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アップルの税逃れ拠点、アイルランドの奇妙な二重生活

ニューズウィーク日本版 2016年9月9日 20時0分

<ハイテク多国籍企業を引き付けるタックスヘイブン、アイルランドは、緊縮財政とホームレス危機に苦しみながら、昨年のGDP成長率は26%。その世にも不思議な経済構造とは。また、ハイテク税優遇の象徴的な存在であるアップルから追徴税を取れと命じられたアイルランド政府のジレンマとは> (写真はアイルランド南部のアップル欧州本社)

 アップルの欧州本社は、アイルランド南部コーク市郊外の産業団地にある。レンガとガラスを使った広大な社屋もそこで働く従業員も、実在のもの。従業員6000人とこのあたりでは最大の雇用主だ。先週アップルを非難したEUの言葉から想像されるような課税逃れのためのペーパーカンパニーなどとは全然違う。

【参考記事】巨額の追徴課税、アップルは悪くない

 アイルランドには、アップルのような多国籍企業はたくさんある。英語を話す高学歴の人材と優良企業を誘致するための優遇税制の賜物だ。これらの企業は、アイルランドに大きな利益をもたらした。アップルは1980年代にいち早く進出し、雇用を創出し、他の多国籍企業を引き寄せた。今ではフェイスブックやグーグルもアイルランドに大きなオフィスを持ち、労働者の5人に1人は外国の多国籍企業で働いている。

「その他大勢」のアイルランド

 だが、これらの企業は同時に奇妙な二重構造をアイルランド経済にもたらした。「アップルやフェイスブックなどハイテクのアイルランドと『その他大勢』のアイルランドがある」と、ギリシャの前財務省ヤニス・バルファキスは3月のインタビューで語った。「その他大勢」とは、職を求めて移住する若者たちと、それを見送る者たちだという。

【参考記事】現実派アイルランドは復活できる

 この二重構造が浮き彫りになったのは今年7月、2015年の成長率が26.3%に達したことがわかったときだ。ユーロ圏で真っ先にアイルランドが景気後退入りした2008年から10年足らずで、同じ時期の中国の4倍も成長したのだ。少なくとも紙の上では、この夏のアイルランド経済は絶好調だった。

 だがそれにしては、以前と何も変わらない。2010年の銀行救済を機に導入された緊縮財政は今も続いているが、国の債務残高は今も2000億ドルに上る。2月に行われた下院選の前に実施された世論調査によると、人々は景気回復をまったく実感していない。事実、中道右派の統一アイルランド党と中道左派の労働党の連立与党は2月の選挙で過半数割れに追い込まれた。

 もちろん、26%成長という数字を鵜呑みにはできない。これは、アップルのような企業がアイルランドの低い法人税率を最大限に生かすために行った事業再構築の結果だ。アップルなどの多国籍企業は知的所有権や特許など、実体経済にはほとんど貢献しないが統計上GDPを増やす資産を持つ。それをアイルランドに移すことで、その収益にかかる税金を低く抑えることができるのだ。



 対外債務の返済に汲々とし、タックスヘイブンという悪評の返上に心を砕く政府は、26%成長は外聞が悪いと思ったのだろう。できるだけこの数字を小さく見せようとした。エンダ・ケニー首相によれば、実際の成長率は4%ぐらいのものだという。26%の大躍進はいったいどこに消えたのだろうか。

 もっとも、今のヨーロッパで4%成長といえば立派なものだ。紙の上だけだった成長の果実が実体経済に及び始めた兆候もある。首都ダブリンの中心部では、バーやレストランに活気が戻ってきた。パーティー気分の復活だ。だが、華やかさの陰には必ず取り残された人々がいる。ホームレスの数は過去最多、家賃高騰で家を追い出される家族も多い。まずは一時避難所に駆け込むが、貧困者向け住宅には長い順番待ちのリストができている。

 都市部以外では状況はもっと悪い。全国の小さな町では、倒産した中小零細企業が軒を連ねている。アイルランド中部、人口4万人のロングフォードは、2008年のバブル崩壊で最大の打撃を被った建設業の町。若者は仕事を求めてダブリンや海外に去った。バブル崩壊の直前に完成したショッピングセンターは、テナントが表れず空家のままだ。

 景気後退と緊縮財政のおかげで、公共サービスはどこも麻痺状態。医療は財源不足でなかなか医者には診てもらえず、病院のベッドも足りない。学校は経費削減のため、2つの学級を1つの教室に詰め込んで授業をしているところもある。

 アイルランドが金融危機に陥り、IMFとEUから約850億ユーロ(約9兆4000億円)の金融支援を受けた2010年以降、アイルランド人は塗炭の苦しみに耐えてきた。多国籍企業が低税率を謳歌する傍らでも、不満を口にする者はほとんどいなかった。無料だった水道から料金を取ることになった時は反発したが、多国籍企業からタダのような税金しか取らないことに関しては、景気後退から抜け出すための必要悪とでもいうように容認してきた。

【参考記事】アイルランド、国家存続の瀬戸際へ

 欧州委員会は先週、アイルランド政府はアップルに130億ユーロ(約1.5兆円)を追徴課税すべきだとの判断を示した。アイルランドが多国籍企業を低税率で優遇してきたのは「違法な政府補助」で競争上不公正だというのだ。アイルランド政府は即座に、EU司法裁判所への控訴を決めた。アップルから追徴税は取らないという立場だ。



 これは微妙な判断だ。アイルランド政府は事実上、棚ぼたの税収を拒絶していることになる。欧州委員会は、追徴分の130億ユーロはIMFなどへの借金返済に充てなくていいと明言している。丸々国民生活の向上のために使える財源なのだ。医療サービスなら、元のレベルに戻して1年半維持できる。

 すでに1万1000人が、政府に控訴をやめるよう求める嘆願書に署名している。「政府は、世界で最も金持ちの企業ではなくアイルランド国民のためにあるべきだ」という彼らの主張はもっともだ。

 アイルランドは、既に課税強化の方向へ舵を切りつつある。多国籍企業を呼び込むための低税率や税制優遇措置は、1980~1990年代、アイルランドがまだ欧州の辺境の貧困国だったときのもの。おかげで今は、アイルランドには高学歴で高スキルの労働者があふれ、テクノロジーと金融と製造業のハブという評価を得た。税制の抜け穴の多くは、すでに閉じられている。欧州委員会の判断は、その正常化プロセスを加速するだろう。

 そのとき、多国籍企業のアイルランドと、景気後退で病んだアイルランドは、和解できるのだろうか。わかるのは、誰もが応分の税金を払うようにはなるということだ。

From Foreign Policy Magazine



ジェニファー・ダガン

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