1~2ページ。内容は原爆が投下された理由と犠牲者の数、キノコ雲の写真くらいのものだ。原爆の実態や具体的な被害、人々が受けた傷の深さについての記載は一切なく、原爆が戦争を終わらせた、日本とアメリカはトモダチになり、今はすべてがうまくいっているといった内容だった。私の印象もそのようなものだった。
【参考記事】原爆投下を正当化するのは、どんなアメリカ人なのか?
広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ」の地上クルー(日付不詳) U.S. Air Force-REUTERS
――そんなあなたがなぜ、教科書以上のことを知るようになったのですか。
まったくの偶然だった。94年、ノースカロライナ州でジャーナリストとして働いていたとき、ホームステイに来た17~18歳の日本人留学生の女の子が地元の人々に生け花を教えるというので、取材に出掛けた。彼女のホストファミリーは引退した地元の判事で、私の知り合いでもあった。
彼女と生け花について20~30分話した後、判事が私に「あなたのおじいさんが誰だか彼女に話してある」と言ってきた。彼女は笑顔を浮かべて「素晴らしいですね」と言い、私は「ありがとう」と答えた。
すると判事は彼女に向かって、「あなたのおじいさんについても話してあげなさい」と促した。彼女は非常に居心地が悪そうな表情を浮かべたまま答えなかった。彼女が何も言わないので、最終的には判事が口を開いた。「彼女のおじいさんはヒロシマで死んだ」と。
私にとって、原爆の影響を直接的に受けた人やその家族に会ったのはそれが初めてだった。当時自分がどう思ったのかは覚えていないが、とにかく不意を突かれた。彼女が怒っているのではないか、と思ったかもしれない。でも彼女は笑顔を浮かべて「ありがとう」と言った。印象的だったのは、彼女が私の気持ちを心配しているように見えたことだ。判事が私たち2人を居心地悪くさせたことに、少し怒っているようにも見えた。
私が彼女に伝えたのは、ただひとこと。大切な人を亡くした相手に誰もが言う言葉だ。「アイム・ソー・ソーリー」。国を代表して、あるいは祖父に代わって私が「謝る」という意味の「ソーリー」ではなく、「おじいさんを亡くされたことをとても残念に思います」という意味だ。
その2日前、私はまったく別の体験をしていた。(連合軍勝利のきっかけとなった)ノルマンディー上陸作戦50周年を祝う式典に母と出席したときのことだ。アメリカの退役軍人2人が目に涙を浮かべていたので「どうしたのですか」と聞くと、「何でもない、何でもない。ただ、あなたのお母様に感謝しているのです。彼女のお父様が原爆を落とさなかったら、われわれは死んでいた。ここにはいなかったのだから」と言われた。
私は数日のうちにアメリカの退役軍人と、ヒロシマで祖父を亡くした若い女の子の双方から話を聞いたわけだ。ずっと頭に残る経験だった。
それから5年後、長男が学校からサダコの本を持ち帰ってきた(編集部注・広島で被爆して後遺症に苦しみながらも、回復を願って千羽鶴を折り続けた少女、佐々木禎子の実話)。学校の先生が読書の授業で読み聞かせてくれたという。長男はその本を気に入っていた。他の児童書のようなハッピーエンドではない本当の話だったから。私にとっても、これがヒロシマ、ナガサキに関するヒューマンストーリーに接した初めての体験となった。
それまで私は長男に、曽祖父の決断について理解することが重要だと話したことはなかった。ヒロシマとナガサキが経験した被害を知ることが重要だと話したこともなかった。(サダコの本を読んでくれた)先生は子供たちに日本の歴史や文化について教え、日本食レストランや茶道教室に連れて行ってくれた。日本に関するさまざまなことをわが家に持ち込んでくれた。
オバマ大統領が5月27日、慰霊碑に献花し、演説を行った広島の平和記念公園 Wolfgang Kaehler-Lightrocket/GETTY IMAGES
このエピソードを数人の日本人記者に話したところ、それを知ったサダコの兄の佐々木雅弘が04年か05年に「いつかお会いできますか」と電話してきた。会ってどうするかまでは考えなかったが、私は「イエス」と答えた。
結局、私たちは10年にニューヨークで会った。雅弘と彼の息子の佐々木祐滋(ゆうじ)が禎子の折り鶴を9・11テロの追悼施設に寄贈したときだ。祐滋がプラスチックの箱から小さな鶴を取り出して私の手のひらに乗せ、「これは禎子が亡くなる前に最後に折った鶴です」と言った。そして、雅弘と祐滋は「広島と長崎の平和記念式典に来ることを検討していただけますか」と言った。
私は「イエス」と答え、2年後に日本に向かった。長女は仕事のため行けなかったが、当時23歳だった長男と15歳の次男を連れて行った。これがすべての始まりだ。
――広島、長崎についてお子さんたちにどのように教えたのですか。
彼らは既にその話に触れていたから、教える必要はなかった。長男はサダコの本を読み、歴史の授業を受けていた。広島と長崎に一緒に行き、翌13年には被爆者13人の証言を録画して伝えるために日本を再訪した。
録画テープをハリー・トルーマン大統領図書館(ミズーリ州)のウェブサイトに掲載するために、被爆者の話に英語の字幕を付けようとしている。ドキュメンタリーや映画、テレビ番組などで使えるようにするためだ。
――サダコの本を読んだ当時、息子さんから何か質問をされましたか。
長男は当時10歳だった。特に何も聞かれなかったが、私は「(原爆投下の)決断を下したのは、ひいおじいちゃんだ」と伝えた。その事実は知っていたはずだが、彼の中では(サダコの物語と曽祖父のことは)つながっていないようだった。まったく別の話として読んでいたから。
――それを聞いた息子さんの反応は?
......受け入れていた。彼はあの本を気に入っていたし、鶴を折るのが好きだった。日本が好きで、武道を習って育った。彼は単純にヒロシマ、ナガサキに興味を持っていた。
――それから17年がたちました。その間に息子さんから何か質問されたことは?
聞いてくる必要はなかった。彼自身が(トルーマン元大統領について)本を読むなどしてきていたから。
――あなたに対して「おじいさんの決断をどう思うか」と聞いてきたことはないのですか。
(少し声を荒らげて)ノー! 息子と私は一緒に活動してきたようなものだ。私は被爆者に向かって、原爆投下は素晴らしい考えだったと言ったりはしない。しかし一方で、太平洋戦争を戦ったアメリカの退役軍人に対し、原爆投下が間違っていたと言うこともできない。私はその真ん中で身動きができなくなっており、息子も同じなのだと思う。私たちにとって、あの決断が正しかったかどうかという問いは、その後に相手の立場を理解することや、何が起きたかを伝えていくことの大切さに比べれば重要ではない。
――これはあくまで私の想像ですが、あなたはおそらく、祖父の決断が正しかったかどうかを知りたくなったのではないでしょうか。そして、その決断を正当化できるか否かを理解しようと努力してきたはずです。しかし、その結果たどり着いた結論を口に出したら、日本人とアメリカ人の双方に大きな影響を与えてしまう。だから言わないでいるのでは?
話すことはできる。祖父が大統領時代に使っていたキーウェストの保養地で毎年学術会議が行われており、14年のテーマは原爆だった。伝統的な歴史学者は原爆は戦争を終結させ、日米双方の多くの命を救ったと主張する。一方、歴史修正主義者は日本は既に負けたも同然で、原爆投下はソ連を威嚇するためだったと言う。(主催側である)われわれは当初、両陣営を交えた議論を想定していたが、会議の議長はこの議論をするといつも怒鳴り合いになるだけだと吐露していた。
それこそが、このテーマの問題点だと思う。どちらか一方の極端な主張だけを採用すると誰も前に進めず、ただ怒鳴り合うだけだ。だから私は、(原爆投下が正しかったかという問いに)関わらないことにしている。
――あなたは何らかの結論に達したのではないでしょうか。ここでその内容を話してもらわなくてもいいですが。
(ため息をついて)同じことを言うようだが、本当のところを知ることはできないと思う。現実として原爆は落とされたのだから。そして、戦争は終わった。仮に私の祖父が「原爆は使わない」と言っていたら、あれほど早く戦争が終結したかは分からない。おそらく、とか多分という話しかできない。
原爆が戦争終結を早めたことを示す、私がみるところ説得力のある証拠はある。それは、その反対(原爆を使っても戦争終結の時期は変わらなかったこと)を示す証拠よりも説得力があると思う。
ただ私がこう話すときも、日本人や広島と長崎の人々への敬意を忘れているわけではない。結果をてんびんに掛ければ、原爆が戦争終結を早めたという説のほうが有力に見えると言っているだけだ。それも、本当のところは誰にも分からない。
――それでも、後から振り返って、原爆投下が正当だったか否かという議論はあるのではないでしょうか。
原爆という爆弾を使ったことを正当化できるかどうか、か。あれは戦争だった。(連合国でも枢軸国でも)人々は市民を攻撃する行為を正当化できると思っていた。当時行われたことのすべてについて、多くの「正当化」がなされた。原爆ほど残虐なものはないと言う人もいるが、残虐な行為はほかにもたくさんあった。東京大空襲で放射能の被害はなかったが、死者数は広島に匹敵する。どれも最悪の出来事であり、どれも正当化することはできない。
――広島と長崎への初訪問の前後で、原爆への見方は変わりましたか。
変わっていない。そこに行ったとき、私は原爆が戦争を終結させたか否か、正当な行為だったか否かについて語ることをやめた。
訪問の目的はただ1つ、被爆者の話を聞くことだった。亡くなった方々に敬意を表し、生存者の話を聞く。目的は癒やしと和解であり、原爆使用の是非を議論することではない。
――そもそもなぜ、2つの都市を訪れようと思ったのですか。
祖父の行いを見たからだ。祖父は1947年にメキシコを公式訪問した際、その100年前の1847年にメキシコ対アメリカの戦争(米墨戦争)で亡くなったメキシコ人士官候補生6人の墓に花輪をささげた。アメリカ人記者が祖父に「なぜ敵をたたえるのか」と尋ねたら、祖父は「彼らに勇気があったからだ。勇気に国境は関係ない。勇気がある人なら、どこの国の人だろうがたたえるものだ」と答えた。
同じようにヒロシマとナガサキでも、苦しみに耐えて体験を語る勇気は、国とは関係なくたたえられるべきものだ。
ヒロシマとナガサキについて書き始めた私は、バランスに気を付け、米兵の体験についても語るようにしてきた。ある米海兵大尉は長崎への上陸計画に関わっていたが、計画を実行すれば日本軍の反撃に遭って仲間の多くを失うと思い悩んでいた。だから長崎に原爆が投下されて戦争が終結したとき、彼らは皆安堵した。
しかし終戦直後に長崎に入った彼らは、破壊された光景を目の当たりにして大きな心的ダメージを受け、平静ではいられなかったという。これこそが人間的な反応だと思う。生き残ったことに安堵するが、ひとたび生き延びたら、相手に何が起きたかを知り、感情移入をする。そうあるべきだと思う。
※【原爆投下】トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味(後編)に続く
[2016.5.31号掲載]
小暮聡子(ニューヨーク支局)
謝罪(apology)──バラク・オバマ米大統領の広島訪問を前に、日米両国でにわかにこの言葉への注目が高まっている。オバマは日本人に謝罪すべきなのか。日本国民は米大統領に謝罪を求めるのか。戦時中の行為をめぐる「謝罪」について、日本はこれまで他国から求められることはあっても、こと原爆に関してアメリカにそれを求める声は大きくなかった。
では国家間の話ではなく、「当事者同士」という個人レベルの謝罪についてはどうなのか。日本には大勢の被爆者と、その血を受け継ぐ子孫たちがいる。一方、アメリカ側にも当事者はいる。その中心的な存在が原爆投下を決断し、指示した第33代大統領ハリー・トルーマンだ。
トルーマンは72年に死去したが、その血を引く人物が近年、日本の被爆者と交流を続けている。クリフトン・トルーマン・ダニエル、58歳。彼の母親はトルーマン元大統領の一人娘で、ダニエル自身は娘と2人の息子の父親だ。
戦後生まれのダニエル自身は、第二次大戦の「当事者」ではない。しかもアメリカでは今も原爆投下を正当化する声が根強い。にもかかわらず、彼はなぜ被爆者の体験をアメリカに伝える活動を続けているのか。祖父が下した決断と、どう向き合ってきたのか。それを知りたくて、今月14日、シカゴにあるダニエルの自宅を訪ねた。 閑静な住宅街にあるレンガ造りの一軒家。日本のように靴を脱いで上がったリビングで、元大統領の目鼻立ちをはっきりと受け継いだダニエルは2時間余り、片時も記者から視線をそらすことなくインタビューに答えてくれた。ダニエルの言葉を通して「謝罪」と「責任」の本質を探る――。
【参考記事】特別寄稿:TBSアナ久保田智子「私の広島、私達のヒロシマ」
――オバマ大統領の広島訪問の話をする前にまず、おじいさんについて聞かせてください。トルーマン元大統領はあなたにとってどんなおじいさんでしたか。
私にとっては普通の「おじいちゃん」だった。ヒロシマとナガサキについて話すとき、「おじいさんから話を聞いたか」とよく質問されるが、答えはノーだ。祖父は私が15歳のときに亡くなった。私たち兄弟はまだ子供で、祖父に会うのはクリスマスや感謝祭、春休みなど学校の長期休暇中だった。せっかくの休みに、歴史の授業が展開されるような質問はしたくなかった。
そもそも私たち家族は祖父の大統領時代についてあまり話をしなかった。祖父母も私の両親も、私たち兄弟に「普通」の生活を送らせようとしていた。だから、私たちはハリー・トルーマンの家系に生まれたことを重大なこととは考えていなかった。
私が原爆について学んだのは、一般の人と同じく歴史の教科書や先生を通してだ。アメリカ史を学び始めるのが9歳か10歳で、より総合的な歴史を学ぶのは高校に入ってからだ。
――どのように教わったのですか。
とてもシンプルだ。歴史の教科書は今も昔も、アメリカ史をすべて網羅しないといけない。分厚い教科書の中で原爆についての記述は1~2ページ。内容は原爆が投下された理由と犠牲者の数、キノコ雲の写真くらいのものだ。原爆の実態や具体的な被害、人々が受けた傷の深さについての記載は一切なく、原爆が戦争を終わらせた、日本とアメリカはトモダチになり、今はすべてがうまくいっているといった内容だった。私の印象もそのようなものだった。
【参考記事】原爆投下を正当化するのは、どんなアメリカ人なのか?
広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ」の地上クルー(日付不詳) U.S. Air Force-REUTERS
――そんなあなたがなぜ、教科書以上のことを知るようになったのですか。
まったくの偶然だった。94年、ノースカロライナ州でジャーナリストとして働いていたとき、ホームステイに来た17~18歳の日本人留学生の女の子が地元の人々に生け花を教えるというので、取材に出掛けた。彼女のホストファミリーは引退した地元の判事で、私の知り合いでもあった。
彼女と生け花について20~30分話した後、判事が私に「あなたのおじいさんが誰だか彼女に話してある」と言ってきた。彼女は笑顔を浮かべて「素晴らしいですね」と言い、私は「ありがとう」と答えた。
すると判事は彼女に向かって、「あなたのおじいさんについても話してあげなさい」と促した。彼女は非常に居心地が悪そうな表情を浮かべたまま答えなかった。彼女が何も言わないので、最終的には判事が口を開いた。「彼女のおじいさんはヒロシマで死んだ」と。
私にとって、原爆の影響を直接的に受けた人やその家族に会ったのはそれが初めてだった。当時自分がどう思ったのかは覚えていないが、とにかく不意を突かれた。彼女が怒っているのではないか、と思ったかもしれない。でも彼女は笑顔を浮かべて「ありがとう」と言った。印象的だったのは、彼女が私の気持ちを心配しているように見えたことだ。判事が私たち2人を居心地悪くさせたことに、少し怒っているようにも見えた。
私が彼女に伝えたのは、ただひとこと。大切な人を亡くした相手に誰もが言う言葉だ。「アイム・ソー・ソーリー」。国を代表して、あるいは祖父に代わって私が「謝る」という意味の「ソーリー」ではなく、「おじいさんを亡くされたことをとても残念に思います」という意味だ。
その2日前、私はまったく別の体験をしていた。(連合軍勝利のきっかけとなった)ノルマンディー上陸作戦50周年を祝う式典に母と出席したときのことだ。アメリカの退役軍人2人が目に涙を浮かべていたので「どうしたのですか」と聞くと、「何でもない、何でもない。ただ、あなたのお母様に感謝しているのです。彼女のお父様が原爆を落とさなかったら、われわれは死んでいた。ここにはいなかったのだから」と言われた。
私は数日のうちにアメリカの退役軍人と、ヒロシマで祖父を亡くした若い女の子の双方から話を聞いたわけだ。ずっと頭に残る経験だった。
それから5年後、長男が学校からサダコの本を持ち帰ってきた(編集部注・広島で被爆して後遺症に苦しみながらも、回復を願って千羽鶴を折り続けた少女、佐々木禎子の実話)。学校の先生が読書の授業で読み聞かせてくれたという。長男はその本を気に入っていた。他の児童書のようなハッピーエンドではない本当の話だったから。私にとっても、これがヒロシマ、ナガサキに関するヒューマンストーリーに接した初めての体験となった。
それまで私は長男に、曽祖父の決断について理解することが重要だと話したことはなかった。ヒロシマとナガサキが経験した被害を知ることが重要だと話したこともなかった。(サダコの本を読んでくれた)先生は子供たちに日本の歴史や文化について教え、日本食レストランや茶道教室に連れて行ってくれた。日本に関するさまざまなことをわが家に持ち込んでくれた。
オバマ大統領が5月27日、慰霊碑に献花し、演説を行った広島の平和記念公園 Wolfgang Kaehler-Lightrocket/GETTY IMAGES
このエピソードを数人の日本人記者に話したところ、それを知ったサダコの兄の佐々木雅弘が04年か05年に「いつかお会いできますか」と電話してきた。会ってどうするかまでは考えなかったが、私は「イエス」と答えた。
結局、私たちは10年にニューヨークで会った。雅弘と彼の息子の佐々木祐滋(ゆうじ)が禎子の折り鶴を9・11テロの追悼施設に寄贈したときだ。祐滋がプラスチックの箱から小さな鶴を取り出して私の手のひらに乗せ、「これは禎子が亡くなる前に最後に折った鶴です」と言った。そして、雅弘と祐滋は「広島と長崎の平和記念式典に来ることを検討していただけますか」と言った。
私は「イエス」と答え、2年後に日本に向かった。長女は仕事のため行けなかったが、当時23歳だった長男と15歳の次男を連れて行った。これがすべての始まりだ。
――広島、長崎についてお子さんたちにどのように教えたのですか。
彼らは既にその話に触れていたから、教える必要はなかった。長男はサダコの本を読み、歴史の授業を受けていた。広島と長崎に一緒に行き、翌13年には被爆者13人の証言を録画して伝えるために日本を再訪した。
録画テープをハリー・トルーマン大統領図書館(ミズーリ州)のウェブサイトに掲載するために、被爆者の話に英語の字幕を付けようとしている。ドキュメンタリーや映画、テレビ番組などで使えるようにするためだ。
――サダコの本を読んだ当時、息子さんから何か質問をされましたか。
長男は当時10歳だった。特に何も聞かれなかったが、私は「(原爆投下の)決断を下したのは、ひいおじいちゃんだ」と伝えた。その事実は知っていたはずだが、彼の中では(サダコの物語と曽祖父のことは)つながっていないようだった。まったく別の話として読んでいたから。
――それを聞いた息子さんの反応は?
......受け入れていた。彼はあの本を気に入っていたし、鶴を折るのが好きだった。日本が好きで、武道を習って育った。彼は単純にヒロシマ、ナガサキに興味を持っていた。
――それから17年がたちました。その間に息子さんから何か質問されたことは?
聞いてくる必要はなかった。彼自身が(トルーマン元大統領について)本を読むなどしてきていたから。
――あなたに対して「おじいさんの決断をどう思うか」と聞いてきたことはないのですか。
(少し声を荒らげて)ノー! 息子と私は一緒に活動してきたようなものだ。私は被爆者に向かって、原爆投下は素晴らしい考えだったと言ったりはしない。しかし一方で、太平洋戦争を戦ったアメリカの退役軍人に対し、原爆投下が間違っていたと言うこともできない。私はその真ん中で身動きができなくなっており、息子も同じなのだと思う。私たちにとって、あの決断が正しかったかどうかという問いは、その後に相手の立場を理解することや、何が起きたかを伝えていくことの大切さに比べれば重要ではない。
――これはあくまで私の想像ですが、あなたはおそらく、祖父の決断が正しかったかどうかを知りたくなったのではないでしょうか。そして、その決断を正当化できるか否かを理解しようと努力してきたはずです。しかし、その結果たどり着いた結論を口に出したら、日本人とアメリカ人の双方に大きな影響を与えてしまう。だから言わないでいるのでは?
話すことはできる。祖父が大統領時代に使っていたキーウェストの保養地で毎年学術会議が行われており、14年のテーマは原爆だった。伝統的な歴史学者は原爆は戦争を終結させ、日米双方の多くの命を救ったと主張する。一方、歴史修正主義者は日本は既に負けたも同然で、原爆投下はソ連を威嚇するためだったと言う。(主催側である)われわれは当初、両陣営を交えた議論を想定していたが、会議の議長はこの議論をするといつも怒鳴り合いになるだけだと吐露していた。
それこそが、このテーマの問題点だと思う。どちらか一方の極端な主張だけを採用すると誰も前に進めず、ただ怒鳴り合うだけだ。だから私は、(原爆投下が正しかったかという問いに)関わらないことにしている。
――あなたは何らかの結論に達したのではないでしょうか。ここでその内容を話してもらわなくてもいいですが。
(ため息をついて)同じことを言うようだが、本当のところを知ることはできないと思う。現実として原爆は落とされたのだから。そして、戦争は終わった。仮に私の祖父が「原爆は使わない」と言っていたら、あれほど早く戦争が終結したかは分からない。おそらく、とか多分という話しかできない。
原爆が戦争終結を早めたことを示す、私がみるところ説得力のある証拠はある。それは、その反対(原爆を使っても戦争終結の時期は変わらなかったこと)を示す証拠よりも説得力があると思う。
ただ私がこう話すときも、日本人や広島と長崎の人々への敬意を忘れているわけではない。結果をてんびんに掛ければ、原爆が戦争終結を早めたという説のほうが有力に見えると言っているだけだ。それも、本当のところは誰にも分からない。
――それでも、後から振り返って、原爆投下が正当だったか否かという議論はあるのではないでしょうか。
原爆という爆弾を使ったことを正当化できるかどうか、か。あれは戦争だった。(連合国でも枢軸国でも)人々は市民を攻撃する行為を正当化できると思っていた。当時行われたことのすべてについて、多くの「正当化」がなされた。原爆ほど残虐なものはないと言う人もいるが、残虐な行為はほかにもたくさんあった。東京大空襲で放射能の被害はなかったが、死者数は広島に匹敵する。どれも最悪の出来事であり、どれも正当化することはできない。
――広島と長崎への初訪問の前後で、原爆への見方は変わりましたか。
変わっていない。そこに行ったとき、私は原爆が戦争を終結させたか否か、正当な行為だったか否かについて語ることをやめた。
訪問の目的はただ1つ、被爆者の話を聞くことだった。亡くなった方々に敬意を表し、生存者の話を聞く。目的は癒やしと和解であり、原爆使用の是非を議論することではない。
――そもそもなぜ、2つの都市を訪れようと思ったのですか。
祖父の行いを見たからだ。祖父は1947年にメキシコを公式訪問した際、その100年前の1847年にメキシコ対アメリカの戦争(米墨戦争)で亡くなったメキシコ人士官候補生6人の墓に花輪をささげた。アメリカ人記者が祖父に「なぜ敵をたたえるのか」と尋ねたら、祖父は「彼らに勇気があったからだ。勇気に国境は関係ない。勇気がある人なら、どこの国の人だろうがたたえるものだ」と答えた。
同じようにヒロシマとナガサキでも、苦しみに耐えて体験を語る勇気は、国とは関係なくたたえられるべきものだ。
ヒロシマとナガサキについて書き始めた私は、バランスに気を付け、米兵の体験についても語るようにしてきた。ある米海兵大尉は長崎への上陸計画に関わっていたが、計画を実行すれば日本軍の反撃に遭って仲間の多くを失うと思い悩んでいた。だから長崎に原爆が投下されて戦争が終結したとき、彼らは皆安堵した。
しかし終戦直後に長崎に入った彼らは、破壊された光景を目の当たりにして大きな心的ダメージを受け、平静ではいられなかったという。これこそが人間的な反応だと思う。生き残ったことに安堵するが、ひとたび生き延びたら、相手に何が起きたかを知り、感情移入をする。そうあるべきだと思う。
※【原爆投下】トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味(後編)に続く
[2016.5.31号掲載]
小暮聡子(ニューヨーク支局)