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いとうせいこう、ギリシャの「国境なき医師団」を訪ねる.1

ニューズウィーク日本版 2016年8月29日 17時5分

<「国境なき医師団」(MSF)を取材することになった いとうせいこうさんは、まずハイチを訪れ、そこで、その現場は、いかに修羅場かということ、そして、様々なスタッフによって成り立っていることを知る。そして、今度はギリシャの難民キャンプを訪ねた...>

これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」
前回の記事:「アイラブユー、神様──『国境なき医師団』を見に行く(ハイチ編11最終回)」

渡航先がギリシャになる

 『国境なき医師団を見に行く』第二回取材は、ほぼミャンマーだろうと言われていた。ところが取材のためにとっておいたスケジュールの一ヶ月前くらいになって、NGOの入国が厳しくなっていると伝えられた。入れたとしても俺一人だという。右も左もわからない俺がたった一人でミャンマーの活動地に入ったところでなんの意味もない。

 他に候補地がないか、MSFジャパンの広報である谷口さんは必死だったと思う。

 それで出発の二週間前だったか、ギリシャのMSFが受け入れてくれることになった。幸い日本人スタッフにも話が聞けるのではないかという続報も来た。とりあえず行ける場所が出来たことに俺は安堵した。

 だが、一体なぜギリシャなのか?

 谷口さんからのメールにはこうあった。
「近年、中東、アフリカの情勢不安を逃れて、多くの方が海を渡り、欧州を目指しています。弊団でも、地中海、ギリシャ、イタリア、フランスほか で、このような難民の方々を保護、医療を提供しています」

 出た、弊団。俺はこの名前が大好きだ。

ギリシャのピンチ

 ギリシャが経済破綻をし、イギリスより前にEUからの緊縮財政の提案に関して国民投票をした国であることは俺も知っていた。そしてギリシャ国民は2015年のその投票においてEUにノーを言い、離脱やむなしという態度をとった。

 結果、チプラス首相が譲歩をし、EUは支援に回った。

 そのギリシャに特に昨年から、すさまじい数の難民が押し寄せていた。

 次から次へとピンチが襲っているわけだ。

 例えば、シリア難民だった。混迷を深めるシリアからは次々に脱出する人がおり、彼らはヨーロッパで新しい生活をしたいと考えている。移民に対して特に対策が厚いのがドイツで、出来ればそこで定住したいと彼らは願う。したがって、シリア難民となった人々は真上のトルコを通り、対岸のギリシャに小舟で向かう。あるいは陸路で歩き抜け、イスタンブールを渡り、ギリシャの上のマケドニア、セルビアなどを移動する。

 前者の、海路を目指す人たちの多くが海難事故に遭って乳幼児が沿岸に打ち上げられるのを、報道で見た人も少なくないはずだ。

【参考記事】地中海で溺れた赤ちゃん、難民の悲劇は止まらず

EUートルコ協定

 しかしながら、それが実情どんなことになっているのか、あるいはまさに今年の春に締結された「EUートルコ協定」によって、ギリシャへの不法移民がトルコに再送還されるという約束がどう実現されているのか、俺はくわしく知らなかった(この「EUートルコ協定」については、こちらのニューズウィークの記事をお読みいただきたいのだが、ともかく重要なのは今年2016年3月に"密航業者のあっせんなどでギリシャに渡った難民・移民の人々をトルコへ送還するかわり、トルコ国内の難民キャンプで暮らす人たちを正規ルートにのっとって「第3国定住」の枠組み内で受け入れる "という約束が出来てしまったことだ)。

 これでギリシャに渡った人々の夢は断たれた。が、しかしトルコに送られたところでどうにもならない彼らは動きたくない。MSFとしても難民が生まれているからには、彼らの生活を支えようとする。

 そんな中、多くの難民がギリシャ国内にとどまって、よりよい決定が世界政治上でなされるのを待つことになった。

 それどころか、今日もまた他国からギリシャへと人は渡っているのである。

 ということで、またも付け焼き刃の勉強を行った状態でギリシャに四泊(プラス機内泊二日)してきた俺は、実はすでに帰りの機内にいる。

 カタール航空でギリシャの首都アテネを深夜に出た俺は、5時間ほどでドーハに着き、その最新鋭のハブ空港から東京羽田へ10時間のフライトをしているところだ。周囲の日本人はヨーロッパのあちこちからドーハでトランジットしているらしく、思い出を語りあうのも億劫な感じでぐったりしている。

 飛行機はアラビア半島の右端から、やがてイラン、パキスタンの上あたりを飛ぶだろう。

 その間、俺はギリシャで何を見たのか、スマホで撮った写真と細かくつけたメモ帳を照らし合わせて思い出していく。なにはともあれ、俺は憧れのギリシャ旅行がまさか『国境なき医師団』の活動地訪問になるとは思いもよらないまま、アテネで地下鉄に乗りまくり、リゾートで有名な島に渡って大きな難民キャンプの厳しい状況を知ることになるのだ。



出発7月14日

 始まりは7月14日の木曜日だった。

 俺は昼間からあれこれ仕事をし、くたくたで夜の羽田空港へ行った。フライトは深夜。ドーハ経由でアテネに行くことになっていた。

 きちんとしたギリシャの位置を世界地図上で見たのは、そのドーハから乗った機内でだった。最終目的地であるギリシャは右にエーゲ海、その他は地中海に囲まれているのだけれど、同じ地中海は右側のトルコ沿岸をも浸し、そのトルコの南にすぐシリアがあるのだった。

 俺は飛行機の中でビデオを見る習慣がない。それでだいたいあのカーソルみないた飛行機が地図の上を移動していく画像をじっと見る。自分でもかなり自閉的な傾向があるのではないかと思うが、機体速度や目的地の時間を繰り返し見ているのが好きなのだ。ちなみに、台風の沖縄で数時間、天気チャンネルで台風の動きを見ていたこともある。あの時はなぜか池澤夏樹さんも一緒だった。

 それはともかく、ギリシャが東方的な文明を持つことの皮膚感覚的な意味を、俺はいい年をしてようやく、それも座席前部に付いたモニターに映る世界地図での、アテネとアレッポのあまりの近さによって知ったのである。

 付け加えて言えば、決して素直にドーハからアテネに着いたわけでもなかった。トランジットのほんの一時間の間に、俺たちはようやくつながったネットによって、その日がフランス革命記念日であったこと、その式典の中にトラックが突っ込んだことを知った。空港のテレビモニターにはアルジャジーラ放送が静かに映っていて、惨劇の情報がもたらされていた。それを無言で見るのはアフリカ、中東、ヨーロッパ、アジア各国の人間たちだった。みな複雑で絶望的な視線を事件に向けていた。

 そんな状況で俺たちはアテネに向かった。アラビア半島を西北へ斜めに突っ切り、アレクサンドリアの上を通り、パラドックスの比喩で有名なクレタ島を過ぎれば、垂れた葡萄のような形の先端がアテネだった。

 つまり民主制発祥の地だ。

MSFギリシャへ

 空港に着いてEU市民でない者の列に並び、国内に入るとすぐに地下鉄を探した。ほとんど地方空港と鉄道という感じの近さにそれはあった。目指すのは谷口さんが持っているコピー用紙によれば「メガロ・ムシキス駅」らしかった。地下鉄とは言え、しばらく車体は外を走った。

 車窓の向こうにはオリーブらしき樹木と、糸杉らしい木、さらに知らない葉が茂っていて、いかにも地中海性気候というやつだった。日差しが明るく、空が青く、その空を鳩とツバメの中間みたいな鳥が何羽も飛んでいた。

駅名を知りたくても読むことが出来ない。

 これはのちのちも続くことだが、ある駅からアコーディオン弾きが乗ってきて、いかにも中東的な要素の濃い哀切なメロディを鳴らして回った。アコーディオンの横にはガムテープでプラコップが貼ってあったが、小銭を入れる人は誰もいなかった。

 もしそれが観光だったら、俺はあの時その流しに小銭を与えたかもしれない。いかにも異国らしい情緒にひたるために。

 だが、俺はギリシャの経済的疲弊を知っていた。むしろアコーディオン弾きの暮らしがせっぱ詰まっているのだと思うと、反対に俺の手は動かなくなった。まったくおかしな話だ。あの時、俺は積極的に小銭を出すべきだったのではないか。

 なんとか「メガロ・ムシキス駅」についたのはいいが、そこから歩いていくべきMSFギリシャへの道を迷いまくった。途中すぐに俺は用意していたキャップをかぶったのだが、すでに脳天は暑かった。熱中症になるおそれがあるほどの陽気の中、俺たちは荷物を引きずりながら同じがたがたの道を左に行き、右に行き、四十分を費やした。



 ただし、おかげで俺はあの鳩と燕のハーフみたいなやつが、ギリシャの小型の鳩だということを知った。道路のあちらこちらに色んな柄のそれが歩き回り、飛び回っているのだ。

 ノアの箱船へとオリーブをくわえて帰ってきた鳩、平和のシンボルとなるあの鳥は、ギリシャのそこら中におり、水をのみ、木の実をつついて暮らしているのだった。

駅の壁にも鳩が飛んでいた。

 俺はもうろうとしかけた目で、そうした鳩の白い羽根、灰色の羽根、斑点などを見ながら歩き続け暑さに耐えた。例の同じ画面を眺めていれば暇に耐えられる心理傾向が、俺を安定させたのである。

 それはともかく、ようやく目当ての小さな通りを見つけ、なおもがたがたと荷物を引いて行って慎ましい古いビルにたどり着いた。そこがMSFギリシャのオフィスだった。短い階段を上って透明なドアを開けると中から冷気が来た。思わず深く吸い込んだ。

見逃しそうな小さなMSFの看板。

 受付の女性が言った。

 「暑かったでしょう!」

 「はい。これが最高気温でしょう?」

 「いいえ、まだまだ」

 ギリシャの夏はなかなか厳しいらしい。

 そこへ、待っていてくれたディミトリス・ロウビスさんが降りてきた。細い格子のシャツ、細いオレンジのパンツでスタイリッシュな男性だ。

 挨拶もそこそこ、ディミトリスさんによる情報では、数週間ほどの間、ギリシャ各地での難民キャンプでは10の疾患を対象としたワクチン接種キャンペーンが行われているとのことで、あれこれと出払っている人が多いらしかった。ある者は市内で、ある者はサモス島で、またある者はレスボス島で子供たちに予防接種をしているのだ。俺たちの渡航前からMSFジャパンとの取材調整をしてくれていたアスパシア・カカリという女性が不在なのも、サモス島に入っているからだということだった。

 確か三階まであがると、周囲に小さなオフィスがあり、中で女性たちが一人ずつ働いていた。中央のこれまた小さなソファに座って待っていると、ディミトリスさんがプラコップになみなみと冷たい水を入れて持ってきてくれた。おまけにギリシャ特有のフレッド・カプチーノはどうですか?と言ってくれて、俺たちはすぐに甘えた。

 おそらく狭い道路を挟んで向こう側のカフェから、誰かが急いでテイクアウトを持ってきてくれた。透明のカップに氷とエスプレッソとたっぷりのクリームが入っていて、ドーム状の透明なキャップをかぶせられ、その真ん中にストローが刺さっていた。吸うとこれが苦味と甘味の利いた、実においしいおもてなしなのであった。俺は飲んだ。ごくごく飲んだ。

 夜叉のように飲んでいると、目の前に黒ずくめの美しい人が現れた。

 それがMSFギリシャの事務局長マリエッタ・プロヴォポロウさんだった。ありふれた言い方だが、まさにギリシャ彫刻みたいな均整で、黒い髪、黒い瞳、白い歯をした堂々たる女性である。一方、俺はアイスカプチーノにかじりついたネズミのような東洋人であった。

 「ようこそ、ギリシャへ。ごめんなさい、少し作業があるので少しお待ち下さい」 

 マリエッタさんはスウェット地の黒い上下の服をまとって、ひとつの部屋に消えた。彼女の用事が済むまで、やせネズミはカップの底をからから言わせながら飲み物の残りを漁った。

 そして、時間が来ると、マリエッタさんは自らの部屋に俺たちを招き入れ、現在ギリシャがどんな状態にあるのか、難民たちはこのヨーロッパの地でどのような扱いを受けているかを一気に語り出した。

 燃えるような弁舌とはこういうものだ、という激しさで彼女は時おり髪を振りながら、今ここにある困難を訴えた。それは当然ギリシャだけが抱える難儀ではなく、ヨーロッパと中東、そしてアジアまでを含んだ危機であった。

つまり世界の危機じゃないか。

 そのどん詰まりの実情を、次回も俺はこのドーハを飛び立ったばかりの帰りの機内からお届けする。

 まだシートベルト着用のサインさえ消えていない。

(つづく)

いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

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