9月13日、米国で共和党のトランプ氏が、子育て支援策を発表した。米国の大統領選挙では、トランプ氏と民主党のクリントン氏が、子育て支援の充実を競っている状況だ。少子化対策の必要性が叫ばれて久しい日本と違い、先進国としては堅調に人口が増加している米国だが、子育て支援の重要性に対する意識は高い。
税制改革で子育て支援
「育児費用を削減する提案を行い、米国の家族が何よりも必要としている支援を提供する(トランプ氏)」
「すべての米国人が手ごろな保育サービスを利用できるようにして、育児費用を所得の10%に抑え込む(クリントン氏)」
民主党のクリントン氏と共和党のトランプ氏が、それぞれ8月に行った演説からの引用だ。大統領選挙といえば、相反する提案で論戦を戦わせるのが普通だが、こと子育て支援に関しては、その充実を目指す方向性はどちらも同じ。二人が演説を行った場所も、同じ中西部のミシガン州と、まさに両者が競い合っている状況だ。
【参考記事】米国の中間層にかすかな希望
かねてから民主党は、子育て支援の充実を提唱してきた。現職のバラク・オバマ大統領は、育児費用を対象とした税額控除(後述)を3倍にするよう提案している。クリントン氏は、具体的な方策こそ明らかにしていないものの、やはり税額控除の充実等を通じて、家計の育児費用負担を抑え込む方針を示している。
意外感があったのは、トランプ氏の提案だろう。8月の演説の後、9月13日には、支援策の内容が明らかにされた。
トランプ氏の提案の中心は、子育て費用を所得控除(後述)の対象にすることである。共和党の税制といえば、最高税率の引き下げや税制の簡素化が主流であり、子育て支援のような特定の目的を持った政策減税は傍流だった。
【参考記事】守ってもらいたい人々の反乱──Brexitからトランプへ
トランプ氏が子育て支援策を打ち出した背景には、長女のイヴァンカ・トランプ氏の存在があるようだ。実際にイヴァンカ氏は、7月に行われた共和党全国党大会での演説で、「3人の小さな子供をもつ親として、働きながら子育てをすることの難しさは十分に分かっている」と述べ、父のトランプ氏が育児支援の充実に取り組むことを予告していた。具体案を明らかにした9月13日の演説では、トランプ氏も「おとうさん、やらなきゃダメよ」とイヴァンカ氏に説得された様子に言及している。何かと批判の多いトランプ氏の印象を和らげると同時に、支持が伸び悩む女性票を取り込む狙いもありそうだ。
子育て費用は医療費の約4倍
米国の子育て事情に関しては、日本のような待機児童の問題はあまり伝えられない。しかし、その米国でも、幼少期における育児や教育の重要性に対する意識が高まると同時に、その負担の重さが問題となっている。とくに、格差の拡大が問題となるなかで、育児支援の充実には、その解決策の一つとなる期待がよせられている。
米国では、幼少期にきちんとした育児や教育を受けられるかによって、将来の所得に大きな差が出てくることが分かってきている。ミシガン州で行われた調査によれば、義務教育前に幼稚園に通った子が40歳になるまでに得た所得は、通わなかった子を約25%上回ったという。
幼少期の育てられ方の違いは、親の経済環境に左右される側面が大きい。例えば、米国で義務教育前に3~4歳児が幼稚園に通う割合は、母親が大卒以上の家庭では6割強であるのに対し、母親が高卒未満の場合には4割程度にとどまっている。親の学歴が低い家計は、経済的に恵まれていない場合が多く、金銭的な余裕のなさが、子の教育機会を奪っているようだ。
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子育てに関する費用を軽減できれば、親の働き方の選択肢が広がる効果も期待できる。保育や教育に外部の施設を利用しようにも、その費用が高すぎれば親が自分の手で引き受けなければならなくなる。2015年にワシントン・ポスト紙が行った世論調査によれば、子育てに費やす時間を増やすために、母親の6割以上、父親でも4割弱が、仕事を辞めたり、負担の軽い仕事に転職したりしているという。
米国の育児費用は、上昇傾向にある。商務省センサス局によれば、インフレ率による上昇分を差し引いても、母親が働いている世帯における育児費用は、1985年から2011年の間に70%以上も上昇している。
幼い子供を抱える家計において、育児費用の負担は大きい。米国では、大学の学費や医療費の高さが指摘されるが、多くの地域において育児費用はそうした費用を上回る。両候補が演説を行った中西部を例にとると、乳児1人、4歳児1人の家庭の場合、育児に伴う費用は年平均で1万8千ドル弱(約180万円)。大学の学費の約2倍、医療費の実に約4倍である(図)。
「伝統的な価値観」が障害に?
支援充実の方向性が一致している以上、論点は支援策の内容に移っている。
クリントン氏は、トランプ氏の提案では、庶民を十分に支援できないと批判する。所得控除が中心であるために、富裕層の恩恵が大きくなりやすいからだ。富裕層に対する減税が大きいトランプ氏の所得税改革案と同様、金持ち優遇との批判を受けやすい側面がある。
所得控除は、課税所得を計算する際に、控除対象となる費用を所得から差し引く方式である。実際の減税額は、対象となる費用にそれぞれの家計の税率をかけ合わせた金額になる。所得税は富裕層ほど税率が高いので、子育て費用が同じだった場合には、富裕層ほど減税額が大きくなる。
これに対して、クリントン氏が検討する税額控除は、それぞれの家計が支払う税金から、対象費用を差し引く形となる。所得の高低、すなわち、適用税率の高低にかかわらず、減税額は同じである。
トランプ氏も、黙って批判されているわけではない。9月13日に明らかにされた具体案では、低所得層にも子育て支援を行うために、給付付き税額控除を利用する方針が明らかにされている。給付付き税額控除では、納税額を上回る減税相当分が家計に支給される。所得が低い家計では、そもそも払うべき所得税の負担が少ないために、減税の恩恵を受けきれない場合がある。給付付き税額控除には、そうした問題を回避する効果がある。
むしろトランプ氏が苦慮しているのは、共和党支持者に根強い「伝統的な価値観」との兼ね合いかもしれない。共和党支持者のなかには、子育て費用の支援が母親の就労を奨励し、子育てに専念する母親が減少することを懸念する声がある。女性の社会進出に前向きな民主党では、あまり気にされていない論点である。詳細は明らかにされていないが、トランプ氏は、専業主婦による子育てについても、税制上の支援策を講ずる方針であるようだ。
安井明彦1991年富士総合研究所(現みずほ総合研究所)入社、在米日本大使館専門調査員、みずほ総合研究所ニューヨーク事務所長、同政策調査部長等を経て、2014年より現職。政策・政治を中心に、一貫して米国を担当。著書に『アメリカ選択肢なき選択』などがある。
安井明彦(みずほ総合研究所欧米調査部長)
税制改革で子育て支援
「育児費用を削減する提案を行い、米国の家族が何よりも必要としている支援を提供する(トランプ氏)」
「すべての米国人が手ごろな保育サービスを利用できるようにして、育児費用を所得の10%に抑え込む(クリントン氏)」
民主党のクリントン氏と共和党のトランプ氏が、それぞれ8月に行った演説からの引用だ。大統領選挙といえば、相反する提案で論戦を戦わせるのが普通だが、こと子育て支援に関しては、その充実を目指す方向性はどちらも同じ。二人が演説を行った場所も、同じ中西部のミシガン州と、まさに両者が競い合っている状況だ。
【参考記事】米国の中間層にかすかな希望
かねてから民主党は、子育て支援の充実を提唱してきた。現職のバラク・オバマ大統領は、育児費用を対象とした税額控除(後述)を3倍にするよう提案している。クリントン氏は、具体的な方策こそ明らかにしていないものの、やはり税額控除の充実等を通じて、家計の育児費用負担を抑え込む方針を示している。
意外感があったのは、トランプ氏の提案だろう。8月の演説の後、9月13日には、支援策の内容が明らかにされた。
トランプ氏の提案の中心は、子育て費用を所得控除(後述)の対象にすることである。共和党の税制といえば、最高税率の引き下げや税制の簡素化が主流であり、子育て支援のような特定の目的を持った政策減税は傍流だった。
【参考記事】守ってもらいたい人々の反乱──Brexitからトランプへ
トランプ氏が子育て支援策を打ち出した背景には、長女のイヴァンカ・トランプ氏の存在があるようだ。実際にイヴァンカ氏は、7月に行われた共和党全国党大会での演説で、「3人の小さな子供をもつ親として、働きながら子育てをすることの難しさは十分に分かっている」と述べ、父のトランプ氏が育児支援の充実に取り組むことを予告していた。具体案を明らかにした9月13日の演説では、トランプ氏も「おとうさん、やらなきゃダメよ」とイヴァンカ氏に説得された様子に言及している。何かと批判の多いトランプ氏の印象を和らげると同時に、支持が伸び悩む女性票を取り込む狙いもありそうだ。
子育て費用は医療費の約4倍
米国の子育て事情に関しては、日本のような待機児童の問題はあまり伝えられない。しかし、その米国でも、幼少期における育児や教育の重要性に対する意識が高まると同時に、その負担の重さが問題となっている。とくに、格差の拡大が問題となるなかで、育児支援の充実には、その解決策の一つとなる期待がよせられている。
米国では、幼少期にきちんとした育児や教育を受けられるかによって、将来の所得に大きな差が出てくることが分かってきている。ミシガン州で行われた調査によれば、義務教育前に幼稚園に通った子が40歳になるまでに得た所得は、通わなかった子を約25%上回ったという。
幼少期の育てられ方の違いは、親の経済環境に左右される側面が大きい。例えば、米国で義務教育前に3~4歳児が幼稚園に通う割合は、母親が大卒以上の家庭では6割強であるのに対し、母親が高卒未満の場合には4割程度にとどまっている。親の学歴が低い家計は、経済的に恵まれていない場合が多く、金銭的な余裕のなさが、子の教育機会を奪っているようだ。
【参考記事】トランプ現象の背後に白人の絶望──死亡率上昇の深い闇
子育てに関する費用を軽減できれば、親の働き方の選択肢が広がる効果も期待できる。保育や教育に外部の施設を利用しようにも、その費用が高すぎれば親が自分の手で引き受けなければならなくなる。2015年にワシントン・ポスト紙が行った世論調査によれば、子育てに費やす時間を増やすために、母親の6割以上、父親でも4割弱が、仕事を辞めたり、負担の軽い仕事に転職したりしているという。
米国の育児費用は、上昇傾向にある。商務省センサス局によれば、インフレ率による上昇分を差し引いても、母親が働いている世帯における育児費用は、1985年から2011年の間に70%以上も上昇している。
幼い子供を抱える家計において、育児費用の負担は大きい。米国では、大学の学費や医療費の高さが指摘されるが、多くの地域において育児費用はそうした費用を上回る。両候補が演説を行った中西部を例にとると、乳児1人、4歳児1人の家庭の場合、育児に伴う費用は年平均で1万8千ドル弱(約180万円)。大学の学費の約2倍、医療費の実に約4倍である(図)。
「伝統的な価値観」が障害に?
支援充実の方向性が一致している以上、論点は支援策の内容に移っている。
クリントン氏は、トランプ氏の提案では、庶民を十分に支援できないと批判する。所得控除が中心であるために、富裕層の恩恵が大きくなりやすいからだ。富裕層に対する減税が大きいトランプ氏の所得税改革案と同様、金持ち優遇との批判を受けやすい側面がある。
所得控除は、課税所得を計算する際に、控除対象となる費用を所得から差し引く方式である。実際の減税額は、対象となる費用にそれぞれの家計の税率をかけ合わせた金額になる。所得税は富裕層ほど税率が高いので、子育て費用が同じだった場合には、富裕層ほど減税額が大きくなる。
これに対して、クリントン氏が検討する税額控除は、それぞれの家計が支払う税金から、対象費用を差し引く形となる。所得の高低、すなわち、適用税率の高低にかかわらず、減税額は同じである。
トランプ氏も、黙って批判されているわけではない。9月13日に明らかにされた具体案では、低所得層にも子育て支援を行うために、給付付き税額控除を利用する方針が明らかにされている。給付付き税額控除では、納税額を上回る減税相当分が家計に支給される。所得が低い家計では、そもそも払うべき所得税の負担が少ないために、減税の恩恵を受けきれない場合がある。給付付き税額控除には、そうした問題を回避する効果がある。
むしろトランプ氏が苦慮しているのは、共和党支持者に根強い「伝統的な価値観」との兼ね合いかもしれない。共和党支持者のなかには、子育て費用の支援が母親の就労を奨励し、子育てに専念する母親が減少することを懸念する声がある。女性の社会進出に前向きな民主党では、あまり気にされていない論点である。詳細は明らかにされていないが、トランプ氏は、専業主婦による子育てについても、税制上の支援策を講ずる方針であるようだ。
安井明彦1991年富士総合研究所(現みずほ総合研究所)入社、在米日本大使館専門調査員、みずほ総合研究所ニューヨーク事務所長、同政策調査部長等を経て、2014年より現職。政策・政治を中心に、一貫して米国を担当。著書に『アメリカ選択肢なき選択』などがある。
安井明彦(みずほ総合研究所欧米調査部長)