論壇誌「アステイオン」84号(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス、5月19日発行)から、宮武実知子氏による論考「沖縄の護国神社」を4回に分けて転載する。かつて「戦没者の慰霊」をテーマにした社会学者の卵だった宮武氏は、聞き取り調査で訪れた沖縄の護国神社の権禰宜(現宮司)と結婚。現在は沖縄県宜野湾市に暮らす。本論考はいわば「元ミイラ取りによる現地レポート」だと宮武氏は言うが、異なる宗教文化を持つ沖縄にある護国神社とは、一体いかなる存在なのか。その知られざる歴史を紐解く。
(写真:沖縄県護国神社。提供:筆者)
※第1回:沖縄の護国神社(1)はこちら
慰霊から始まる
沖縄戦の終結は一九四五年六月二三日とされるが、実際には司令官自決を知らない兵が多く、散発的なゲリラ戦が続いた。南西諸島の正式な終戦協定調印は、日本のそれより遅い九月七日である。生き残った軍人は捕虜収容所へ、沖縄住民も全員がいったん民間人収容所へ送られた。やがて住民は十月末頃から順次それぞれ元の居住地への移動が許された。
それはつまり、死者が何カ月も野ざらしになっていたことを意味する。特に南部は夥しい遺体や遺物で足の踏み場もないほどだった。とにもかくにも生活するため、畑や家の敷地内の遺体をそっと動かし、遺物を掻き分けて道を通した。畑仕事や通学など日常生活の傍らに人骨が転がっているのは普通の光景だった。誰も恐いとも気味悪いとも思わなかった、と聞く。
こうした遺骨を集めていち早く一九四六(昭和二一)年二月、糸満市米須に「魂魄之塔」が建立された。ごく小さな塔だが、約三万人分の遺骨が納められている。その年のうちに「沖縄師範健児之塔」や「ひめゆりの塔」といった学徒兵の慰霊塔や、各市町村の慰霊塔が次々と建てられた。
沖縄戦では県民の四人に一人と言われる十万人以上が命を落としたが、一方で一九四六(昭和二一)年から一九四九(昭和二四)年にかけて十四万人が、戦地や内地や旧植民地から沖縄へ帰還した。当時、中国共産党の勝利や朝鮮戦争が続き、沖縄はアメリカの極東政策の要衝となる。米軍基地周辺の建設ラッシュにより、沖縄本島の経済はにわかに活気づき、周辺離島から続々と人が渡ってきた。加治順正もこの流れに乗って那覇に来た。
【参考記事】原爆投下:トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味(前編)
この人の経歴が面白いので、ちょっと自慢したい。
義父・順正は沖縄本島から約四百キロ離れた八重山諸島の竹富島で一九二九(昭和四)年に生まれた。もともと神社とは何の関係もない。生母が早く亡くなり、継母が来て兄弟が多く、生活が苦しかったらしい。『竹富町史 第十二巻 資料編』(竹富町史編集委員会、一九九六年)を見ると、終戦時に十六人家族だったと記載される。
小学校を終えただけで軍に志願して熊本へ入営した。航空兵だったとも満州へ渡ったとも聞くが定かではない。終戦をシベリアの収容所で迎え、後に北朝鮮の収容所へ移送されたらしい。当時かかった凍傷で左手の一部が動かないままだったが、詳しいことは家族にも話さず「寒かった」とだけ言ったそうだ。終戦時十六歳と若かったため早い段階で帰れたが、竹富島も帰還者で溢れて居場所がなく、再び島を出て那覇へ向かった。着替え一組だけを持って漁船で密航し、沖縄本島近くから泳いで上陸したと聞く。
一度、試しに沖縄県公文書館で名前を検索してみたところ、米軍の雇用記録(レイバーカード) がヒットした。輸送船か何かに乗っていたらしいが、親しかった親戚や幼馴染みの誰に聞いても知らない話だった。
その記録の頃は二三歳で、まだ「加治工(かじく)」姓だった。復帰前は簡単な手続きで改姓できたため、沖縄風の姓を内地風に変えた例は珍しくない。一目で八重山と分かる「加治工」を内地風の「加治」に変えたのは、神社で働く決意の表れだったのか、あるいは軍国教育と従軍経験から「日本人」意識が強かったためか。いつも標準語で話し(3)、沖縄では珍しい一人称「僕」を使い、泡盛は口にせずウイスキーや日本酒を好んだそうだ。
沖縄本島に出てから長く仕事を転々とし、政治家に憧れて同郷出身の県会議員の事務所で下働きをした。酔うといつも「都の西北」を上機嫌で歌ったのは、早稲田出身のその政治家の影響だろうと想像する。学歴がないのを残念に思っていたらしいが、社史の文章はなかなかに立派だ。沖縄では手に入れにくい『中央公論』や『文藝春秋』などの論壇誌を毎月何冊も買っては、せっせと読むのを日課にした独学の人だった。
生活に困窮し、日雇い労働で摩文仁の遺骨収集や運搬の作業をしていたところ、「護国神社を再建するから事務員として働かないか」と声をかけられた。つまり、義父にとっても、始まりは遺骨収集だった。以後、二〇〇三年に亡くなるまで四十年以上にわたって神社運営の「縁の下の力持ち」を務めた。集合写真ではいつも奥の隅にそっと立っている。
「財団法人」護国神社
「人心が落ち着くに従って心のよりどころとなる護国神社の早期復興が望まれてきた」(『歩み』、二七-八頁)と沖縄県遺族連合会の元会長・座喜味(ざきみ)和則は一九五〇年代半ば頃を回想する。
戦争から十年を経て人々の生活が落ち着きつつあった。と同時に、本土復帰が見えなくなった時期でもある。一九五一年に対日講和が締結され、沖縄では「日本復帰促進期成会」が結成されて署名運動も起きた。二年後には奄美が本土復帰を果たしたが、沖縄本島では、アイゼンハワー大統領の「沖縄基地の無期限保持」声明(一九五四年)に後押しされ、米軍の基地建設が進んだ。
一九五七(昭和三二)年十月、「靖國神社の国家護持と護国神社復興の世論を盛りあげるため」の「靖國神社奉賛会沖縄地方本部」が結成された。これが沖縄県護国神社を再建して運営する組織の始まりとなる。初代会長は立法院(県議会に相当)議長・与儀達敏(たつびん)で、「琉球民主党」という後の沖縄自由民主党になる保守政党を立ち上げたことで知られる。翌一九五八(昭和三三)年四月に第二代会長になった立法院議長・安里積千代(あさとつみちよ)は、沖縄復帰運動に尽力することになる革新系政治家の大物で、同じ年に地域政党・沖縄社会大衆党の委員長になった。副会長には沖縄遺族連合会会長・山城篤男のほか、具志堅宗精(そうせい)もいる、オリオンビールを中心とする企業グループの会長でもある伝説的な実業家である。超党派の大物政治家と財界人と遺族とが手を結んだ団体だった。
それでも、簡単には進まない。神社の敷地の境界すら分からない状況からのスタートである。登記簿もなく那覇市役所に敷地譲渡を折衝して難航し、補助金交付を申請して「法的に困難」と却下された。初代事務局長・仲田彦栄の当時の日記には、淡々とした事実の記録に挟んで「今後の対策をどうすべきかについて頭が痛い」、「何故に此の仕事を引き受けたのかとも思う」などの言葉が綴られている。職員の給料を遺族連合会から借りたり、事務員に一時休職させたりする窮乏状態だった。
一九五九(昭和三四)年一月、なんとか奥武山の敷地を坪単価二セントで賃借する契約が成立し、四月には約七坪の小さい仮社殿が造営された。元職員の遺族が自宅に安置していた御霊代が移され、四月二六日、沖縄県出身戦没者九万三四四六柱を合祀して第一回春季例大祭が斎行された。
この仮社殿造営の苦労を、神社の代表役員を務めたことのある元立法院議長・長嶺秋夫は「異民族支配の下にありながら宗教関係本土法(ママ)の適用も得られないまま暗中模索を繰り返す中」で実現した、と感慨深げに回想する(『歩み』、二六頁)。
そう、沖縄の護国神社はアメリカ占領下にあって日本の宗教法人法の管轄外にあった。そのため「宗教法人」格が取得できず、「財団法人」として運営してきたのである。だが、おかげで他の護国神社とは異なる方針を採る自由があった。
同じ頃、遺族会や事務局は神社の仮社殿造営と事業計画を各方面に知らせつつ、本格的な寄付金を集める活動に乗り出した。今にして思うと大胆な企画だが、安里積千代は四六都道府県の知事にあて次のように「霊璽簿(れいじぼ)」送付を依頼している(太字強調は筆者)。
御承知のとおり沖縄は今次大戦中最大の激戦地で彼我二十数萬の戦死者、戦争犠牲者のあった現地沖縄島でありますので、此の地の護国神社は従来の神霊とは稍々趣を異にし今次大戦において犠牲となった本県出身者の御霊を加へるのみでなく沖縄島及びその近海空域において戦没された本土同胞の御霊も合祀する趣旨で来る十一月中旬ごろわざわざ靖國神社より池田権宮司以下御来島、当地護国神社で合祀祭を挙行する計画になってゐますので、勝手ながら実に恐縮に存じますが祭祀に間に合うように貴(府)県出身該当者名簿(止むを得ないときは何某外何柱の霊璽)御送付方お取り計らい下さいますよう御願い申し上げます。
護国神社とは通常、その県(元は藩)出身の戦没者を祀る。例えば広島では原爆の犠牲になった勤労奉仕中の動員学徒や女子挺身隊も祀ったり、終戦後に社名を変更していた際に配祀された伊邪那岐・伊邪那美や天照を祀ったりと、神社ごとに独自の方針や歴史はあるものの、他府県出身の者も合祀する護国神社はほかにない。
送付した日付は合祀祭まで二カ月を切った九月十八日だったが、無事に協力が寄せられ、十一月十五日の第一回秋季例大祭では本土出身六万五七一七柱を新たに合祀した。祭神は合わせて一七万九二二八柱となった。祭主は靖國神社権宮司・池田良八で、靖國神社から神職五人も来て祭員を務め、多数の遺族が参列して感涙した、と社史や遺族会は伝える。
この一九五九年の暮れ、ひとまずの目的を達した「靖國神社奉賛会沖縄地方本部」は、霊域の管理と遺族の慰藉を目的に「沖縄戦没者慰霊奉賛会」へと改組された。顔ぶれはほぼ同じままで発足し、翌年末、会長が行政主席の大田政作に交代した。ここへ事務局員として新たに採用されたのが加治順正である。
※第3回:沖縄の護国神社(3)はこちら
[注]
(3)昨今やたら推奨される「しまくとぅば」(島言葉)と違い、実際の沖縄方言は地域ごとに異なり、ほんの二十キロ離れただけで通じないこともある。加治家の場合、義父は八重山、義母はやんばる、沖縄の南北両端から那覇に来たため、互いの方言では会話ができない。家庭内では標準日本語が使われ、那覇生まれの子供たち世代は方言が話せない。
[執筆者]
宮武実知子(主婦) Michiko Miyatake
1972年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(社会学専攻)単位取得退学。日本学術研究会特別研究員(国際日本文化研究センター所属)や非常勤講師などを経て、現在は沖縄県宜野湾市在住。訳書に、ジョージ・L・モッセ『英霊』(柏書房)などがある。現在、新潮社『webでも考える人』で「チャーリーさんのタコスの味―ある沖縄史」を連載中。
※当記事は「アステイオン84」からの転載記事です。
『アステイオン84』
特集「帝国の崩壊と呪縛」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
宮武実知子(主婦)※アステイオン84より転載
(写真:沖縄県護国神社。提供:筆者)
※第1回:沖縄の護国神社(1)はこちら
慰霊から始まる
沖縄戦の終結は一九四五年六月二三日とされるが、実際には司令官自決を知らない兵が多く、散発的なゲリラ戦が続いた。南西諸島の正式な終戦協定調印は、日本のそれより遅い九月七日である。生き残った軍人は捕虜収容所へ、沖縄住民も全員がいったん民間人収容所へ送られた。やがて住民は十月末頃から順次それぞれ元の居住地への移動が許された。
それはつまり、死者が何カ月も野ざらしになっていたことを意味する。特に南部は夥しい遺体や遺物で足の踏み場もないほどだった。とにもかくにも生活するため、畑や家の敷地内の遺体をそっと動かし、遺物を掻き分けて道を通した。畑仕事や通学など日常生活の傍らに人骨が転がっているのは普通の光景だった。誰も恐いとも気味悪いとも思わなかった、と聞く。
こうした遺骨を集めていち早く一九四六(昭和二一)年二月、糸満市米須に「魂魄之塔」が建立された。ごく小さな塔だが、約三万人分の遺骨が納められている。その年のうちに「沖縄師範健児之塔」や「ひめゆりの塔」といった学徒兵の慰霊塔や、各市町村の慰霊塔が次々と建てられた。
沖縄戦では県民の四人に一人と言われる十万人以上が命を落としたが、一方で一九四六(昭和二一)年から一九四九(昭和二四)年にかけて十四万人が、戦地や内地や旧植民地から沖縄へ帰還した。当時、中国共産党の勝利や朝鮮戦争が続き、沖縄はアメリカの極東政策の要衝となる。米軍基地周辺の建設ラッシュにより、沖縄本島の経済はにわかに活気づき、周辺離島から続々と人が渡ってきた。加治順正もこの流れに乗って那覇に来た。
【参考記事】原爆投下:トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味(前編)
この人の経歴が面白いので、ちょっと自慢したい。
義父・順正は沖縄本島から約四百キロ離れた八重山諸島の竹富島で一九二九(昭和四)年に生まれた。もともと神社とは何の関係もない。生母が早く亡くなり、継母が来て兄弟が多く、生活が苦しかったらしい。『竹富町史 第十二巻 資料編』(竹富町史編集委員会、一九九六年)を見ると、終戦時に十六人家族だったと記載される。
小学校を終えただけで軍に志願して熊本へ入営した。航空兵だったとも満州へ渡ったとも聞くが定かではない。終戦をシベリアの収容所で迎え、後に北朝鮮の収容所へ移送されたらしい。当時かかった凍傷で左手の一部が動かないままだったが、詳しいことは家族にも話さず「寒かった」とだけ言ったそうだ。終戦時十六歳と若かったため早い段階で帰れたが、竹富島も帰還者で溢れて居場所がなく、再び島を出て那覇へ向かった。着替え一組だけを持って漁船で密航し、沖縄本島近くから泳いで上陸したと聞く。
一度、試しに沖縄県公文書館で名前を検索してみたところ、米軍の雇用記録(レイバーカード) がヒットした。輸送船か何かに乗っていたらしいが、親しかった親戚や幼馴染みの誰に聞いても知らない話だった。
その記録の頃は二三歳で、まだ「加治工(かじく)」姓だった。復帰前は簡単な手続きで改姓できたため、沖縄風の姓を内地風に変えた例は珍しくない。一目で八重山と分かる「加治工」を内地風の「加治」に変えたのは、神社で働く決意の表れだったのか、あるいは軍国教育と従軍経験から「日本人」意識が強かったためか。いつも標準語で話し(3)、沖縄では珍しい一人称「僕」を使い、泡盛は口にせずウイスキーや日本酒を好んだそうだ。
沖縄本島に出てから長く仕事を転々とし、政治家に憧れて同郷出身の県会議員の事務所で下働きをした。酔うといつも「都の西北」を上機嫌で歌ったのは、早稲田出身のその政治家の影響だろうと想像する。学歴がないのを残念に思っていたらしいが、社史の文章はなかなかに立派だ。沖縄では手に入れにくい『中央公論』や『文藝春秋』などの論壇誌を毎月何冊も買っては、せっせと読むのを日課にした独学の人だった。
生活に困窮し、日雇い労働で摩文仁の遺骨収集や運搬の作業をしていたところ、「護国神社を再建するから事務員として働かないか」と声をかけられた。つまり、義父にとっても、始まりは遺骨収集だった。以後、二〇〇三年に亡くなるまで四十年以上にわたって神社運営の「縁の下の力持ち」を務めた。集合写真ではいつも奥の隅にそっと立っている。
「財団法人」護国神社
「人心が落ち着くに従って心のよりどころとなる護国神社の早期復興が望まれてきた」(『歩み』、二七-八頁)と沖縄県遺族連合会の元会長・座喜味(ざきみ)和則は一九五〇年代半ば頃を回想する。
戦争から十年を経て人々の生活が落ち着きつつあった。と同時に、本土復帰が見えなくなった時期でもある。一九五一年に対日講和が締結され、沖縄では「日本復帰促進期成会」が結成されて署名運動も起きた。二年後には奄美が本土復帰を果たしたが、沖縄本島では、アイゼンハワー大統領の「沖縄基地の無期限保持」声明(一九五四年)に後押しされ、米軍の基地建設が進んだ。
一九五七(昭和三二)年十月、「靖國神社の国家護持と護国神社復興の世論を盛りあげるため」の「靖國神社奉賛会沖縄地方本部」が結成された。これが沖縄県護国神社を再建して運営する組織の始まりとなる。初代会長は立法院(県議会に相当)議長・与儀達敏(たつびん)で、「琉球民主党」という後の沖縄自由民主党になる保守政党を立ち上げたことで知られる。翌一九五八(昭和三三)年四月に第二代会長になった立法院議長・安里積千代(あさとつみちよ)は、沖縄復帰運動に尽力することになる革新系政治家の大物で、同じ年に地域政党・沖縄社会大衆党の委員長になった。副会長には沖縄遺族連合会会長・山城篤男のほか、具志堅宗精(そうせい)もいる、オリオンビールを中心とする企業グループの会長でもある伝説的な実業家である。超党派の大物政治家と財界人と遺族とが手を結んだ団体だった。
それでも、簡単には進まない。神社の敷地の境界すら分からない状況からのスタートである。登記簿もなく那覇市役所に敷地譲渡を折衝して難航し、補助金交付を申請して「法的に困難」と却下された。初代事務局長・仲田彦栄の当時の日記には、淡々とした事実の記録に挟んで「今後の対策をどうすべきかについて頭が痛い」、「何故に此の仕事を引き受けたのかとも思う」などの言葉が綴られている。職員の給料を遺族連合会から借りたり、事務員に一時休職させたりする窮乏状態だった。
一九五九(昭和三四)年一月、なんとか奥武山の敷地を坪単価二セントで賃借する契約が成立し、四月には約七坪の小さい仮社殿が造営された。元職員の遺族が自宅に安置していた御霊代が移され、四月二六日、沖縄県出身戦没者九万三四四六柱を合祀して第一回春季例大祭が斎行された。
この仮社殿造営の苦労を、神社の代表役員を務めたことのある元立法院議長・長嶺秋夫は「異民族支配の下にありながら宗教関係本土法(ママ)の適用も得られないまま暗中模索を繰り返す中」で実現した、と感慨深げに回想する(『歩み』、二六頁)。
そう、沖縄の護国神社はアメリカ占領下にあって日本の宗教法人法の管轄外にあった。そのため「宗教法人」格が取得できず、「財団法人」として運営してきたのである。だが、おかげで他の護国神社とは異なる方針を採る自由があった。
同じ頃、遺族会や事務局は神社の仮社殿造営と事業計画を各方面に知らせつつ、本格的な寄付金を集める活動に乗り出した。今にして思うと大胆な企画だが、安里積千代は四六都道府県の知事にあて次のように「霊璽簿(れいじぼ)」送付を依頼している(太字強調は筆者)。
御承知のとおり沖縄は今次大戦中最大の激戦地で彼我二十数萬の戦死者、戦争犠牲者のあった現地沖縄島でありますので、此の地の護国神社は従来の神霊とは稍々趣を異にし今次大戦において犠牲となった本県出身者の御霊を加へるのみでなく沖縄島及びその近海空域において戦没された本土同胞の御霊も合祀する趣旨で来る十一月中旬ごろわざわざ靖國神社より池田権宮司以下御来島、当地護国神社で合祀祭を挙行する計画になってゐますので、勝手ながら実に恐縮に存じますが祭祀に間に合うように貴(府)県出身該当者名簿(止むを得ないときは何某外何柱の霊璽)御送付方お取り計らい下さいますよう御願い申し上げます。
護国神社とは通常、その県(元は藩)出身の戦没者を祀る。例えば広島では原爆の犠牲になった勤労奉仕中の動員学徒や女子挺身隊も祀ったり、終戦後に社名を変更していた際に配祀された伊邪那岐・伊邪那美や天照を祀ったりと、神社ごとに独自の方針や歴史はあるものの、他府県出身の者も合祀する護国神社はほかにない。
送付した日付は合祀祭まで二カ月を切った九月十八日だったが、無事に協力が寄せられ、十一月十五日の第一回秋季例大祭では本土出身六万五七一七柱を新たに合祀した。祭神は合わせて一七万九二二八柱となった。祭主は靖國神社権宮司・池田良八で、靖國神社から神職五人も来て祭員を務め、多数の遺族が参列して感涙した、と社史や遺族会は伝える。
この一九五九年の暮れ、ひとまずの目的を達した「靖國神社奉賛会沖縄地方本部」は、霊域の管理と遺族の慰藉を目的に「沖縄戦没者慰霊奉賛会」へと改組された。顔ぶれはほぼ同じままで発足し、翌年末、会長が行政主席の大田政作に交代した。ここへ事務局員として新たに採用されたのが加治順正である。
※第3回:沖縄の護国神社(3)はこちら
[注]
(3)昨今やたら推奨される「しまくとぅば」(島言葉)と違い、実際の沖縄方言は地域ごとに異なり、ほんの二十キロ離れただけで通じないこともある。加治家の場合、義父は八重山、義母はやんばる、沖縄の南北両端から那覇に来たため、互いの方言では会話ができない。家庭内では標準日本語が使われ、那覇生まれの子供たち世代は方言が話せない。
[執筆者]
宮武実知子(主婦) Michiko Miyatake
1972年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(社会学専攻)単位取得退学。日本学術研究会特別研究員(国際日本文化研究センター所属)や非常勤講師などを経て、現在は沖縄県宜野湾市在住。訳書に、ジョージ・L・モッセ『英霊』(柏書房)などがある。現在、新潮社『webでも考える人』で「チャーリーさんのタコスの味―ある沖縄史」を連載中。
※当記事は「アステイオン84」からの転載記事です。
『アステイオン84』
特集「帝国の崩壊と呪縛」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
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宮武実知子(主婦)※アステイオン84より転載