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沖縄の護国神社(3)

ニューズウィーク日本版 2016年8月15日 6時47分

論壇誌「アステイオン」84号(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス、5月19日発行)から、宮武実知子氏による論考「沖縄の護国神社」を4回に分けて転載する。かつて「戦没者の慰霊」をテーマにした社会学者の卵だった宮武氏は、聞き取り調査で訪れた沖縄の護国神社の権禰宜(現宮司)と結婚。現在は沖縄県宜野湾市に暮らす。本論考はいわば「元ミイラ取りによる現地レポート」だと宮武氏は言うが、異なる宗教文化を持つ沖縄にある護国神社とは、一体いかなる存在なのか。その知られざる歴史を紐解く。

(写真:1966年の慰霊祭。テントの下に入りきらない遺族が地面に座る。提供:沖縄県公文書館)

※第1回:沖縄の護国神社(1)はこちら
※第2回:沖縄の護国神社(2)はこちら

「全琉皆様方のご協力」

 一九六〇年代、沖縄では慰霊事業が盛んになった。

 法定休日「慰霊の日」が初めて実施されたのは一九六二(昭和三七)年六月。この年、日本政府の沖縄調査団が二度も来沖した。摩文仁などの戦跡に次々と各都道府県の塔や慰霊碑が建ち始めた時期でもある。また、沖縄戦で親や兄姉を失った世代が遺族会青年部を担い、「慰霊の日」に「平和大行進」を主催した。第一回の行進では、那覇の遺族会館を出た三〇〇人が炎天下、護国神社を経由して摩文仁までの二四キロを歩いたという。

 そんな追い風も受けて、神社の敷地復元は那覇市議会で絶対多数の賛成を得て採択された。春秋の例大祭は立錐の余地もないほどの参拝者で埋まり、例大祭の大祭委員長は行政主席、玉串奉奠(ほうてん)は遺族連合会会長のほか、立法院議長が行った。一九六三(昭和三八)年と翌年の例大祭には、米国首席民政官まで参列して玉串奉奠した。

 仮社殿ながら神社の体裁は整い、次に目指すは本格的な社殿の建立である。他県のように宗教法人法に守られない沖縄の護国神社にとって、財源は広く求めねばならない。そこには最初から「みんなの神社」という象徴的な意味も込められていたようだ。

 一九六三年、神社復興のための募金活動が警察局長から許可されるや、今では考えられないような多方面からの募金が集まった。

 例えば、自治体である。沖縄市町村会総会での申し合わせにより、一世帯五セントを市町村ごとに分担協力することになった。自治体への割当のうち最高額は那覇市で、最終的には二二〇〇ドルが寄せられた。

 その奮闘ぶりが、当時の民生課長だった玉城正次という人物の回想記から見て取れる。以前から個人的に親しかった加治順正から「一九〇〇ドルの分担金をよろしく頼む」と言われ二つ返事で引き受けたが、上からは「自治法違反となるから市は金を出せない、琉球政府も同じ見解だ」と処理済みの書類を見せられた。板挟みになった玉城はやがて「護国の英霊を祀ることは国民の義務であり、宗教宗派を超越した国民の至誠の発露だ」と信念を固め、琉球政府の地方課長に面談する。その禅問答のような攻防がおかしい。

「護国神社は宗教団体ですか」「まぁ、そういうことでしょうな」「摩文仁の慰霊塔はどうなんですか」「......」「各県こぞって建立している。宗教団体ではないと思いますが」「その点では同感です」「では、同じく英霊を合祀する護国神社も同様ではありませんか」「いや、それとこれとでは...」「私たちは、そうだと思います」「解釈はご自由でしょう」「なぜ政府は、那覇市が護国神社の分担金を出すのを差し止めたのですか」「そんなことはない」「自治法違反だと決めつけたのは、あなた方だと聞いているが...」「自治法違反だと思うがどうか、と市から問い合わせがあったので、そうだと言ったまでです」「それでは、違反しないと思うがどうか、とあらためて文書を出したら、そうだという御返事がいただけますか」

 この粘り腰が部長を動かし助役を動かし、とうとう予算案となって市議会に提出。議会では法的解釈で散々に批判されたが、最終的には当初の申請額を上回る額が寄せられた。



 教育界からも献金を受けた。同じ一九六三年、沖縄中の小中学校の児童から一セントずつの募金を学校で(!)徴収する「一仙(せんと)募金」が行われた。これは今となってはにわかに信じがたい話である。神社復興事業を法的に進めやすくするため作った組織「沖縄県護国神社復興期成会」の評議員・屋良朝苗(やらちょうびょう)と理事・喜屋武真栄が、それぞれ沖縄教職員会(後の沖縄県教職員組合)会長と事務局長を務めていたために実現したことだ。屋良朝苗は今も沖縄史では革新系政治家のスター的存在として名を刻む。後に沖縄教職員会は「祖国復帰運動」の中心となり、戦後初の主席公選で屋良を当選させた。

 一仙募金には沖縄のほぼすべての学校から協力が得られ、教職員有志が募金を寄せた学校もあった。金額としては一ドルに満たない学校から、最高でも三〇ドル程度と少額だが、沖縄の次世代から広く集めること自体に意味があったのだろう。募金を寄せた学校の名が、今も境内の銘板に残る。参拝して目を留め、「そういえば子供の頃、神社にあげようって学校にお金を持っていったよ」と懐かしがる人が時々いる。今、独特の「平和教育」を強力に推進している沖教祖や公立学校からは考えられないような歴史の一ページである。

 産業界からの最大の功労者は、復興期成会の会長である具志堅宗精の企業グループ琉鵬会で、社殿建立費三万三〇〇〇ドル、具志堅個人からも一〇〇〇ドル以上の献金があった。境内に住み続けた国場幸太郎からも個人名義で五十万円、関連会社から二万ドル。地元の金融機関からなる琉球金融協会から六〇〇〇ドル、建設会社や金融機関から数百ドルずつをはじめ、多くの会社や個人商店からも広く寄付が集まった。

 本土の関係団体からも支援された。全国知事会から一万五二九〇ドル、神社本庁から二〇〇〇ドル。全国護国神社会や靖國神社、本土企業の沖縄出張所や各県遺族会のほか個人からも浄財が寄せられた。やたらシーサーに似た狛犬も三重の人からの寄付である。

 おかげで、その年のうちに再建工事が始まった。一九六五(昭和四〇)年八月に社殿が完成した直後には総理大臣・佐藤栄作一行が正式参拝し、新社殿で十一月一九日に行われた遷座祭にあたっては天皇から幣帛料も奉納された。一万名もの参列者で埋め尽くされ、玉串奉奠した沖縄中の各界代表者のなかには琉米親善委員長である米軍大佐までがいた。

 無事に拝殿が再建され、一九六七(昭和四二)年、「復興期成会」は神社を護持する「沖縄県護国神社奉賛会」へと改組されたが、設立趣意書にある「全琉皆様方のご協力により」という表現は決して大げさなものではない。

「英霊を中心とする本土との一体化」

 それにしても、アメリカ占領下の沖縄で、よりによって戦没者を祀った護国神社の復興が、なぜこんなにも一致団結した運動になれたのか。その理由は「本土復帰への想い」にあったのではないかと筆者は考える。念願の本殿が完成してまもない一九六五(昭和四〇)年頃に書かれたらしい具志堅宗精の文章と、それを義父・加治順正が「胸を打つ文章」と評したのを読んで確信を深めた。



 具志堅は「戦没者の慰霊顕彰について」という文章で、自分が終戦直前に拳銃自殺を図って失敗して生きながらえたことに触れ、「常に英霊に対し報恩感謝の念を忘れず余命は広く社会の為に奉仕し度い」と述べ、本土出身の戦没者を合祀したことをこう表現する。

 そして郷土出身全戦没英霊を合祀するばかりでなく今次沖縄戦に於いて散華された本土各都道府県出身戦没者六万五千柱を合祀して神職を靖國神社から招聘し英霊を中心とする本土との一体化の実を挙げて英霊も満悦のことと感応するのである。本土復帰の実現も近々に迫りつつあるやに感じ英霊の御加護新たなるを想う。(『歩み』、二一一頁)

 また、「戦跡『霊域』の清掃管理について」という文章では、沖縄各地に建立された慰霊塔の清掃管理を、政府の補助を得て沖縄戦没者慰霊奉賛会が請け負っていることについて、「此の戦跡を見てもわかるように英霊を中心とする本土との一体化はすでに実現されていることを強く感ずるものである。」(『歩み』、二一一頁)と同じ言葉遣いで記す。

 戦没者の捉え方も興味深い。全国各地から来た将兵が沖縄で戦没したことによって、沖縄と本土との紐帯が強まったと考えているようだ。

 沖縄は今次大戦により英霊を通して広く本土各都道府県に紹介され認識を深められた。それは北は北海道から南は鹿児島まで沖縄戦に参加しなかった県はなく戦没者を出さなかった府県もないからである。 今日、各都道府県は慰霊塔を建立しその除幕式、慰霊祭に臨み知事は祭文に或いは挨拶の中に此の塔が沖縄と何々県との間に英霊を通じて親善の懸け橋になることを必ず祈願されているので、日本復帰、日琉一体化は英霊が尊い身命を犠牲にして戦ったその精神に反しないことで英霊も悦んでくれることと信ずるものである。(『歩み』、二一二頁)

 この文章は草稿段階のもので、具志堅個人の感慨にすぎない。しかし、スピーチのために用意した草稿らしいということは、聞き手の同意や共感が得られる見込みがあったことを意味するだろう。

「英霊を中心とする本土との一体化」「英霊を通じて親善の懸け橋になる」といった表現が繰り返される。政界・財界・教育界までが大同団結できた原動力は、もちろん第一には慰霊への切実な想いであったろう。復興を担った人々の背景はさまざまで、沖縄戦の遺族もいれば、具志堅や加治順正のように生還した軍人もあり、内地で疎開生活を送ったり外地から引き揚げたりした帰還者もいたが、それぞれに悲しみと疚しさと使命感があった。

 さらに加えて、当時の沖縄は占領下にあって日本という「祖国」への強い想いが共通していた。神社の復興は本土復帰や日琉一体といった当時の沖縄の悲願を一足早く実現するかのように思われ、祖国復帰運動の前哨戦としての役割を果たした。正直に言うと、立場を越えて同じ夢を見られた時代が現在からは眩しくも映る。

※第4回:沖縄の護国神社(4)はこちら

[執筆者]
宮武実知子(主婦) Michiko Miyatake
1972年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(社会学専攻)単位取得退学。日本学術研究会特別研究員(国際日本文化研究センター所属)や非常勤講師などを経て、現在は沖縄県宜野湾市在住。訳書に、ジョージ・L・モッセ『英霊』(柏書房)などがある。現在、新潮社『webでも考える人』で「チャーリーさんのタコスの味―ある沖縄史」を連載中。

※当記事は「アステイオン84」からの転載記事です。






『アステイオン84』
 特集「帝国の崩壊と呪縛」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス



宮武実知子(主婦)※アステイオン84より転載

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