<アメリカに住んでいると、2度も終戦記念日を迎えることになる。そのために覚える胸苦しさを振り払おうと、ハワイ・パールハーバーのアリゾナ記念館を訪れた。終戦時に降伏文書が交わされた戦艦ミズーリ号が係留された記念館で、またひとつ、心に残るミズーリ号の出来事が増えた> (1945年9月2日、東京湾に停泊した戦艦ミズーリ号での降伏文書調印式の様子)
いつの頃からか、夏になると気持ちが落ち込むようになった。アメリカ在住のために、8月から9月にかけて、終戦記念日を2度も迎えなければならないからだ。
ひとつは無論、8月15日の終戦記念日。報道などで、日本のラジオから流れる雑音交じりの玉音放送を聞いて泣き伏す人々の姿が再現されて、悲壮感でいっぱいになる。
もうひとつは、9月2日。米国戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印式が行われた日で、アメリカではこの日を戦勝記念日として盛んに祝わっている。この日、私が住んでいるニューヨーク郊外の住宅地でも、家々の軒先には星条旗が掲げられ、町の沿道にも無数の小旗が風にはためき、いやが上にも高揚感に包まれるのだ。
【参考記事】原爆投下:トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味(前編)
戦争の勝者と敗者とでは、当然のことながら国民の記憶は対局にある。米国の退役軍人たちは自信に満ち、国家を救ったのは自分たちだという自負心があり、社会全体から敬意をもって遇される。高校や中学に招かれて戦争の体験談を堂々と語り、先生も生徒もかしこまって拝聴するばかりだ。それに比べて日本の老人はかわいそうだと、つい比較してしまう。夏になると、私は日米のギャップの大きさにいつも驚き、戸惑い、重い固まりを飲み込んだような胸苦しさを覚えるのである。
そんな気持ちを振り払おうと、今夏、ハワイのパールハーバー記念館(アリゾナ記念館)を訪れた。真珠湾攻撃を受けて海に沈んだ米国艦船アリゾナ号が展示館になっているが、湾を挟んで対岸には、終戦時に降伏文書が交わされた戦艦ミズーリ号が係留・公開されているのだ。
ミズーリ号を訪れるのは初めてだったが、私はすでに降伏文書の調印式典の様子を熟知しているような気がした。ニューヨーク在住のピーター・ラール氏に何度も取材し、数編のドキュメント作品を発表していたせいだろう。
マッカーサー将軍の作戦参謀による調印式典の思い出
ピーター・ラール氏の父、故ディビット・ラール氏はウエストポイント陸軍士官学校を卒業後、マサチューセッツ工科大学(MIT)で機械工学を学んだ秀才で、米国陸軍大佐としてマッカーサー将軍の作戦参謀を長く務めて、ミズーリ号で行われた降伏文書の調印式典の準備作業を取り仕切った。
ピーター・ラール氏の話によれば、調印式典で使用された長テーブルは、当初予定していたテーブルが小さすぎたために急きょ用意したものだったが、古くてひどく汚れていた。式典直前、ラール大佐は急いで船室へ降りてテーブルクロスを探した。乗組員がコーヒーを飲みながらポーカーをしているのが目に留まった。「おい、ちょっとそれを貸してくれ」と声をかけて勢いよくテーブルクロスを引っ張ると、コップに残っていたコーヒーがこぼれて茶色いしみを作った。
「父は調印式の間中、そのしみが気になって仕方がなかったと言っていました」
もっとも、ディビット・ラール大佐がもっと気がかりだったのは、日本の全権代表である重光葵外務大臣が上海時代に爆弾攻撃を受けて右脚を失っていたことだった。あの不自由な体で戦艦ミズーリ号の甲板から吊り下げた船梯をよじ登り、柵を乗り越えて甲板に移れるだろうか。安全策としては駕籠(かご)に乗せて吊り上げる方法があるが、一国の代表者の尊厳を重んじれば、そんな無様な扱いはできない。過剰な反応は非礼になるが、放っておくわけにもいかない。思案した末に、数人の乗組員を船梯の両脇に立たせ、それとなく重光全権代表の様子を見守りつつ、柵を超えて艦上に乗り込む瞬間だけ素早く手を貸すようにと指示した。
重光葵は著書『重光葵手記』(1986年、中央公論社)の中で、調印式を済ませた日の午後、天皇に拝謁したときのことを、こう記している。
「陛下は記者(重光)に対して、軍艦の上り降りは困っただろうが、故障はなかったかと御尋ねになつた。記者は先方も特に注意して助けて呉れて無事にすますことを得た旨御答へし、先方の態度は極めてビジネスライクで、特に友好的にはあらざりしも又特に非友好的にもあらず、適切に万事取り運ばれた旨の印象を申し上げた」
この「極めてビジネスライク」であった印象の裏には、ラール大佐ら米国側の必要十分、かつ押しつけがましくないよう細心の注意を払った対応があった。
【参考記事】再録:1975年、たった一度の昭和天皇単独インタビュー
戦後、ディビット・ラール大佐はマッカーサー将軍に従って日本へ赴任し、GHQの作戦担当になり、家族を呼び寄せて1年半ほど日本に滞在した。だが、1947年、マッカーサー将軍がルーズベルト大統領に宛てた親書を携え、ハワイ経由でワシントンへ向かう途中、乗っていた飛行機がハワイ沖で墜落した。その場所はサメの生息地だとされ、遺体は発見できなかった。400ページにのぼる米国陸軍の事故調査の報告書によれば、墜落原因は燃料切れだったという。だが当時8歳だったピーター少年氏の受けた衝撃は大きく、80年経った今でもまだ受け入れられずにいる。
突っ込んできた日本の特攻隊員を水葬に付した
そんなことを考えつつ戦艦ミズーリ号の甲板を歩いていると、日本人のガイド嬢が声をかけてくれた。彼女は船の傷を指さして、こんな話を語りだした。
1945年4月11日、沖縄戦のとき、戦艦ミズーリ号めがけて一機の零戦が突っ込んできた。右舷後方から海面すれすれの超低空飛行だったため、レーダーに引っかからず、間近に迫るまで気がつかなかった。ミズーリ号の機関砲が一斉に銃弾を浴びせかけた。機体は左に大きくそれて墜落し、機体の一部がミズーリ号の甲板に引っかかった。駆け寄ってみると、特攻隊員の遺体があった。
ウィリアム・キャラハン艦長(当時)は、遺体を水葬に付すよう命じたが、一部の乗組員から敵兵を厚遇することに不満の声が上がった。艦長は、「敵兵といえども勇敢な兵士であることに変わりはなく、その栄誉を称えるべきだ」と譲らなかった。
その晩、米兵たちは徹夜で旭日旗を縫い上げ、翌朝、特攻隊員の遺体を納めた棺桶の上に旭日旗をかけると、礼砲を打ち鳴らし、敬礼して懇ろに水葬に付した。
【参考記事】『永遠の0』の何が問題なのか?
ガイド嬢は知識豊富で詳細に解説してくれた。しかし口調は柔らかく誠実で、戦艦ミズーリ号を訪れる日本人への配慮を忘れなかった。
2015年4月11日、日本側の丹念な調査により、水葬に付された日本人兵士が知覧特攻隊の隊員であることが判明した。現在、戦艦ミズーリ号の艦内では「神風特別展示」と銘打って、彼の手紙や遺書、遺品などを展示している。
太平洋戦争にまつわる歴史の中で、またひとつ、私の心に残る出来事が増えた。
[執筆者]
譚璐美(タン・ロミ)
作家、慶應義塾大学文学部訪問教授。東京生まれ、慶應義塾大学卒業、ニューヨーク在住。日中近代史を主なテーマに、国際政治、経済、文化など幅広く執筆。著書に『中国共産党を作った13人』、『日中百年の群像 革命いまだ成らず』(ともに新潮社)、『中国共産党 葬られた歴史』(文春新書)、『江青に妬まれた女――ファーストレディ王光美の人生』(NHK出版)、『ザッツ・ア・グッド・クエッション!――日米中、笑う経済最前線』(日本経済新聞社)、その他多数。新著は『帝都東京を中国革命で歩く』(白水社)。
譚璐美(作家、慶應義塾大学文学部訪問教授)
いつの頃からか、夏になると気持ちが落ち込むようになった。アメリカ在住のために、8月から9月にかけて、終戦記念日を2度も迎えなければならないからだ。
ひとつは無論、8月15日の終戦記念日。報道などで、日本のラジオから流れる雑音交じりの玉音放送を聞いて泣き伏す人々の姿が再現されて、悲壮感でいっぱいになる。
もうひとつは、9月2日。米国戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印式が行われた日で、アメリカではこの日を戦勝記念日として盛んに祝わっている。この日、私が住んでいるニューヨーク郊外の住宅地でも、家々の軒先には星条旗が掲げられ、町の沿道にも無数の小旗が風にはためき、いやが上にも高揚感に包まれるのだ。
【参考記事】原爆投下:トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味(前編)
戦争の勝者と敗者とでは、当然のことながら国民の記憶は対局にある。米国の退役軍人たちは自信に満ち、国家を救ったのは自分たちだという自負心があり、社会全体から敬意をもって遇される。高校や中学に招かれて戦争の体験談を堂々と語り、先生も生徒もかしこまって拝聴するばかりだ。それに比べて日本の老人はかわいそうだと、つい比較してしまう。夏になると、私は日米のギャップの大きさにいつも驚き、戸惑い、重い固まりを飲み込んだような胸苦しさを覚えるのである。
そんな気持ちを振り払おうと、今夏、ハワイのパールハーバー記念館(アリゾナ記念館)を訪れた。真珠湾攻撃を受けて海に沈んだ米国艦船アリゾナ号が展示館になっているが、湾を挟んで対岸には、終戦時に降伏文書が交わされた戦艦ミズーリ号が係留・公開されているのだ。
ミズーリ号を訪れるのは初めてだったが、私はすでに降伏文書の調印式典の様子を熟知しているような気がした。ニューヨーク在住のピーター・ラール氏に何度も取材し、数編のドキュメント作品を発表していたせいだろう。
マッカーサー将軍の作戦参謀による調印式典の思い出
ピーター・ラール氏の父、故ディビット・ラール氏はウエストポイント陸軍士官学校を卒業後、マサチューセッツ工科大学(MIT)で機械工学を学んだ秀才で、米国陸軍大佐としてマッカーサー将軍の作戦参謀を長く務めて、ミズーリ号で行われた降伏文書の調印式典の準備作業を取り仕切った。
ピーター・ラール氏の話によれば、調印式典で使用された長テーブルは、当初予定していたテーブルが小さすぎたために急きょ用意したものだったが、古くてひどく汚れていた。式典直前、ラール大佐は急いで船室へ降りてテーブルクロスを探した。乗組員がコーヒーを飲みながらポーカーをしているのが目に留まった。「おい、ちょっとそれを貸してくれ」と声をかけて勢いよくテーブルクロスを引っ張ると、コップに残っていたコーヒーがこぼれて茶色いしみを作った。
「父は調印式の間中、そのしみが気になって仕方がなかったと言っていました」
もっとも、ディビット・ラール大佐がもっと気がかりだったのは、日本の全権代表である重光葵外務大臣が上海時代に爆弾攻撃を受けて右脚を失っていたことだった。あの不自由な体で戦艦ミズーリ号の甲板から吊り下げた船梯をよじ登り、柵を乗り越えて甲板に移れるだろうか。安全策としては駕籠(かご)に乗せて吊り上げる方法があるが、一国の代表者の尊厳を重んじれば、そんな無様な扱いはできない。過剰な反応は非礼になるが、放っておくわけにもいかない。思案した末に、数人の乗組員を船梯の両脇に立たせ、それとなく重光全権代表の様子を見守りつつ、柵を超えて艦上に乗り込む瞬間だけ素早く手を貸すようにと指示した。
重光葵は著書『重光葵手記』(1986年、中央公論社)の中で、調印式を済ませた日の午後、天皇に拝謁したときのことを、こう記している。
「陛下は記者(重光)に対して、軍艦の上り降りは困っただろうが、故障はなかったかと御尋ねになつた。記者は先方も特に注意して助けて呉れて無事にすますことを得た旨御答へし、先方の態度は極めてビジネスライクで、特に友好的にはあらざりしも又特に非友好的にもあらず、適切に万事取り運ばれた旨の印象を申し上げた」
この「極めてビジネスライク」であった印象の裏には、ラール大佐ら米国側の必要十分、かつ押しつけがましくないよう細心の注意を払った対応があった。
【参考記事】再録:1975年、たった一度の昭和天皇単独インタビュー
戦後、ディビット・ラール大佐はマッカーサー将軍に従って日本へ赴任し、GHQの作戦担当になり、家族を呼び寄せて1年半ほど日本に滞在した。だが、1947年、マッカーサー将軍がルーズベルト大統領に宛てた親書を携え、ハワイ経由でワシントンへ向かう途中、乗っていた飛行機がハワイ沖で墜落した。その場所はサメの生息地だとされ、遺体は発見できなかった。400ページにのぼる米国陸軍の事故調査の報告書によれば、墜落原因は燃料切れだったという。だが当時8歳だったピーター少年氏の受けた衝撃は大きく、80年経った今でもまだ受け入れられずにいる。
突っ込んできた日本の特攻隊員を水葬に付した
そんなことを考えつつ戦艦ミズーリ号の甲板を歩いていると、日本人のガイド嬢が声をかけてくれた。彼女は船の傷を指さして、こんな話を語りだした。
1945年4月11日、沖縄戦のとき、戦艦ミズーリ号めがけて一機の零戦が突っ込んできた。右舷後方から海面すれすれの超低空飛行だったため、レーダーに引っかからず、間近に迫るまで気がつかなかった。ミズーリ号の機関砲が一斉に銃弾を浴びせかけた。機体は左に大きくそれて墜落し、機体の一部がミズーリ号の甲板に引っかかった。駆け寄ってみると、特攻隊員の遺体があった。
ウィリアム・キャラハン艦長(当時)は、遺体を水葬に付すよう命じたが、一部の乗組員から敵兵を厚遇することに不満の声が上がった。艦長は、「敵兵といえども勇敢な兵士であることに変わりはなく、その栄誉を称えるべきだ」と譲らなかった。
その晩、米兵たちは徹夜で旭日旗を縫い上げ、翌朝、特攻隊員の遺体を納めた棺桶の上に旭日旗をかけると、礼砲を打ち鳴らし、敬礼して懇ろに水葬に付した。
【参考記事】『永遠の0』の何が問題なのか?
ガイド嬢は知識豊富で詳細に解説してくれた。しかし口調は柔らかく誠実で、戦艦ミズーリ号を訪れる日本人への配慮を忘れなかった。
2015年4月11日、日本側の丹念な調査により、水葬に付された日本人兵士が知覧特攻隊の隊員であることが判明した。現在、戦艦ミズーリ号の艦内では「神風特別展示」と銘打って、彼の手紙や遺書、遺品などを展示している。
太平洋戦争にまつわる歴史の中で、またひとつ、私の心に残る出来事が増えた。
[執筆者]
譚璐美(タン・ロミ)
作家、慶應義塾大学文学部訪問教授。東京生まれ、慶應義塾大学卒業、ニューヨーク在住。日中近代史を主なテーマに、国際政治、経済、文化など幅広く執筆。著書に『中国共産党を作った13人』、『日中百年の群像 革命いまだ成らず』(ともに新潮社)、『中国共産党 葬られた歴史』(文春新書)、『江青に妬まれた女――ファーストレディ王光美の人生』(NHK出版)、『ザッツ・ア・グッド・クエッション!――日米中、笑う経済最前線』(日本経済新聞社)、その他多数。新著は『帝都東京を中国革命で歩く』(白水社)。
譚璐美(作家、慶應義塾大学文学部訪問教授)