<政策論争は不毛か? 人工妊娠中絶は殺人か? アートの価値とは何か? 人気コラムニストでもある哲学教授が著した『いま哲学に何ができるのか?』は、哲学なんて何の役にも立たないという声に対する回答だ> (写真:1年に2回、通りの延長線上に夕陽が沈むニューヨーク名物の「マンハッタンヘンジ」)
9月26日、米大統領選の第1回テレビ討論が行われ、ヒラリー・クリントン、ドナルド・トランプの両候補による討論を全米で約8400万人が固唾をのんで見守った。自らの政策を訴え、相手の政策や言動を批判し合った2人。終了後、メディアの評価や世論調査の結果を見ると、討論はクリントンが勝ったと考える人が多く、その理由として、クリントンが「落ち着いた」対応を見せ、トランプが「感情的だった」ことを挙げる声が多かった。
【参考記事】討論初戦はヒラリー圧勝、それでも読めない現状不満層の動向
だが、議論が感情的な対決となってしまうのは珍しいことではないと、ノートルダム大学哲学科教授で、ニューヨーク・タイムズの人気コラムニストであるガリー・ガッティング教授は言う。政治の場における政策議論を見ても、その大半は言い争いや単なる意見の応酬にすぎない。そうした応酬をいくら積み重ねても、論理的な議論にはなりえない。政治家による熱のこもった演説にしても、実は単なるスローガンや根拠のない事実の寄せ集めにすぎないことが多い、と。
いったい議論とはどうあるべきか。ガッティングの新刊『いま哲学に何ができるのか?』(筆者訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、その問題に対する考察から始まっている。
すぐれた議論を行うためには、まず、相手の立場から物事を見るべきだという。相手の主張を中立的ないいまわしに置き換える。相手がそのような立場をとる理由をできるだけ肯定的なことばで的確に表現する。そうして相手の主張を正確に把握することにより、相手が明確な答えを持たない弱い論点に議論を集中させることができるというのだ。
また、自分の見解の正しさを示す明白な事実を次々と繰り出すだけでは、その主張の正しさが決定的になるとは限らない。議論の結論を変えてしまいかねない検討事項をくまなく探し、あらゆる関連論拠をつぶさなくては、議論の解決には至らない。
もちろん、政治の場においては、政策論争だけでは重大な問題は解決しない。社会の方向性を最終的に決定するのは議論の勝ち負けではなく、有権者による投票である。しかし、議論が質の高いものになればなるほど、有権者は自分が本当に望む人に投票できる。だからこそ、議論のあり方を考察、検証することが重要なのだ。
哲学の解説書でも、哲学史の本でもない
ニューヨーク・タイムズのネット版には「ザ・ストーン」なる哲学ブログがあり、本書はガッティングがそこに執筆した記事が中心となっている。曰く「数万の人に読んでもらえた。ほぼ毎回、数百件の投稿が読者から寄せられ、わたしは思考を明確にし、発展させ、修正することができた」という、人気のブログだ(現在、「ザ・ストーン」は同紙のオピニオン欄にあり、ガッティングを含む複数の書き手が交替で執筆している)。
冒頭で触れたのは、第1章「政策論争は不毛か?」の内容だが、本書は10章で構成されている。この本は哲学の解説書ではなく、哲学史を概観しているわけでもない。有名な哲学者ばかりが登場するわけでもない。米国市民にとって身近ないくつかの問題をひとりの哲学者の立場から考察した知的な読み物となっている。
第2章以降の内容としては、神は存在するのか、科学と哲学はこれまでいかに関わってきたか、資本主義における教育はどうあるべきか、モーツァルトはビートルズよりもすぐれているか、人工妊娠中絶は許されるべきか、など。これらの論点が著者であるガッティング独自の視点から語られており、21世紀にふさわしい哲学の使い道を指南する一冊となっている。
【参考記事】中絶医療施設への銃撃テロ、保守派が抱える闇
印象的なセンテンスを対訳で読む
最後に、本書から印象的なセンテンスを。以下は『いま哲学に何ができるのか?』の原書と邦訳からそれぞれ抜粋した。
●We may believe that emotions and desires, not reason, drive politics. If that's so, why care about facts and arguments? Because among the whirl of our feelings, we possess a desire for our beliefs to be rational, to have support that would convince other sensible people.
(政治を動かしているのは理性ではなく、感情と欲望ではないだろうか。しかし、もしそうであるなら、わたしたちはどうして事実や議論を気にするのだろう。それはおそらく、自分の考えることが合理的であってほしい、ほかの良識ある人々を納得させるようなものであってほしいという願望をもっているからだ)
――議論することそのものにどのような意味があるのか。上の一節はその問いかけに対して考察する部分の書き出しである。
●Yes, public debates are valuable because they give us an opportunity to support our views. But they are equally valuable for the chance they offer us to reflect on those convictions. Through debate we are forced to consider how central our convictions are to our sense of personal integrity.
(公の議論は、自分の見解を支持してもらう機会を与えてくれることにこそ価値がある。だが、「自分の確信について自分自身で深く考える」機会になるという意味でも同じくらい価値がある。議論を通じて、わたしたちは自分の確信がどれくらい人間的誠実さに対する感覚を中心に据えているかをいやがおうでも検討することになる)
――自分ではなんの疑問もなく受け入れていた確信が、よく考えもせずに選択した単なる思いつきだったということは珍しくない。物議をかもす問題については、継続的な熟考や試験に耐えられたものだけが合理的な確信になる。
●Without this kind of hard-won self-understanding, political debate can readily become a mere game, a form of intellectual competition in which I have no ultimate goal except to win.
(苦労の末に手に入れた自己理解がなければ、政策論争などすぐに単なるゲームになってしまう。あるいは、勝つこと以外に最終的な目標がなにもない、ある種の知的競争にすぎない)
――確信がぐらつく場合もあるだろう。考え抜いた末に、「これ以外の立場はとれない」という確信に至ってこそ、実りある議論が生まれる。
◇ ◇ ◇
ガッティングは、「学術的哲学者が行う専門的で特殊な研究を社会に適用していく」のが自分の仕事だと考えている。本書は「哲学なんてなんの役にも立たない退屈な〈象牙の塔〉の頭の体操だ」という一部読者からのコメントに対する彼なりの回答だという。
『いま哲学に何ができるのか?』
ガリー・ガッティング 著
外山次郎 訳
ディスカヴァー・トゥエンティワン
©トランネット
トランネット
出版翻訳専門の翻訳会社。2000年設立。年間150~200タイトルの書籍を翻訳する。多くの国内出版社の協力のもと、翻訳者に広く出版翻訳のチャンスを提供するための出版翻訳オーディションを開催。出版社・編集者には、海外出版社・エージェントとのネットワークを活かした翻訳出版企画、および実力ある翻訳者を紹介する。近年は日本の書籍を海外で出版するためのサポートサービスにも力を入れている。
http://www.trannet.co.jp/
外山次郎 ※編集・企画:トランネット
9月26日、米大統領選の第1回テレビ討論が行われ、ヒラリー・クリントン、ドナルド・トランプの両候補による討論を全米で約8400万人が固唾をのんで見守った。自らの政策を訴え、相手の政策や言動を批判し合った2人。終了後、メディアの評価や世論調査の結果を見ると、討論はクリントンが勝ったと考える人が多く、その理由として、クリントンが「落ち着いた」対応を見せ、トランプが「感情的だった」ことを挙げる声が多かった。
【参考記事】討論初戦はヒラリー圧勝、それでも読めない現状不満層の動向
だが、議論が感情的な対決となってしまうのは珍しいことではないと、ノートルダム大学哲学科教授で、ニューヨーク・タイムズの人気コラムニストであるガリー・ガッティング教授は言う。政治の場における政策議論を見ても、その大半は言い争いや単なる意見の応酬にすぎない。そうした応酬をいくら積み重ねても、論理的な議論にはなりえない。政治家による熱のこもった演説にしても、実は単なるスローガンや根拠のない事実の寄せ集めにすぎないことが多い、と。
いったい議論とはどうあるべきか。ガッティングの新刊『いま哲学に何ができるのか?』(筆者訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、その問題に対する考察から始まっている。
すぐれた議論を行うためには、まず、相手の立場から物事を見るべきだという。相手の主張を中立的ないいまわしに置き換える。相手がそのような立場をとる理由をできるだけ肯定的なことばで的確に表現する。そうして相手の主張を正確に把握することにより、相手が明確な答えを持たない弱い論点に議論を集中させることができるというのだ。
また、自分の見解の正しさを示す明白な事実を次々と繰り出すだけでは、その主張の正しさが決定的になるとは限らない。議論の結論を変えてしまいかねない検討事項をくまなく探し、あらゆる関連論拠をつぶさなくては、議論の解決には至らない。
もちろん、政治の場においては、政策論争だけでは重大な問題は解決しない。社会の方向性を最終的に決定するのは議論の勝ち負けではなく、有権者による投票である。しかし、議論が質の高いものになればなるほど、有権者は自分が本当に望む人に投票できる。だからこそ、議論のあり方を考察、検証することが重要なのだ。
哲学の解説書でも、哲学史の本でもない
ニューヨーク・タイムズのネット版には「ザ・ストーン」なる哲学ブログがあり、本書はガッティングがそこに執筆した記事が中心となっている。曰く「数万の人に読んでもらえた。ほぼ毎回、数百件の投稿が読者から寄せられ、わたしは思考を明確にし、発展させ、修正することができた」という、人気のブログだ(現在、「ザ・ストーン」は同紙のオピニオン欄にあり、ガッティングを含む複数の書き手が交替で執筆している)。
冒頭で触れたのは、第1章「政策論争は不毛か?」の内容だが、本書は10章で構成されている。この本は哲学の解説書ではなく、哲学史を概観しているわけでもない。有名な哲学者ばかりが登場するわけでもない。米国市民にとって身近ないくつかの問題をひとりの哲学者の立場から考察した知的な読み物となっている。
第2章以降の内容としては、神は存在するのか、科学と哲学はこれまでいかに関わってきたか、資本主義における教育はどうあるべきか、モーツァルトはビートルズよりもすぐれているか、人工妊娠中絶は許されるべきか、など。これらの論点が著者であるガッティング独自の視点から語られており、21世紀にふさわしい哲学の使い道を指南する一冊となっている。
【参考記事】中絶医療施設への銃撃テロ、保守派が抱える闇
印象的なセンテンスを対訳で読む
最後に、本書から印象的なセンテンスを。以下は『いま哲学に何ができるのか?』の原書と邦訳からそれぞれ抜粋した。
●We may believe that emotions and desires, not reason, drive politics. If that's so, why care about facts and arguments? Because among the whirl of our feelings, we possess a desire for our beliefs to be rational, to have support that would convince other sensible people.
(政治を動かしているのは理性ではなく、感情と欲望ではないだろうか。しかし、もしそうであるなら、わたしたちはどうして事実や議論を気にするのだろう。それはおそらく、自分の考えることが合理的であってほしい、ほかの良識ある人々を納得させるようなものであってほしいという願望をもっているからだ)
――議論することそのものにどのような意味があるのか。上の一節はその問いかけに対して考察する部分の書き出しである。
●Yes, public debates are valuable because they give us an opportunity to support our views. But they are equally valuable for the chance they offer us to reflect on those convictions. Through debate we are forced to consider how central our convictions are to our sense of personal integrity.
(公の議論は、自分の見解を支持してもらう機会を与えてくれることにこそ価値がある。だが、「自分の確信について自分自身で深く考える」機会になるという意味でも同じくらい価値がある。議論を通じて、わたしたちは自分の確信がどれくらい人間的誠実さに対する感覚を中心に据えているかをいやがおうでも検討することになる)
――自分ではなんの疑問もなく受け入れていた確信が、よく考えもせずに選択した単なる思いつきだったということは珍しくない。物議をかもす問題については、継続的な熟考や試験に耐えられたものだけが合理的な確信になる。
●Without this kind of hard-won self-understanding, political debate can readily become a mere game, a form of intellectual competition in which I have no ultimate goal except to win.
(苦労の末に手に入れた自己理解がなければ、政策論争などすぐに単なるゲームになってしまう。あるいは、勝つこと以外に最終的な目標がなにもない、ある種の知的競争にすぎない)
――確信がぐらつく場合もあるだろう。考え抜いた末に、「これ以外の立場はとれない」という確信に至ってこそ、実りある議論が生まれる。
◇ ◇ ◇
ガッティングは、「学術的哲学者が行う専門的で特殊な研究を社会に適用していく」のが自分の仕事だと考えている。本書は「哲学なんてなんの役にも立たない退屈な〈象牙の塔〉の頭の体操だ」という一部読者からのコメントに対する彼なりの回答だという。
『いま哲学に何ができるのか?』
ガリー・ガッティング 著
外山次郎 訳
ディスカヴァー・トゥエンティワン
©トランネット
トランネット
出版翻訳専門の翻訳会社。2000年設立。年間150~200タイトルの書籍を翻訳する。多くの国内出版社の協力のもと、翻訳者に広く出版翻訳のチャンスを提供するための出版翻訳オーディションを開催。出版社・編集者には、海外出版社・エージェントとのネットワークを活かした翻訳出版企画、および実力ある翻訳者を紹介する。近年は日本の書籍を海外で出版するためのサポートサービスにも力を入れている。
http://www.trannet.co.jp/
外山次郎 ※編集・企画:トランネット