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タイはもはや安住の地ではない──中国工作員に怯える中国政治難民

ニューズウィーク日本版 2016年9月7日 17時0分

<不法滞在者に甘く政治難民の楽園だったタイで、8000人いるといわれる中国人政治犯の拉致事件が相次いでいる。中国の工作員やスパイが組織的に動いているとみられ、潜伏している中国人は戦々恐々だ>

 中国当局の追及を逃れ、政治難民として国際機関による「難民認定そして亡命」を求めるためタイに潜伏している中国人が失踪する事件が相次いでいる。

 支援団体などによると、多数の中国公安の工作員がタイで暗躍しており、こうした中国人難民の発見、拉致、強制送還を組織的に行っているという。タイ軍政も不法労働者や政治難民など外国人不法滞在者の強制送還を積極的に進めており、中国政府とタイ軍政の思惑が一致した「政治難民狩り」となっている。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)もこのような現状に懸念を表明、潜伏している中国人は戦々恐々の毎日だ。

 2015年10月、タイのリゾート地パタヤのアパートから中国共産党を批判する書籍などを出版していた香港の出版社「銅鑼湾書店」の関係者が行方不明となった。2016年1月に中国のテレビにこの関係者が登場して自らの罪を告白、懺悔した。難民支援者らは拉致、強制送還されたものと判断している。

【参考記事】香港名物「政治ゴシップ本」の根絶を狙う中国

 2016年1月10日にはタイ・バンコクから列車でラオスに向かっていた中国広東省の有力紙「南方都市報」の李新記者(37)が行方不明となった。李記者は政府の腐敗を同紙インターネット版などで追及していたが、治安当局から脅迫を受け、危険を感じてインドに脱出、その後タイに逃れてきていた。支援団体などが国際組織などを通じて消息を調査したが杳としてわからない状態が続いていた。

【参考記事】党を批判したとして編集担当者を解雇――中国「南方都市報」

 ところが2月3日に中国・河南省に住む李記者の妻が突然地元警察に呼び出され、出頭したところ署内で警察電話越しに夫と話すことができたという。李記者は「私だ、今は中国にいる。元気だ、心配するな。調査に協力するために自ら戻ってきた」と一方的に話したというが妻は「強制されて話しているようだった」と中国当局による拉致、送還、拘束であることを示唆した。

かつては楽園、今は疑心暗鬼の地

 タイは1951年の「難民の地位に関する条約」を批准していないが、長年中国や北朝鮮などから自由を求める政治難民、貧困から逃れる経済難民、そして司直の手を逃れる犯罪者や麻薬・武器の密輸業者などあらゆる人々、モノがラオス、ミャンマー国境を経由して観光ビザや不法入国で流れ込んでくる場所で、特に難民にとってはタイ国内で潜伏したり、第三国へ向かう経由地として「安全な楽園」でもあった。



 しかし、2014年5月の軍によるクーデター以降、軍政はタイ国内の不法滞在者に対する姿勢を硬化させ、特に不法滞在労働者の摘発には力を入れ始めた。また政治絡みの難民も「これ以上の面倒を抱えたくない」として強制送還させる方針に転換した。2015年7月までに中国政府の圧制から逃れてきたとするウイグル人100人以上が中国政府の求めに応じて強制送還させられたのはその一例だ。

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 こうしたタイ軍政の方針転換は、タイ国内にある中国人政治難民ネットワークにも危機感を与えており、難民同士や支援団体の中にも「誰が信用出来て、誰がスパイ・工作員なのか。何が安全で、何が危険なのか」という疑心暗鬼が急速に広がっている。

タイ脱出も叶わず、過酷な状況

 グーグルマップを頼りに密林地帯を経由して最近タイに脱出してきた江蘇省の人権活動家は「尾行、監視、盗聴などに十分に神経を使うように。人込みでは大きな声で話しをせず、携帯電話はプリペイドにして滅多に使わない。ホテルは頻繁に変え、帰路も毎日変えること」と、支援団体から厳しい注意を受けたという。こうした注意からタイで中国難民が現在置かれている過酷な状況を肌で感じたとしている。

 タイの状況変化に「タイ脱出」を試みた中国人一家もいた。2月29日夜、1歳の幼児を含む子供2人、大人7人の中国人一行がタイ・パタヤから10万ドルで用意した船に乗り込んでタイ脱出を図った。目的地はオーストラリアかニュージーランドで現地到着後に難民申請をして政治亡命するはずだった。ところが悪天候のため船の操縦が不能になり、パタヤ海岸から約200キロの海上で漂流、タイ海上警察に救助を求めた。一行は難民カードを所持していたがタイ海上警察は「不法滞在者」として全員を拘留、船長は「人身売買」容疑で逮捕されてしまった。

工作員・スパイに怯える8000人の難民

 国連関係機関は具体的な数字を明らかにしていないが、タイ国内の支援団体などによると現在タイ国内には中国から逃れてきた政治難民が約8000人いて、難民申請の手続きを待っているという。

 この8000人をターゲットにする工作員とみられる中国人は「観光客を装ってタイに入国している。加えてタイ在住の中国人をスパイとして雇っている可能性がある。タイ語が流ちょうに話せる、タイに友人や親族のネットワークがあるという中国人すら疑わなくてはならない状況」と事態は深刻だ。



 昨年11月にUNHCRの難民審査待ちだった第三国への亡命希望の中国人2人の消息が突然途絶え、最近中国・重慶の収容所に拘束されていることが分かった。タイの潜伏先から拉致され、強制連行されたとみられている。この2人についてはUNHCRも中国当局、タイ当局に抗議したが、事態は改善されていない。

 支援団体などはUNHCRなどに対し難民手続きの迅速化と申請手続き中の一時保護などを訴えている。にも関わらず最近、UNHCRの手続き中の中国人の行方不明事案が確認できただけでも4件5人と増加していることなどから、支援団体はUNHCRバンコク事務所の内部に中国公安の工作員ないしそのスパイが潜り込んでいる可能性を指摘、注意喚起も行っている。

 工作員が増加し、政治難民の拉致が増えている背景には、習近平政権の中国共産党指導部による反体制派や人権活動家に対する締め付けや、報道統制などの一環だとの見方が有力だ。中国人政治難民や人権活動家の失踪事件は香港やミャンマーでも起きており、ミャンマーでは中国人活動家が不法滞在容疑で禁固2年の実刑を受けて服役している。

 中国当局からの自由を求めて国外に逃れた政治難民を「まるで自国領土のように拉致し、連れ去る」という中国工作員の振る舞いをタイ政府は野放図に許すべきではなく、政治難民と不法滞在者を峻別して対応すべきだろう。タイは自由と民主主義の「微笑みの国」なのだから。

[執筆者]
大塚智彦(ジャーナリスト)
PanAsiaNews所属 1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など



大塚智彦(PanAsiaNews)

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