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ギリシャまで、暴力や拷問から逃れてきた人々

ニューズウィーク日本版 2016年9月20日 16時0分

<「国境なき医師団」(MSF)の取材をはじめた いとうせいこうさんは、まずハイチを訪ね、今度はギリシャの難民キャンプで活動するMSFをおとずれた。そして、ギリシャの現状についてのブリーフィングを終え、「暴力や拷問を受けた人びとを対象としたプロジェクト」に向かった...>

これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」
前回の記事:ギリシャの『国境なき医師団』で聞く、「今、ここで起きていること」

虚構の機体

 機体は異次元と接続するように真下にがくんと落ちた。

 2016年7月20日、ドーハのハマド国際空港から羽田へと飛び立ったカタール航空QR812のことだ。
 俺は読んでいたメモから目を離す。

 両手で座席のアームをつかむと、ちらりと隣に視線をやった。大きな体を小さな席に押し込んで微動だにしないでいる、地中海周辺諸国の若者らしい薄い茶の肌をした男がいた。

 彼は顔を動かさず、目だけを上げる。機内のライトがその瞳に映ってきらめいた。

 また機体が落ち、続いて左右に揺れる。

 ポンと間抜けな音がして、機長がアナウンスを始めた。

 当機はただいま乱気流の中にある。揺れるが安全に問題はない。シートベルトを締めたままフライトを楽しんで欲しい。

 同じ内容がアラビア語と日本語で俺たちに伝えられる。

 ただし、もしかすると当日のフライトレコーダーにはこの乱気流が記録されていないかもしれない。

 俺と隣の若者だけが記憶するだけで。

 別の次元に俺たちは移動し、なおも各々そこから過去数日のことを思い返し続けるのだとしたら。

 はっきりとした事実の数々を。

 はっきりしない虚構の方角から。



スケジュール変更

 7月15日。
 マリエッタからのブリーフィングを聞き終えて、俺と国境なき医師団(MSF)ジャパン広報の谷口さんはタクシーに乗ったのだった。車を呼んでくれたのはMSFギリシャの広報ディミトリスさんで、彼は運転手に行き先まで告げてくれた。

 数分で俺たちは細い道の中に立つ白いビルの前に着いた。一階は改装中で、ガラス張りのオフィスの中に工事関係者が三人ぼんやりと椅子に座っていた。

OCB(オペレーションセンター・ブリュッセル)のアテネ事務所

 ビルの三階にMSFベルギー(OCB)のオペレーション・センターがあった。今回の取材を仕切ってくれているそこで、俺たちはスタッフ用宿舎のカギをもらわねばならなかった。

 引っ越したばかりのようなきれいなオフィスは、真ん中に廊下があり、両端にガラス張りの各部屋がある形で、そこに若いスタッフが詰めていた。

 誰が誰か覚えられない早さで大勢の人と握手をし、自己紹介をしている間に、外国人派遣スタッフの渡航・宿泊の手配を担当しているエリーザこと、エリザベス・ビリアノウさんが2セットのカギをくれた。

 その日は当初取材がなかった予定なのだが、俺たちが日本を出る日にスケジュール変更の連絡があったらしく、カギと一緒に宿舎の地図のコピーをもらって急いで外に出た。歩いて10分ほどのその場所に、まず荷物を置く必要があった。そこもタクシーで行くものかと思ったが、エリーザさんは歩くことしか前提にしていなかった。

 これはギリシャにいる間にわかったことだが、彼らはよく歩く。飲みに行く時も、仕事の時も、出勤も帰宅も、20分以内なら(ひょっとしたら30分でも)絶対に歩行だ。地下鉄が走っていて、設置された自動改札はチケットに穴を開けるだけだからタダ乗りさえ自由なのにも関わらず、ギリシャ人は、少なくともアテネ人はあまり電車に乗らない。

アテネ市内の樹木の勢いが素晴らしい。

 それにならったわけでもないが、俺たちは地図で指定された通りに荷物をゴロゴロ言わせて歩き、ひとつの通りに面したビルの2LDKに入ると、ひとつずつ無言で部屋を選んでそのカートを置くやいなやすぐにまた外へ出た。

 予定が変わった行き先は少し遠かったから、そこはタクシーを拾った。住所が書かれた紙を運転手氏に渡すと、俺より少し年上といった感じの彼は機嫌よさそうにうなずき、車を発進させた。

 運転手氏は煙草を吸い、灰を外に落とした。こちらもシートベルトをしなかった。いかにもヨーロッパ的なそういう振る舞いに妙な旅行気分を刺激された俺は窓の外をキョロキョロ見た。アテネは街路樹が多様で豊富だった。道の両側の建物の前にはイチジクやオリーブや火炎樹らしき木が植えられ、中央分離帯にも樹木が並んで木陰を作っていた。



VoV(the Victims of Violence project)へ行く

 旅行気分が続くのも15分ほどだった。目的地近くに降ろされた俺たちは、自力で目指すビルを探さねばならなかった。いや、場所が見つかりにくいことが俺の気持ちを切り替えたのではない。現に谷口さんは携帯で先方につなぎ、ビルの特徴を聞き始めていた。

 むしろ、俺が緊張したのは、行き先がVoV(the Victims of Violence project)、「暴力や拷問を受けた人びとを対象としたプロジェクト」だったことである。いきなりハードなインタビューが予想された。

 どうやらこのビルらしいという建物が見つかり、中に入るとドアが引き戸になったエレベーターがあった。右に引くと格子が狭まるタイプだったと思う。乗って四階に向かったのだが、到着したはずのエレベーターはかすかに揺れ、ドンとかすかに落下した。次元がずれた感覚がした。

 引き戸を開けて降りたが、あるはずのVoVの表札はなかった。

 迷っていると、階段の下から呼ぶ声があった。

 「ヒロコ?」

 「シェリー?」

 谷口さんが先に階下に行った。俺が続いた。

 そこに白髪の恰幅のいい女性がいた。

 シェリー・デュボアというアメリカ人だった。

 VoVの医療活動マネジャー。組織唯一のエクスパット(外国人派遣スタッフ)である。

 にこやかに俺たちを迎えたシェリーは、三階の事務所のドアを開けた。中が彼女たちのオフィスで、大きめのテーブルのこちらと向こうに俺たちは座って対面した。細い老眼鏡をかけ、黒い服に身を包んだシェリーはすぐさま話し出した。なにしろ、当初は週末に会うスケジュールだったが忙しいし、週末は休みたいという変更をした人だ。シェリーおばあさんには時間がなかった。

 まず、VoVは現在世界に3つあるとわかった。

 最初はエジプトのカイロに出来た組織は、次にアテネ、そしてローマへと拠点を広げた。当然それぞれは連携し、政治的宗教的抑圧や拷問から逃げてきた人々を保護し、ケアするのだった。

 そんなハードな、かつ政治的な活動をしているのだと思うと、にっこり笑いながら話をするシェリーおばあさんがかえって凄い人だと感じられた。

 「私たちが行うのは一次診療じゃなくて、専門的な二次診療です。今は月水金の週3日。来る人たちはみんなそれぞれに酷い物語を持っているから、それはそれは気をつけて接しないといけません」

 彼らは同時に、ギリシャの中で難民・移民を法律的に支援している団体「ギリシャ難民協議会」、そして心理ケア専門の「デイ・センター・バベル」と密接につながりあいながら、被害者の身体的心理的なケアと社会的支援をしていた。

 シェリーは続けざまにどんどん話して、どんどん微笑んだ。急いでいるように見えた。

 やがて、実際に治療をしているのはすぐ近くのビルでだとシェリーは言い始めた。俺たちがいるのはあくまでも事務的な作業をする場所なのだった。

 「去年はほら、シリアからたくさん難民の方々が来たでしょ。だからそれまでの4倍の人を看ることになったの。それでこっちもあっちも大変」

 忙しいのにノンキに取材になど来てしまって申し訳なかったなと思っていると、シェリーが重い体を持ち上げて立った。

 「さあ行きましょ」
 と言う。

 俺も谷口さんも面食らった。するとシェリーがある方角を指した。

「治療してるところも見たいでしょ?」

 彼女は俺たちのために十二分な便宜を図ってくれていたのだった。



ケアの現場へ移動する

 角を曲がってすぐにそれはあった。

 政治的宗教的抑圧を受け、拷問にあった人々を"実際に治療"している場所だった。ビルのワンフロアがそうだった。

入り口に臨床心理士の男性が待っていてくれた。挨拶してさらに奥に入ると、すぐ右側に黒いヒジャブをかぶったアラブ人の女性が二人(親子だったろうか)、身を寄せて座っていた。シェリーが気を遣ってスタッフに質問すると、彼女たちは患者というわけではないようだった。

 シェリーについて歩き、ぐるりとフロアの中の部屋を回った。

 「ここは体力を検査する場所」

 確かに簡素な運動マシンが中に置いてあった。そうか、体力測定までするのと不思議な気持ちになっていると、きわめてそっけなくシェリーから"拷問を受けた者がいかに身体を弱らされるか"の話があった。

 女性専用のセラピー室もあった。

 ヨガグループが来て教室を開いて、レクリエーションを通した心身のケアをすることもあるそうだった。

 メインの診療室も見せてもらった。一日6人程度が、初診なら一人3時間じっくりと診療とカウンセリングを受けると聞いた。

 あちこちにとても明るい女性スタッフがいて、俺たちはまた握手して歩いた。彼女たちのほとんどが文化的仲介者(カルチュラル・メディエーター)という重要な役割を果たしていて、(これはのちのちギリシャの難民支援活動に非常に特徴的で大きな存在だとわかるのだが)要するにシリアからイラクからエジプトからアフガニスタンから逃げてくる人々に応じて、言葉を通訳し、それぞれの慣習を医師に説明し、また患者にこちらの支援方針や内容を理解してもらうのである。

 患者になる人はたいてい英語を話せない。さらに宗教的な都合を持っている。女性がしてはならないことがある。治療者側がよかれと思っても、ケアを受ける側がまた抑圧だと感じてしまってはいけない。

 そういう観点から、難民支援には文化的仲介者(カルチュラル・メディエーター)が不可欠で、しかもそれぞれがもともと難民として移動して来たことが多く、だからこそ気持ちもニーズもよくわかり、さらに難民の雇用をも生み出しているというわけだ。



世界の残酷でリアルな困難

 「ここには歯医者さんも週一で来るのよ」

 シェリーが部屋のひとつを指さして言った。

 俺はまたノンキに、VoVは審美的なところまで面倒みるのかと感心した。シェリーもそれ以上説明しようとしなかった。だが、すぐに谷口さんが現実の厳しさを俺に教えてくれた。

 「拷問を受けると歯を失うケースが多いので、歯科医が必要になります」

 「え......」

 難民たち、しかも政治的宗教的抑圧や拷問にさいなまれた人たちは俺などとは次元の違う場所にいた。

 シェリーがさらっとそのあたりの事情を、これまたにこやかに俺に伝えた。

 「ひどい拷問のあと、不眠やパニック、あるいは発狂する場合もあるので、私たちが連携している心理ケア団体のバベルには精神科医もいるの」

 いや、もうにこやかではなかった。

 シェリーの目の中に、マリエッタと同じような炎を俺は感じた。ひどい状況を俺に知らせ、共に絶望しながら同時に不条理に怒り、たてつき、諦めずに活動を続け、柔らかいジョークを口にして自他を解放する人々。

 再び彼女自身のオフィスに戻ると、シェリーはなおも世界の困難について具体的な事例を挙げて説明してくれた。

 ホモセクシュアルを探し出して殺そうとするアフリカの例。

 難民登録が出来ずにゴミをあさって暮らす人々の話。

 牢獄に収容された女性の90%がレイプされていること。

 それでも俺たちは下を向いてはいけなかった。聞けばシェリーは68才で、最初のミッションを俺と同じ年齢55才で始めたのだった。それまでローマのアメリカ大使館などで医療スタッフをしていた彼女は、以後数々の活動地に赴いた。自分が出来ることをひたすら行うしかなかった。

 「......そもそも、シェリーさんはなぜMSFに参加したんですか?」

 その基本的な問いに彼女ははにかむように、あるいはうんざりするように笑ってからこう答えたものだ。

 「シュバイツァーを尊敬しているから」

 実に簡潔な答えだった。続けてシェリーは口を開いた。

 「そして家族もみんな独立して、ようやく私の番が来たの」

 やはりそう言うのだった。自分は誰かのバトンをつないでいる、ただそれだけだ、と。まるでハイチのドイツ人、カールが俺に話したように。

 「ここに来る前はスワジランドに13ヶ月いたのよ」

 シェリーは時をさかのぼって味わうように俺の目をのぞき込んだ。

 「そして5ヶ月休んで孫の世話をたっぷりした。でもそろそろリタイヤしようと思ってます。MSFだけが人生じゃないから。もうほどほどにして、他の生き方も楽しんでみなくちゃ」

 そこでシェリーは一番の笑顔を見せた。

 けれど、彼女はやめられないのではないか、と俺は思った。

 世界に困難がある以上、彼女は力を尽くさずにいられないだろう、と。

話が終わったあとの部屋。
(つづく)


いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

いとうせいこう

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