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「親を捨てるしかない」時代に、子は、親は、どうすべきか

ニューズウィーク日本版 2016年9月27日 6時15分

<ショッキングなタイトルの『もう親を捨てるしかない』だが、なぜいま高齢者を家に抱えることがリスクになっているのか。家や家族との関係が脆くなった時代に、超長寿社会という厳しい現実が突きつけられる>

『もう親を捨てるしかない――介護・葬式・遺産は、要らない』(島田裕巳著、幻冬舎新書)とは、なんともショッキングなタイトルである。その背後にあるのは、親の介護に悩み、疲れ果てた末の結果として起きてしまう介護殺人だ。このところ殺人の件数自体は減っているのに、介護殺人だけは大幅に増えているのだという。

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 しかし当然のことながら、筆者は介護殺人を容認しているわけではない。むしろ逆で、介護殺人という最悪の状況にならないために親を捨てるべきだと主張するのである。

 そんなことを言い出せば、「人非人」であるという非難を覚悟しなければならない。 たしかに、介護が必要になった親を捨てるなどという行為は、相当に残虐なことであるように思える。 介護殺人に至った人々の場合も、介護を必要とする親が邪魔になったから殺したわけではない。 殺したくはないが、状況があまりに過酷で、生活が成り立たなくなり、精神的に追い込まれていったからこそ、やむを得ず親を殺し、その罪を背負うために自分も死のうとしたのである。 しかし、親を捨てていれば、介護殺人に至ることはない。(中略) たとえ、温情判決が出て、刑務所行きは免れたとしても、自分の親を手にかけたという事実は消えない。人生の最後まで、それを背負っていかなければならない。 ならば、親を捨てた方がいい。親もまた、捨てられることを覚悟すべきではないだろうか。(37~38ページより)

 現実に、親捨てに近いことは行われているのだそうだ。親と子どもが同居していても、それぞれの世帯に分ける「世帯分離」がそれ。シェアハウスのように、「同居人ではあっても、同じ世帯になるわけではない」という状態で、おもに介護費用や保険料を節約するために行われている「裏ワザ」だ。つまりは住民票上のことであり、親の世帯と子供の世帯とを分けるということ。そうなると子どもの収入が加算されなくなるため、介護サービスなどを受けている場合に、負担する額が大幅に減るのだ。

 とはいえ、裏ワザはやはり裏ワザでしかない。また、住民票上は世帯を分離しても親子の同居は続けるので、実際に親を捨てることにはならない。

 ところが、この世帯分離が書類上の裏ワザではなく、現実のものとなる場合もあるのだそうだ。たとえば年金や生活保護で生活している親のもとに失業した息子が帰ってきて、単身者世帯から2人世帯になったような場合、親の生活保護は打ち切られ、その一方で月々の負担は増えることになる。そうして親子ともども窮状に追い詰められた末、親が再び生活保護を受けられるよう、世帯を分離させるのである。実際にそうした人たちのケースが、ここでも紹介されている。

 しかし考えてみると、高齢者を家に抱えることは、いまにはじまったことではない。なのになぜ、最近になってそれがリスクになってきたのだろうか? その原因のひとつとして、著者は「日本人があまりにも長生きするようになった」ことを指摘している。たしかに、人類にとっての夢であった長寿は実現された。だが、それで私たちが幸福になれたかといえば、必ずしもそうではないということだ。

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 超長寿社会とは、高齢者になっても親が生存している可能性の高い社会であり、それは超高齢化社会への道だ。高齢者の子どもが後期高齢者の親の介護をすることは、過酷な状況を強いられるであろう老老介護の一種だ。その先には、自分が死ぬときに親が健在という事態も考えられる。また、そこには「孤独死」や「無縁死」の増加という現実も加わるだろう。

 そんななかで著者が問題視するのは、「子どもには迷惑をかけたくない」が高齢者の間でキーワードになっているという点だ。自分の死後の後始末は本人にはできないので、子どもにとって迷惑になるかもしれない。できるだけその負担を減らしたいと考えるのは当然で、だから「終活」という活動が注目されたりもする。だが、そこにさまざまなハードルがあるのも事実。葬儀の方法、相続など、あらゆる問題点が露呈することになるのだ。

終活をはじめたときに、すでに高齢者になっていたとしても、まだ当人は元気であり、そういう状態だからこそ、自分の老い先を考えようとする。 しかし、その時点では、自分が老いるということが具体的に何を意味するのか、はっきりと理解できていない。老いたときの自分の状態や気持ちが、それより前の時点では具体的に想像できないのだ。(106ページより)

 たしかに、それは当然のことかもしれない。終活をはじめた時点では「いさぎよく死にたい」と考え、無駄に命を長引かせる終末期医療など拒否するという立場に立っていたとしても、そうした事態が現実味を帯びてくると、その決意は往々にしてぐらつく。

 人間の決意は、状況によって揺らぎ、変化していく。また、そこには「ボケ」という事態も絡みついてくる。つまり「子どもには迷惑をかけたくない」という思いからはじめたはずの終活も、やり遂げるのはかなり困難だということだ。

 では、親が子どもに捨てられるのだとすれば、そして終活もままならないのだとすれば、親はどうしたらいいのか? この問いに対して、著者は第5章でこう断言している。

究極の就活は、「とっとと死ぬ」ことに尽きる。死んでしまえば、「子どもには迷惑をかけたくない」という高齢者の思いも満たされるし、事実、子どもも助かる。(144ページより)

 実際に、自ら死を望む人もいるだろう。第2章には「社会の活力の維持には適切な形での新陳代謝が必要であり、高齢者にしても、いかなる状態になっても長生きしたいとは考えていない。よって自分が寝たきりになったら、介護を拒否して安楽になりたい」という83歳男性の新聞への投書が紹介されている。

 だが現実はといえば、家族こそが「とっとと死ぬ」ことを阻んでいる元凶でもあるのだという。

介護する側に収入がなかったり、ごく低額の収入しかなく、介護される高齢者の年金に頼っていたら、ますます死なせてはくれなくなる。本人のためではなく、介護する側の都合で、死につつある高齢者が生き続けることを強いられるのだ。(154ページより)



 そればかりか、そもそも「家」という考え方が成り立たなくなっている。

 家が永続性を失い、脆いものになったことで、先祖という存在自体が消滅して、先祖の祟りという脅し文句にリアリティーを感じられなくなったのだ。 これは、都会における暮らしの気楽さを象徴する出来事でもある。(中略) そんな形の家を作ってきたのだから、都会の人間は、最後単身者世帯になり、たったひとりで死んでいくことを覚悟しなければならない。(192~193ページより)

 家や家族の関係が脆いものである以上、兄弟姉妹の関係になれば、もっと脆いのは当然。だとすれば人はひとりで生きていき、ひとりで死んでいくしかない。だから、子どもに介護を期待すること自体がありえないことだと著者。子どもはそんな義務を果たす必要がないし、親もそれを期待できないと覚悟すべきだということだ。

 追い込まれてから親を捨てるということは、実際には大変なことだし、心理的にも負担になる。必要なのは、そうした事態を生まないことであり、それ以前にしっかりと親離れ、子離れをしておくことなのである。(194ページより)

 私たちひとりひとりが、自身の親との関係性(あるいは捨て方)を意識すべき時代なのだろう。それはわかる。ただ気になったのは、「親を捨てる」具体的な手段が最後まで明確になっていない点だ。具体性(親を捨てるというのに具体性というのもおかしいが)が乏しく、机上の空論で終わってしまっている感が否めないため、消化不良気味のまま終わってしまうような印象が残るのである。


『もう親を捨てるしかない――介護・葬式・遺産は、要らない』
 島田裕巳 著
 幻冬舎新書


[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に、「ライフハッカー[日本版]」「Suzie」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、多方面で活躍中。2月26日に新刊『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)を上梓。


印南敦史(作家、書評家)

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