論壇誌「アステイオン」84号(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス、5月19日発行)から、宮武実知子氏による論考「沖縄の護国神社」を4回に分けて転載する。かつて「戦没者の慰霊」をテーマにした社会学者の卵だった宮武氏は、聞き取り調査で訪れた沖縄の護国神社の権禰宜(現宮司)と結婚。現在は沖縄県宜野湾市に暮らす。本論考はいわば「元ミイラ取りによる現地レポート」だと宮武氏は言うが、異なる宗教文化を持つ沖縄にある護国神社とは、一体いかなる存在なのか。その知られざる歴史を紐解く。
(写真:[図1] 米海兵隊が1945年6月28日に撮影した護国神社。「沖縄の影響を受けた典型的な日本建築」という説明文が付いている。拝殿の屋根に砲弾の穴が開いている。提供:沖縄県公文書館)
二〇一六年の正月、那覇市奥武山(おうのやま)の沖縄県護国神社には初詣の長い列が伸びた。
護国神社といえば、県民には「あの初詣がすごく多いとこ」で知られる。だが沖縄の初詣が賑わう現象は、実はわりと新しい。その証拠に、参拝者はなぜか文字通りの「長蛇の列」を作る。三、四人ほどの細い幅でずらりと並ぶのである。境内のずっと外から始まった細い列は参道の中央を長い時間をかけて進み、ようやく拝殿前に達した先頭がおもむろに柏手を打つ。神社仏閣と観光客がひしめく京都から来た筆者は、どんどん進んで射程距離に入ったら賽銭を投げればいいのにと思って眺める。飲食店の順番待ちのような並び方は初詣らしくない。
それにしても、なぜ異なる宗教文化の沖縄で、こんなにも初詣が賑わうのか。しかも、戦没者を祀る「地方版の靖國神社」がアメリカ占領下で復興され、今や誰もそんな歴史を気に留めないほど市民生活に溶け込んでいる。なぜだろうか。
それは、人々が護国神社の復興に「祖国日本」という夢を重ねてきたためではないか、と筆者は考えている。
なお、筆者はかつて「戦没者の慰霊」をテーマにした社会学者の卵のようなものであった。論文を投稿した査読誌から「条件付で掲載可」の通知とともに「沖縄の護国神社は特殊だが、調査したか」と指摘され、慌てて沖縄へ飛んだ。聞き取り調査をしようと境内をうろつくうち、当時は権禰宜(ごんねぎ)(ヒラの神主)だった現宮司の加治順人(よりひと)が通りかかった。聞けば四〇年以上にわたって神社の再建と運営を担った加治順正(じゅんせい)の長男だという。「加治家の神社」と揶揄されるほど一族総出で運営してきたそうだが、よそ者には理解しづらい長い話だった。数年後(中略)「こちらに来ればいい」と身元を引き受けてもらって現在に至る。一般的に言えば、嫁に来たということだ。
つまり、本論考は研究者がいわゆる参与観察をした学術論文ではない。元ミイラ取りによる現地リポートである。昔の名前で出ているのは、本稿があくまでも筆者個人の理解に基づく論考であって、神社はもちろん加治家を代表する意見でもないことを示している。
神道というマイナー宗教
沖縄で神主が地鎮祭やお祓いに出向くと、「あい! 髪があるねぇ」と驚かれるらしい。タクシーに乗って「奥武山公園の、護国神社」と所在地を強調しないと、波之上の「護国寺」に連れて行かれる。
神主と僧侶、神社と寺の区別は、沖縄ではあまり知られない。ここでは神道も仏教もマイナーな宗教である。
では「沖縄の信仰」は何かといえば、折口信夫が「琉球神道」と呼んだ独特な信仰形態だろう。日本本土の神道の一種とも言われるが、祖先崇拝が非常に強く、神社仏閣のような建造物を重視せず、 御嶽(うたき)や火の神(ひぬかん)を拝み、ノロやユタといったシャーマン的な人々が活動する。このユタが驚くべきことに現在も各地にいて影響力をふるっており、いろいろ奇妙な話も多い。
だからだろうか、現代の感覚では非合理と思えるものへの抵抗感が少なく、「サーダカーな人(霊的な位相の高い人)」や予知夢の存在が当たり前に信じられ、さまざまな新興宗教が支部を構えて栄える。アメリカ占領時代の名残でキリスト教も強く、町に小規模な教会をよく見かける。これら新興の外来信仰が、沖縄の厳格な祖先祭祀から零れ落ちた人を掬い上げる役割を果たしてもいる。
多様で層の厚い宗教文化の地では、内地で圧倒的な存在の仏教や神社神道すらひとつの外来信仰にすぎない。
沖縄に仏教が来たのは十三世紀半ば。補陀落渡海(ふだらくとかい)で流れ着いた禅鑑という僧が伝えたと言われる。補陀落渡海とは南の浄土を目指して小さな箱舟で僧侶を海に流した習慣で、那智勝浦が有名である。筆者も昔、井上靖の小説『補陀落渡海紀』に描かれた僧の懊悩を読んで暗い気持ちになった覚えがあるが、太平洋を渡って沖縄まで着いた舟があったとは史実は小説より奇なり。ちなみに勝浦の補陀落山寺の場合、僧侶を入れた箱の四方に鳥居が四つ立っていたとされる。沖縄の仏教が鳥居を立てて到来したかもしれないとは密かに痛快だ(1)。
やがて十六世紀前半にやはり補陀落渡海で来た日秀という僧が、沖縄で真言宗と熊野信仰とを広めた。その後、次第に寺院の数も増えたが、仏教は国家鎮護を祈る場と捉えられ、広く一般の信仰の対象とはならなかった。現在でも沖縄の寺では、宗派の区別はなく、境内に墓がなく、よって檀家というものもない。観光寺院の類もなくて、道教の寺院のほうが観光客を集める。
一方、神道の伝来は日秀より早い十五世紀と言われるが、確かな年代や経緯は分かっていない。十五、六世紀頃は琉球王朝の黄金期にあたり、各国との交易や交流が盛んだった。その際、当時の日本で流行していた熊野信仰が商人や僧侶らによって持ち込まれたらしい。この新しい外来の神は琉球の神々より強い力を持つと思われ、王家や役人らに信仰され、首里や那覇といった政治経済の中心地に社が建てられた。それが沖縄における神社の始まりと考えられている。
そんなわけで、今も沖縄では、神主は「ユタの男性版」だと誤解されることも多い。「神社の人なら見えるんでしょ?」と期待され、エクソシストか霊媒師のような案件が持ち込まれることもある(2)。実に多様なものが混然と共存した信仰文化なのである。
沖縄戦と護国神社
「新しい」宗教である神道のうちでも、護国神社そのものが神社界の新興宗教である。
護国神社については先行研究が少なく、特に沖縄の護国神社や神道を扱った活字資料は、長く事務局長を務めた義父・加治順正と現宮司が書いたものが基本になる。以下の神社史の多くは、加治順正がほぼ一人で仕上げた社史『沖縄県護国神社の歩み』(二〇〇〇年、以下『歩み』と略称)に基づく。
一般に護国神社の起源は幕末維新期の官軍側の死者を祀った招魂社にあり、やがて近代日本の戦争で国に殉じた郷土出身者を合祀していった。戊辰戦争に縁の深い京都や鹿児島では創建が早く(慶応四年)、たいていは一県一社、北海道や岐阜県には三社ある。神奈川県は一社もなく、東京の招魂社が靖國神社となったため東京都の護国神社というものも存在しない。
沖縄では一九一〇(明治四三)年に招魂社ができ、一九四〇(昭和十五)年七月に内務大臣指定の護国神社となった。その時点での祭神数は、日清戦争一柱、日露戦争一九五柱、満州事変二七柱など、計三一〇柱でしかない。当時の社司だった長嶺牛清の記憶によれば、「オ宮ノ状況ハ実ニミスボラシイ有様」で、仮本殿や拝殿も掘っ建ての「御粗末極マル」ものだったという。その年の十月の例大祭で支那事変四六柱、一九四一(昭和十六)年十月に大東亜戦争三二六柱、一九四三(昭和十八)年十月、大東亜戦争二四四柱が合祀されたが、沖縄にとって「近代日本の戦争」はまだ遠い火事だった。
戦時中の神社がどんな様子だったかは、あまりよく分かっていない。開戦と同時に交代した社司は在郷軍人沖縄分会長で陸軍中尉の肩書ももち、一九四五(昭和二〇)年五月に戦死した。関係資料の殆どが戦闘で失われ、かろうじて戦火を免れた記録類も戦後の混乱期に散逸したという。だが今回、米海兵隊が六月二十八日に撮った写真を公文書館で見つけた。これを見ると、境内は戦火を免れたことがわかる(図1 *本記事冒頭の写真)。
【参考記事】Picture Power「あの時代」と今を繋ぐ 旧日本領の鳥居
ところが、長嶺の記録『護国神社の今昔と将来』によれば、戦後少しして神社を訪れてみると、「全ク涕ナクテハ拜マレナイ御姿」に変わり果てていたらしい。那覇周辺での戦闘が終わった時期の海兵隊写真には本殿や灯籠が写っているが、それらの基礎部分しか残っていなかった。樫の木でできた第二鳥居も、長嶺が一九四六(昭和二一)年二月に収容所から帰されたトラックからは確かに見えたはずが、いつの間にか忽然と姿を消して木切れ一片すら見当たらなかった。さらに後に見に行くと、境内には「豚小屋同様ナミスボラシイバラック」が建ち、石灯籠や玉垣も消えていたという。
とはいえ、戦後に境内が荒廃したのは護国神社に限らない。波上宮(なみのうえぐう)は戦火に残った階段や参道の敷石まですべて剝ぎとられ、 世持(よもち)神社の拝殿は納骨堂になった。神も仏もない戦場で鴻毛(こうもう)より軽い死をくぐり抜けた者にとって、宗教施設の神聖どころでなかったのも無理はない。生き残った者は生きることに精一杯だった。
護国神社には社務所だけが残ったが、 国場(こくば)幸太郎が住んでいた。佐野眞一が「沖縄のゴッドファーザー」と称した「沖縄財界の総帥」で、沖縄最大の建設会社・国場組創設者として知られる。戦時中は日本軍から請け負って沖縄中の飛行場を建設し、戦後は米軍の下で基地関係施設を建設し、本土復帰後は公共工事を次々に引き受けてきた。一族から国会議員も輩出し続ける沖縄版「華麗なる一族」の家長である。
国場組の社史によれば、終戦の頃、境内には日本軍捕虜収容所と米軍の宿舎が設けられ、焼け残った社務所は米軍の隊長宿舎に用いられた。終戦後、近くの那覇港にアメリカから物資が陸揚げされ、境内の簡易宿舎は港湾労働者の住宅に転用される。昭和二一年十二月、アメリカ軍政府は国場を二〇〇〇人以上の労働者を束ねる「総支配人」に指名し、社務所の建物を「支配人宿舎」として割り当てたそうだ。国場は大富豪だったはずだが、最晩年まで社務所を増改築して住み続けた。
労働者住宅となったバラック住宅は復帰後まで長く残り、神社の敷地の範囲も分からない状態だった。
※第2回:沖縄の護国神社(2)はこちら
[注]
(1)鳥居に関する余談だが、沖縄には神社は少ないが鳥居は多い。来訪神を祀る御嶽という聖地は何も置かれないものだが、鳥居だけ建てられることがある。また、在沖アメリカ軍基地にも鳥居が多い。基地のゲートや看板によく描かれ、随所に小さな鳥居の模型が立つ。特にグリーンベレーが駐留する通信施設は「トリイステーション」と呼ばれ、入り口に大きな鳥居が横に二つ並んで奇妙である。なぜ軍事基地に鳥居なのか、米軍に問い合わせた神社関係者はまだないらしい。「では、問い合わせましょう」とうちの宮司を促すと、断固拒否された。
(2)日本兵が見えると言う米軍基地の住人、深夜になると無意識に南部へ「撤退」するようになった公務員、修学旅行でガマ(戦時中、壕の代わりに使われた洞窟)に入れられて以来「ついてきた」と怯えて歩けなくなった生徒、何かのはずみで動物のような振舞いをするようになった「狐憑き」の人などがいた。驚くべきことに、いずれもお祓いで快復したそうだ。二一世紀の日本でこんな話は信じがたく、子供の友人母(いわゆるママ友)で大病院の精神科医にそっと話してみると、「ああ、うちにもよく来ます。薬が効く人と効かない人がいて、効かない人は霊のせいかも」と事もなげに言われた。
[執筆者]
宮武実知子(主婦) Michiko Miyatake
1972年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(社会学専攻)単位取得退学。日本学術研究会特別研究員(国際日本文化研究センター所属)や非常勤講師などを経て、現在は沖縄県宜野湾市在住。訳書に、ジョージ・L・モッセ『英霊』(柏書房)などがある。現在、新潮社『webでも考える人』で「チャーリーさんのタコスの味―ある沖縄史」を連載中。
※当記事は「アステイオン84」からの転載記事です。
『アステイオン84』
特集「帝国の崩壊と呪縛」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
宮武実知子(主婦)※アステイオン84より転載
(写真:[図1] 米海兵隊が1945年6月28日に撮影した護国神社。「沖縄の影響を受けた典型的な日本建築」という説明文が付いている。拝殿の屋根に砲弾の穴が開いている。提供:沖縄県公文書館)
二〇一六年の正月、那覇市奥武山(おうのやま)の沖縄県護国神社には初詣の長い列が伸びた。
護国神社といえば、県民には「あの初詣がすごく多いとこ」で知られる。だが沖縄の初詣が賑わう現象は、実はわりと新しい。その証拠に、参拝者はなぜか文字通りの「長蛇の列」を作る。三、四人ほどの細い幅でずらりと並ぶのである。境内のずっと外から始まった細い列は参道の中央を長い時間をかけて進み、ようやく拝殿前に達した先頭がおもむろに柏手を打つ。神社仏閣と観光客がひしめく京都から来た筆者は、どんどん進んで射程距離に入ったら賽銭を投げればいいのにと思って眺める。飲食店の順番待ちのような並び方は初詣らしくない。
それにしても、なぜ異なる宗教文化の沖縄で、こんなにも初詣が賑わうのか。しかも、戦没者を祀る「地方版の靖國神社」がアメリカ占領下で復興され、今や誰もそんな歴史を気に留めないほど市民生活に溶け込んでいる。なぜだろうか。
それは、人々が護国神社の復興に「祖国日本」という夢を重ねてきたためではないか、と筆者は考えている。
なお、筆者はかつて「戦没者の慰霊」をテーマにした社会学者の卵のようなものであった。論文を投稿した査読誌から「条件付で掲載可」の通知とともに「沖縄の護国神社は特殊だが、調査したか」と指摘され、慌てて沖縄へ飛んだ。聞き取り調査をしようと境内をうろつくうち、当時は権禰宜(ごんねぎ)(ヒラの神主)だった現宮司の加治順人(よりひと)が通りかかった。聞けば四〇年以上にわたって神社の再建と運営を担った加治順正(じゅんせい)の長男だという。「加治家の神社」と揶揄されるほど一族総出で運営してきたそうだが、よそ者には理解しづらい長い話だった。数年後(中略)「こちらに来ればいい」と身元を引き受けてもらって現在に至る。一般的に言えば、嫁に来たということだ。
つまり、本論考は研究者がいわゆる参与観察をした学術論文ではない。元ミイラ取りによる現地リポートである。昔の名前で出ているのは、本稿があくまでも筆者個人の理解に基づく論考であって、神社はもちろん加治家を代表する意見でもないことを示している。
神道というマイナー宗教
沖縄で神主が地鎮祭やお祓いに出向くと、「あい! 髪があるねぇ」と驚かれるらしい。タクシーに乗って「奥武山公園の、護国神社」と所在地を強調しないと、波之上の「護国寺」に連れて行かれる。
神主と僧侶、神社と寺の区別は、沖縄ではあまり知られない。ここでは神道も仏教もマイナーな宗教である。
では「沖縄の信仰」は何かといえば、折口信夫が「琉球神道」と呼んだ独特な信仰形態だろう。日本本土の神道の一種とも言われるが、祖先崇拝が非常に強く、神社仏閣のような建造物を重視せず、 御嶽(うたき)や火の神(ひぬかん)を拝み、ノロやユタといったシャーマン的な人々が活動する。このユタが驚くべきことに現在も各地にいて影響力をふるっており、いろいろ奇妙な話も多い。
だからだろうか、現代の感覚では非合理と思えるものへの抵抗感が少なく、「サーダカーな人(霊的な位相の高い人)」や予知夢の存在が当たり前に信じられ、さまざまな新興宗教が支部を構えて栄える。アメリカ占領時代の名残でキリスト教も強く、町に小規模な教会をよく見かける。これら新興の外来信仰が、沖縄の厳格な祖先祭祀から零れ落ちた人を掬い上げる役割を果たしてもいる。
多様で層の厚い宗教文化の地では、内地で圧倒的な存在の仏教や神社神道すらひとつの外来信仰にすぎない。
沖縄に仏教が来たのは十三世紀半ば。補陀落渡海(ふだらくとかい)で流れ着いた禅鑑という僧が伝えたと言われる。補陀落渡海とは南の浄土を目指して小さな箱舟で僧侶を海に流した習慣で、那智勝浦が有名である。筆者も昔、井上靖の小説『補陀落渡海紀』に描かれた僧の懊悩を読んで暗い気持ちになった覚えがあるが、太平洋を渡って沖縄まで着いた舟があったとは史実は小説より奇なり。ちなみに勝浦の補陀落山寺の場合、僧侶を入れた箱の四方に鳥居が四つ立っていたとされる。沖縄の仏教が鳥居を立てて到来したかもしれないとは密かに痛快だ(1)。
やがて十六世紀前半にやはり補陀落渡海で来た日秀という僧が、沖縄で真言宗と熊野信仰とを広めた。その後、次第に寺院の数も増えたが、仏教は国家鎮護を祈る場と捉えられ、広く一般の信仰の対象とはならなかった。現在でも沖縄の寺では、宗派の区別はなく、境内に墓がなく、よって檀家というものもない。観光寺院の類もなくて、道教の寺院のほうが観光客を集める。
一方、神道の伝来は日秀より早い十五世紀と言われるが、確かな年代や経緯は分かっていない。十五、六世紀頃は琉球王朝の黄金期にあたり、各国との交易や交流が盛んだった。その際、当時の日本で流行していた熊野信仰が商人や僧侶らによって持ち込まれたらしい。この新しい外来の神は琉球の神々より強い力を持つと思われ、王家や役人らに信仰され、首里や那覇といった政治経済の中心地に社が建てられた。それが沖縄における神社の始まりと考えられている。
そんなわけで、今も沖縄では、神主は「ユタの男性版」だと誤解されることも多い。「神社の人なら見えるんでしょ?」と期待され、エクソシストか霊媒師のような案件が持ち込まれることもある(2)。実に多様なものが混然と共存した信仰文化なのである。
沖縄戦と護国神社
「新しい」宗教である神道のうちでも、護国神社そのものが神社界の新興宗教である。
護国神社については先行研究が少なく、特に沖縄の護国神社や神道を扱った活字資料は、長く事務局長を務めた義父・加治順正と現宮司が書いたものが基本になる。以下の神社史の多くは、加治順正がほぼ一人で仕上げた社史『沖縄県護国神社の歩み』(二〇〇〇年、以下『歩み』と略称)に基づく。
一般に護国神社の起源は幕末維新期の官軍側の死者を祀った招魂社にあり、やがて近代日本の戦争で国に殉じた郷土出身者を合祀していった。戊辰戦争に縁の深い京都や鹿児島では創建が早く(慶応四年)、たいていは一県一社、北海道や岐阜県には三社ある。神奈川県は一社もなく、東京の招魂社が靖國神社となったため東京都の護国神社というものも存在しない。
沖縄では一九一〇(明治四三)年に招魂社ができ、一九四〇(昭和十五)年七月に内務大臣指定の護国神社となった。その時点での祭神数は、日清戦争一柱、日露戦争一九五柱、満州事変二七柱など、計三一〇柱でしかない。当時の社司だった長嶺牛清の記憶によれば、「オ宮ノ状況ハ実ニミスボラシイ有様」で、仮本殿や拝殿も掘っ建ての「御粗末極マル」ものだったという。その年の十月の例大祭で支那事変四六柱、一九四一(昭和十六)年十月に大東亜戦争三二六柱、一九四三(昭和十八)年十月、大東亜戦争二四四柱が合祀されたが、沖縄にとって「近代日本の戦争」はまだ遠い火事だった。
戦時中の神社がどんな様子だったかは、あまりよく分かっていない。開戦と同時に交代した社司は在郷軍人沖縄分会長で陸軍中尉の肩書ももち、一九四五(昭和二〇)年五月に戦死した。関係資料の殆どが戦闘で失われ、かろうじて戦火を免れた記録類も戦後の混乱期に散逸したという。だが今回、米海兵隊が六月二十八日に撮った写真を公文書館で見つけた。これを見ると、境内は戦火を免れたことがわかる(図1 *本記事冒頭の写真)。
【参考記事】Picture Power「あの時代」と今を繋ぐ 旧日本領の鳥居
ところが、長嶺の記録『護国神社の今昔と将来』によれば、戦後少しして神社を訪れてみると、「全ク涕ナクテハ拜マレナイ御姿」に変わり果てていたらしい。那覇周辺での戦闘が終わった時期の海兵隊写真には本殿や灯籠が写っているが、それらの基礎部分しか残っていなかった。樫の木でできた第二鳥居も、長嶺が一九四六(昭和二一)年二月に収容所から帰されたトラックからは確かに見えたはずが、いつの間にか忽然と姿を消して木切れ一片すら見当たらなかった。さらに後に見に行くと、境内には「豚小屋同様ナミスボラシイバラック」が建ち、石灯籠や玉垣も消えていたという。
とはいえ、戦後に境内が荒廃したのは護国神社に限らない。波上宮(なみのうえぐう)は戦火に残った階段や参道の敷石まですべて剝ぎとられ、 世持(よもち)神社の拝殿は納骨堂になった。神も仏もない戦場で鴻毛(こうもう)より軽い死をくぐり抜けた者にとって、宗教施設の神聖どころでなかったのも無理はない。生き残った者は生きることに精一杯だった。
護国神社には社務所だけが残ったが、 国場(こくば)幸太郎が住んでいた。佐野眞一が「沖縄のゴッドファーザー」と称した「沖縄財界の総帥」で、沖縄最大の建設会社・国場組創設者として知られる。戦時中は日本軍から請け負って沖縄中の飛行場を建設し、戦後は米軍の下で基地関係施設を建設し、本土復帰後は公共工事を次々に引き受けてきた。一族から国会議員も輩出し続ける沖縄版「華麗なる一族」の家長である。
国場組の社史によれば、終戦の頃、境内には日本軍捕虜収容所と米軍の宿舎が設けられ、焼け残った社務所は米軍の隊長宿舎に用いられた。終戦後、近くの那覇港にアメリカから物資が陸揚げされ、境内の簡易宿舎は港湾労働者の住宅に転用される。昭和二一年十二月、アメリカ軍政府は国場を二〇〇〇人以上の労働者を束ねる「総支配人」に指名し、社務所の建物を「支配人宿舎」として割り当てたそうだ。国場は大富豪だったはずだが、最晩年まで社務所を増改築して住み続けた。
労働者住宅となったバラック住宅は復帰後まで長く残り、神社の敷地の範囲も分からない状態だった。
※第2回:沖縄の護国神社(2)はこちら
[注]
(1)鳥居に関する余談だが、沖縄には神社は少ないが鳥居は多い。来訪神を祀る御嶽という聖地は何も置かれないものだが、鳥居だけ建てられることがある。また、在沖アメリカ軍基地にも鳥居が多い。基地のゲートや看板によく描かれ、随所に小さな鳥居の模型が立つ。特にグリーンベレーが駐留する通信施設は「トリイステーション」と呼ばれ、入り口に大きな鳥居が横に二つ並んで奇妙である。なぜ軍事基地に鳥居なのか、米軍に問い合わせた神社関係者はまだないらしい。「では、問い合わせましょう」とうちの宮司を促すと、断固拒否された。
(2)日本兵が見えると言う米軍基地の住人、深夜になると無意識に南部へ「撤退」するようになった公務員、修学旅行でガマ(戦時中、壕の代わりに使われた洞窟)に入れられて以来「ついてきた」と怯えて歩けなくなった生徒、何かのはずみで動物のような振舞いをするようになった「狐憑き」の人などがいた。驚くべきことに、いずれもお祓いで快復したそうだ。二一世紀の日本でこんな話は信じがたく、子供の友人母(いわゆるママ友)で大病院の精神科医にそっと話してみると、「ああ、うちにもよく来ます。薬が効く人と効かない人がいて、効かない人は霊のせいかも」と事もなげに言われた。
[執筆者]
宮武実知子(主婦) Michiko Miyatake
1972年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(社会学専攻)単位取得退学。日本学術研究会特別研究員(国際日本文化研究センター所属)や非常勤講師などを経て、現在は沖縄県宜野湾市在住。訳書に、ジョージ・L・モッセ『英霊』(柏書房)などがある。現在、新潮社『webでも考える人』で「チャーリーさんのタコスの味―ある沖縄史」を連載中。
※当記事は「アステイオン84」からの転載記事です。
『アステイオン84』
特集「帝国の崩壊と呪縛」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
宮武実知子(主婦)※アステイオン84より転載