<「国境なき医師団」(MSF)の取材をはじめた いとうせいこうさんは、まずハイチを訪ね、今度はギリシャの難民キャンプで活動するMSFをおとずれた。「暴力や拷問を受けた人びとを対象としたプロジェクト」を取材し、そして、ギリシャの根幹が感じられる土地、アクロポリスを案内してもらった...>
これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」
前回の記事:ギリシャまで、暴力や拷問から逃れてきた人々
たった一日での変化
いつまで経っても俺は落ちた海に頭を突っ込んだままで息が出来なかった。波がぐらぐら揺れたあと、俺の体はぐんと海底の方に引っ張られ、より水温の低い層に吸い込まれた。なぜか頭皮ばかりが冷たかった。
宿舎の硬いベッドで目を覚ましてすぐ、夢の要素が前夜のシャワーに直接関係しているのを理解した。お湯が出ず、俺は真水で髪を洗い、近くのスーパーで買っておいたタオルで全身をふいたのだった。
ありがたいことにWifiは国境なき医師団、MSFの関連施設に完備していた。俺は洗面所へ行き、歯を磨き顔を洗い、生乾きのタオルを使いながら、スマホを見た。そして、トルコでクーデターが起きかけたというニュースを知った。
ギリシャの隣国だった。数日後には至近の島へ取材に行く予定でもあった。そこでクーデターが実行されかけ、重要人物がこちらに向かっているとかいう記事も見た。前々日はフランスでテロがあったばかりだった。世界が不安定に揺さぶられ、あちこちで軸を失って物が倒れている気がした。
それでも当日の取材は変わらず行われた。俺たちは近くまで地下鉄に乗って行き、ギリシャの国会議事堂前、すなわちシンタグマ広場へと歩いた。衛兵が二人、旧王宮であった薄オレンジ色の議事堂前に立ち、白いソックスにカーキ色の上っ張りを着て赤帽をかぶっていた。その衛兵の姿をさかんに直す上官がいて、やがて集まっている観光客に向かって写真を撮るように促した。俺はどういうわけか、いつの間にか最前列に飛び出しており、撮りたくもないのにスマホを構えなければならなかった。
その観光地中の観光地で、俺たちはOCP(オペレーションセンター・パリ)から現地に配属された日本人スタッフ、梶村智子さんと待ち合わせていた。彼女はロジスティック・コーディネーターの下でサプライのマネージャーをしているとのことだった。つまり物資の供給を受け持っているわけだ。ちなみにこれがOCB(オペレーションセンター・ブリュッセル)だとサプライチームはロジスティックから独立して行動するというから、組織によって構成は異なるようだ。
相変わらず快晴でひどく暑い陽気だった。太陽の下、俺はギリシャの現在の民主主義を代表する場所におり、周囲を見渡した。それが経済破綻をした国だとは思えなかった。小ぎれいな人が歩いていた。住民の顔はのんびりして見えた。確かに店は閉まりがちだったがギリシャ人が夜型なのを聞き知っていたからさほど気にならなかった。
駅からの道で数人の物乞いは見た。中の二人は顔と手を白く塗っていて、白い布をまとっていた。古代の人物をあらわしているのだろうが、それが誰であるかわからなかった。がしかし、人々のチャリティ精神に訴えかける格好がいまだにあること自体、ひとつの社会の余裕のように俺は感じていた。
果たしてこの国は本当に苦境に陥っているのだろうか。それがよくわからなかった。
サプライの智子さん
頭頂部が暑くなるのを避けてしばし木陰にいると、やがて智子さんが来た。白い長袖シャツにジーンズをはいていた。サングラスを外して明るく挨拶をする彼女は、あたりを見てこう言った。
「今日は静かですね。近頃は週に2、3回は地下鉄も国鉄もストライキですし、デモもこのへんでしょっちゅうしているんですけど。日本大使館から色々おしらせが来るものの、多すぎてわけがわからなくなるほどで」
しれっとした冗談も交えながら、実際にギリシャ情勢がどうであるかを伝えてくれるあたり、クレバーな人だなと思った。
そのあと谷口さんとあれこれ世界中のMSF情報を素早くやりとりしているのを聞くと、智子さんは3月末に南スーダンから日本に帰り、途中地震の被害を受けた熊本のミッションに緊急参加したあとでギリシャに来たのだそうだった。
「ついこの間、6月1日から消費税が24%になった上に、失業率が25%で、若年層だと50%なんですよ、ギリシャは」
谷口さんと俺に、智子さんは短くそう言った。突然やって来た俺のような外国人には、その生活の厳しさがまるで見えていなかった。若者の半数に仕事がないというのは、先進国としては致命的な経済状態だった。
それでも他国からの難民に手を差し伸べるMSFギリシャがあるということが、逆に俺には夢のような非現実的な事柄に思われた。
アクロポリスへ
アテネのアクロポリス、2000年以上前に造られ、小高いその場所から地中海周辺の栄枯盛衰を見てきた建造物を、その日は見学することになっていた。というか、前日にそれを俺が希望した。
週末だからこそ智子さんに長く話を聞けると知り、どうせだったらギリシャの根幹が感じられる土地を案内してもらいながらにしようと思ったのだった。もちろん受け入れる智子さん側もそう考えていたようだった。
というわけで、俺たちは旧市街へと足を伸ばし、そこから遺跡群へと近づくことになった。昼どきのアテネ市街だったが、開いている店はまだまだ少なかった。
教会前から見上げる遺跡
智子さんによると、MSFでの初めてのシティライフなのだそうだった。それまでの任務地では金銭を使う場所自体が珍しく、反対に現在は自炊にもかかわらず日当みたいなものを使い切ったと彼女は笑った。同じく世界各地での取材経験のある谷口さんも、その違和感に同意した。
道の左側にギリシャ正教の小さな、しかし威厳のある教会が出てきた。外壁に聖人たちの絵があり、幾何学模様が描かれている。俺たちはそこにふらりと入ってみた。左右にロウソクを入れるガラスの箱があって、信者たちは次々訪れては寄付をしてロウソクをそこに供えた。天井を見上げるとドーム型になった脇の方がラピスラズリのような青色に塗られ、その上に点々と星のマークが刻まれていた。外の文化の中にいる俺からすれば、イスラミックな意匠と区別がつきにくかった。
教会から出て、左へ顔を上げると高い丘が見えた。その上に崩れた石壁があり、越えれば目指すアクロポリスだと智子さんが言った。そこに遠い昔のペルシャ戦争で灰燼に帰したアテナイの建造物があるのだと思うと、文明の交差が激しすぎる気がした。それは以前トルコに取材に行った時にも感じたことだった。ほぼ同一のものを各宗教、各文化が奪い合っているのだった。
そして今度は現在、異文化の中で生きてきた者たちがギリシャに流れ込んでいた。難民は北へのルートを絶たれ、そのままギリシャに住み始めていた。前日に話を聞いたシェリーによれば、人のいない建物のスクワット(不法占拠)も珍しくないそうだった。
むろん難民キャンプにはもっとたくさんの人々がいるという。
「食料配布は今、ギリシャ軍がやっています。ですから私たちは主に医療、心理ケアに重点を置いています」
細い路地を抜け、土産物屋、貴金属店を横目に見ながら智子さんはそう言った。
「で、ここでの問題のひとつは、滞在が長引いていることです。例えばさすがにおんなじ物を食べ続けるわけにいかないですよね。となると、食事内容に不満が出てきます。もっとハードな現場なら食べられるだけで満足ということになるんですけど、そうもいかないんですよね」
軍はメニューに配慮した食事を提供しようと努め、MSFは身動きが取れない人々の心身の不調に対応する。
どんどん歩きながら、俺はギリシャでのMSFの活動の細かな部分に詳しくなっていく。
「南スーダンとか、アフガニスタンであれば"ログコ(ロジステック・コーディネーターの略称。こういう言葉を知るのが俺は本当に好きだ)"は、水の供給に苦心します。何はなくても水がなくちゃいけませんから。でもギリシャは違います。先進国ですから水はあるんです。ところが」
智子さんはどう説明しようかと少し考えてから言った。
「ギリシャの場合、物資がEU内での移動になるんですね。むしろ中東やアフリカへの輸入ならそこにかかる税の計算はシンプルです。でもギリシャではEU内部での初めての大規模ミッションなので、前例がない。ということで、ものすごく込み入ったVAT(付加価値税)をまとめる作業が必要になりました」
「ははあ......」
先進国内での任務ゆえにこその、それは誰も想像も対応もしたことのない事態なのだった。
閑散とした観光地
アクロポリスへと近づくにつれ、カフェが多くなり、客引きも大きな声を張り上げるようになっていた。道は細くなり、うねり、傾斜が強くなる。しかし人影はまばらだった。
週末の昼前である
もともとギリシャが好きで十年ほど前まで何度も観光に来ていたという谷口さんがしきりと首をかしげた。
「土曜日にこんなに閑散としてるなんて......いくらなんでも少ないですよね」
経済破綻と、難民問題での観光イメージの低下だろうか。丘の上の建造物も、石畳の坂も、カフェも、オリーブの小さな葉も、等しく日に輝いてまぶしかった。世界全体が光っているように見えた。その光の中にいるのは少ない観光客だった。アンバランスさが俺をまた夢の中に押し戻しかけた。このひたすら陽光で明るい国が、解けない困難のさなかにあるなんて。
「ギリシャ一国ではもたないと思うんです」
智子さんがぽつりとそう言ったのは、カフェで休んだ折だったかどうか。場所はもう忘れてしまった。
「ドイツとトルコの仲がまたよくないんで、なかなかうまい協力体制が出来にくいんですね」
「ああ、『EUートルコ協定』でやっと、ということですか?」
【参考記事】ギリシャの『国境なき医師団』で聞く、「今、ここで起きていること」
「そうです。結局イドメニを閉じて追い返すことになっただけで。難民は別の北への道を探してイオニア海へ向かうといった動きになって、根本的には解決にならないので」
そしてその話のあとしばらくして、智子さんは自分の行く道についても語ってくれたのだった。
「このミッションの期間が終わったあと、ナイジェリアへ行かないかと聞かれてるんですね。たぶんボコ・ハラムの暴力で傷ついた人たちや避難民のケアだと思うんですけど」
むろんそれもハードな仕事だった。
「でも、MSFはギリシャで終わりにしようかと迷っています」
「あ、そうなんですか」
俺はうまく答えることが出来なかった。智子さんは寂しそうに笑いながら続けた。
「日本の会社だと、一度やめると元に戻ったり出来ないんですよね。それに、NGOで働いてるって言うと、暇な人みたいに受け取られてしまいます。他の国では理解されることが、どうしても日本だと違っちゃうんです」
俺は足に痛みを感じていた。日本にいる時から、特に右足の小指のつけ根に鈍痛があった。血液検査でも触診でもレントゲン撮影でも原因はわからなかった。アクロポリスへの坂道はぼこぼこと石畳な上、チケットを買って柵の中に入る頃には石の階段が多くなっていた。俺はある段をがくんと踏み外し、うっかり右足で体を支えたために痛んだ箇所をさらに痛めた。しかめた顔を俺は隠して歩いた。ギリシャ悲劇にそんな役があったような気がした。
劇場は複数あった。重要な文化拠点なのだった。
実際、階段の途中に古代劇場の跡があった。その上方にパルテノン神殿の優美な柱が並んでいた。補修工事のクレーン車が横で目立っていた。むき出しの岩の上に左足を中心にして立ってアテネ市内を見下した。地中海が遠い南側に見え、北西すぐ下に古代アゴラがあった。人はアクロポリスで神聖なものに出会い、アゴラで政治演説を聞き、市場経済を成立させた。奴隷制の上ではあれ、市民たちの権利が打ち立てられ、暴力でなく議論によってそれは守られた。
その都市に今、難民が押し寄せていた。彼らが市民でないことは確かだった。だが、奴隷でもなかった。ではギリシャは、ヨーロッパはどのように彼らを位置づけ、共存していくのか。それがわからなくなっていた。
ギリシャが先進国であるからこそ、MSFが難民ケアのために必要とする薬剤が安く買えないという話も、帰りに寄ったカフェでのランチ中に聞いた。途上国での活動であれば途上国向けの安価な価格設定も利用できるのだが、ギリシャで使うとなると適応から外れてしまう。先進国内で使用される以上、一般価格になってしまうというのだった。
全体に、まるで免疫不全のような話なのだった。先進国である自己と、逃げてくる難民という他者が分けられなくなっていた。いや他者として敬して扱おうにも、例えば使う薬の価格が先進国のレベルなのだから、"自己のようなもの"になる。ひとつであるはずのEUのアイデンティティを、難民問題が分裂させ交差させ錯乱させていた。
なぜ彼らがそうなるのかの根っこの部分を、俺は他の取材で知ることになるのだが、ともかくその日、梶村智子さんにつきあってもらってアテネ随一の観光地へ足を伸ばした俺は、その古代的精神の中心地でひとつも解決していない問題の根の深さ、同時にそこに関わろうとする人たちの苦悩のようなものを知り、かすかに足を引きずりながら少し宿舎で休もうと地下鉄の駅へ向かうのだった。
そして夜、今度はMSFギリシャの面々から興味深い話を様々聞くことになる。
難問の前でギリシャ市民がどのように対応しているかを、次回ははっきりと思い出すことにしたい。
いやその前に、現在カタール航空ドーハ発羽田行きQR813で帰国の途に着いている俺は、少し先に智子さんに起こる心の変化を予言のように語っておかねばならない。
彼女はMSFの活動をもうひとつ続けることにし、ナイジェリアへと旅立つのだ。
(つづく)
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう
これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」
前回の記事:ギリシャまで、暴力や拷問から逃れてきた人々
たった一日での変化
いつまで経っても俺は落ちた海に頭を突っ込んだままで息が出来なかった。波がぐらぐら揺れたあと、俺の体はぐんと海底の方に引っ張られ、より水温の低い層に吸い込まれた。なぜか頭皮ばかりが冷たかった。
宿舎の硬いベッドで目を覚ましてすぐ、夢の要素が前夜のシャワーに直接関係しているのを理解した。お湯が出ず、俺は真水で髪を洗い、近くのスーパーで買っておいたタオルで全身をふいたのだった。
ありがたいことにWifiは国境なき医師団、MSFの関連施設に完備していた。俺は洗面所へ行き、歯を磨き顔を洗い、生乾きのタオルを使いながら、スマホを見た。そして、トルコでクーデターが起きかけたというニュースを知った。
ギリシャの隣国だった。数日後には至近の島へ取材に行く予定でもあった。そこでクーデターが実行されかけ、重要人物がこちらに向かっているとかいう記事も見た。前々日はフランスでテロがあったばかりだった。世界が不安定に揺さぶられ、あちこちで軸を失って物が倒れている気がした。
それでも当日の取材は変わらず行われた。俺たちは近くまで地下鉄に乗って行き、ギリシャの国会議事堂前、すなわちシンタグマ広場へと歩いた。衛兵が二人、旧王宮であった薄オレンジ色の議事堂前に立ち、白いソックスにカーキ色の上っ張りを着て赤帽をかぶっていた。その衛兵の姿をさかんに直す上官がいて、やがて集まっている観光客に向かって写真を撮るように促した。俺はどういうわけか、いつの間にか最前列に飛び出しており、撮りたくもないのにスマホを構えなければならなかった。
その観光地中の観光地で、俺たちはOCP(オペレーションセンター・パリ)から現地に配属された日本人スタッフ、梶村智子さんと待ち合わせていた。彼女はロジスティック・コーディネーターの下でサプライのマネージャーをしているとのことだった。つまり物資の供給を受け持っているわけだ。ちなみにこれがOCB(オペレーションセンター・ブリュッセル)だとサプライチームはロジスティックから独立して行動するというから、組織によって構成は異なるようだ。
相変わらず快晴でひどく暑い陽気だった。太陽の下、俺はギリシャの現在の民主主義を代表する場所におり、周囲を見渡した。それが経済破綻をした国だとは思えなかった。小ぎれいな人が歩いていた。住民の顔はのんびりして見えた。確かに店は閉まりがちだったがギリシャ人が夜型なのを聞き知っていたからさほど気にならなかった。
駅からの道で数人の物乞いは見た。中の二人は顔と手を白く塗っていて、白い布をまとっていた。古代の人物をあらわしているのだろうが、それが誰であるかわからなかった。がしかし、人々のチャリティ精神に訴えかける格好がいまだにあること自体、ひとつの社会の余裕のように俺は感じていた。
果たしてこの国は本当に苦境に陥っているのだろうか。それがよくわからなかった。
サプライの智子さん
頭頂部が暑くなるのを避けてしばし木陰にいると、やがて智子さんが来た。白い長袖シャツにジーンズをはいていた。サングラスを外して明るく挨拶をする彼女は、あたりを見てこう言った。
「今日は静かですね。近頃は週に2、3回は地下鉄も国鉄もストライキですし、デモもこのへんでしょっちゅうしているんですけど。日本大使館から色々おしらせが来るものの、多すぎてわけがわからなくなるほどで」
しれっとした冗談も交えながら、実際にギリシャ情勢がどうであるかを伝えてくれるあたり、クレバーな人だなと思った。
そのあと谷口さんとあれこれ世界中のMSF情報を素早くやりとりしているのを聞くと、智子さんは3月末に南スーダンから日本に帰り、途中地震の被害を受けた熊本のミッションに緊急参加したあとでギリシャに来たのだそうだった。
「ついこの間、6月1日から消費税が24%になった上に、失業率が25%で、若年層だと50%なんですよ、ギリシャは」
谷口さんと俺に、智子さんは短くそう言った。突然やって来た俺のような外国人には、その生活の厳しさがまるで見えていなかった。若者の半数に仕事がないというのは、先進国としては致命的な経済状態だった。
それでも他国からの難民に手を差し伸べるMSFギリシャがあるということが、逆に俺には夢のような非現実的な事柄に思われた。
アクロポリスへ
アテネのアクロポリス、2000年以上前に造られ、小高いその場所から地中海周辺の栄枯盛衰を見てきた建造物を、その日は見学することになっていた。というか、前日にそれを俺が希望した。
週末だからこそ智子さんに長く話を聞けると知り、どうせだったらギリシャの根幹が感じられる土地を案内してもらいながらにしようと思ったのだった。もちろん受け入れる智子さん側もそう考えていたようだった。
というわけで、俺たちは旧市街へと足を伸ばし、そこから遺跡群へと近づくことになった。昼どきのアテネ市街だったが、開いている店はまだまだ少なかった。
教会前から見上げる遺跡
智子さんによると、MSFでの初めてのシティライフなのだそうだった。それまでの任務地では金銭を使う場所自体が珍しく、反対に現在は自炊にもかかわらず日当みたいなものを使い切ったと彼女は笑った。同じく世界各地での取材経験のある谷口さんも、その違和感に同意した。
道の左側にギリシャ正教の小さな、しかし威厳のある教会が出てきた。外壁に聖人たちの絵があり、幾何学模様が描かれている。俺たちはそこにふらりと入ってみた。左右にロウソクを入れるガラスの箱があって、信者たちは次々訪れては寄付をしてロウソクをそこに供えた。天井を見上げるとドーム型になった脇の方がラピスラズリのような青色に塗られ、その上に点々と星のマークが刻まれていた。外の文化の中にいる俺からすれば、イスラミックな意匠と区別がつきにくかった。
教会から出て、左へ顔を上げると高い丘が見えた。その上に崩れた石壁があり、越えれば目指すアクロポリスだと智子さんが言った。そこに遠い昔のペルシャ戦争で灰燼に帰したアテナイの建造物があるのだと思うと、文明の交差が激しすぎる気がした。それは以前トルコに取材に行った時にも感じたことだった。ほぼ同一のものを各宗教、各文化が奪い合っているのだった。
そして今度は現在、異文化の中で生きてきた者たちがギリシャに流れ込んでいた。難民は北へのルートを絶たれ、そのままギリシャに住み始めていた。前日に話を聞いたシェリーによれば、人のいない建物のスクワット(不法占拠)も珍しくないそうだった。
むろん難民キャンプにはもっとたくさんの人々がいるという。
「食料配布は今、ギリシャ軍がやっています。ですから私たちは主に医療、心理ケアに重点を置いています」
細い路地を抜け、土産物屋、貴金属店を横目に見ながら智子さんはそう言った。
「で、ここでの問題のひとつは、滞在が長引いていることです。例えばさすがにおんなじ物を食べ続けるわけにいかないですよね。となると、食事内容に不満が出てきます。もっとハードな現場なら食べられるだけで満足ということになるんですけど、そうもいかないんですよね」
軍はメニューに配慮した食事を提供しようと努め、MSFは身動きが取れない人々の心身の不調に対応する。
どんどん歩きながら、俺はギリシャでのMSFの活動の細かな部分に詳しくなっていく。
「南スーダンとか、アフガニスタンであれば"ログコ(ロジステック・コーディネーターの略称。こういう言葉を知るのが俺は本当に好きだ)"は、水の供給に苦心します。何はなくても水がなくちゃいけませんから。でもギリシャは違います。先進国ですから水はあるんです。ところが」
智子さんはどう説明しようかと少し考えてから言った。
「ギリシャの場合、物資がEU内での移動になるんですね。むしろ中東やアフリカへの輸入ならそこにかかる税の計算はシンプルです。でもギリシャではEU内部での初めての大規模ミッションなので、前例がない。ということで、ものすごく込み入ったVAT(付加価値税)をまとめる作業が必要になりました」
「ははあ......」
先進国内での任務ゆえにこその、それは誰も想像も対応もしたことのない事態なのだった。
閑散とした観光地
アクロポリスへと近づくにつれ、カフェが多くなり、客引きも大きな声を張り上げるようになっていた。道は細くなり、うねり、傾斜が強くなる。しかし人影はまばらだった。
週末の昼前である
もともとギリシャが好きで十年ほど前まで何度も観光に来ていたという谷口さんがしきりと首をかしげた。
「土曜日にこんなに閑散としてるなんて......いくらなんでも少ないですよね」
経済破綻と、難民問題での観光イメージの低下だろうか。丘の上の建造物も、石畳の坂も、カフェも、オリーブの小さな葉も、等しく日に輝いてまぶしかった。世界全体が光っているように見えた。その光の中にいるのは少ない観光客だった。アンバランスさが俺をまた夢の中に押し戻しかけた。このひたすら陽光で明るい国が、解けない困難のさなかにあるなんて。
「ギリシャ一国ではもたないと思うんです」
智子さんがぽつりとそう言ったのは、カフェで休んだ折だったかどうか。場所はもう忘れてしまった。
「ドイツとトルコの仲がまたよくないんで、なかなかうまい協力体制が出来にくいんですね」
「ああ、『EUートルコ協定』でやっと、ということですか?」
【参考記事】ギリシャの『国境なき医師団』で聞く、「今、ここで起きていること」
「そうです。結局イドメニを閉じて追い返すことになっただけで。難民は別の北への道を探してイオニア海へ向かうといった動きになって、根本的には解決にならないので」
そしてその話のあとしばらくして、智子さんは自分の行く道についても語ってくれたのだった。
「このミッションの期間が終わったあと、ナイジェリアへ行かないかと聞かれてるんですね。たぶんボコ・ハラムの暴力で傷ついた人たちや避難民のケアだと思うんですけど」
むろんそれもハードな仕事だった。
「でも、MSFはギリシャで終わりにしようかと迷っています」
「あ、そうなんですか」
俺はうまく答えることが出来なかった。智子さんは寂しそうに笑いながら続けた。
「日本の会社だと、一度やめると元に戻ったり出来ないんですよね。それに、NGOで働いてるって言うと、暇な人みたいに受け取られてしまいます。他の国では理解されることが、どうしても日本だと違っちゃうんです」
俺は足に痛みを感じていた。日本にいる時から、特に右足の小指のつけ根に鈍痛があった。血液検査でも触診でもレントゲン撮影でも原因はわからなかった。アクロポリスへの坂道はぼこぼこと石畳な上、チケットを買って柵の中に入る頃には石の階段が多くなっていた。俺はある段をがくんと踏み外し、うっかり右足で体を支えたために痛んだ箇所をさらに痛めた。しかめた顔を俺は隠して歩いた。ギリシャ悲劇にそんな役があったような気がした。
劇場は複数あった。重要な文化拠点なのだった。
実際、階段の途中に古代劇場の跡があった。その上方にパルテノン神殿の優美な柱が並んでいた。補修工事のクレーン車が横で目立っていた。むき出しの岩の上に左足を中心にして立ってアテネ市内を見下した。地中海が遠い南側に見え、北西すぐ下に古代アゴラがあった。人はアクロポリスで神聖なものに出会い、アゴラで政治演説を聞き、市場経済を成立させた。奴隷制の上ではあれ、市民たちの権利が打ち立てられ、暴力でなく議論によってそれは守られた。
その都市に今、難民が押し寄せていた。彼らが市民でないことは確かだった。だが、奴隷でもなかった。ではギリシャは、ヨーロッパはどのように彼らを位置づけ、共存していくのか。それがわからなくなっていた。
ギリシャが先進国であるからこそ、MSFが難民ケアのために必要とする薬剤が安く買えないという話も、帰りに寄ったカフェでのランチ中に聞いた。途上国での活動であれば途上国向けの安価な価格設定も利用できるのだが、ギリシャで使うとなると適応から外れてしまう。先進国内で使用される以上、一般価格になってしまうというのだった。
全体に、まるで免疫不全のような話なのだった。先進国である自己と、逃げてくる難民という他者が分けられなくなっていた。いや他者として敬して扱おうにも、例えば使う薬の価格が先進国のレベルなのだから、"自己のようなもの"になる。ひとつであるはずのEUのアイデンティティを、難民問題が分裂させ交差させ錯乱させていた。
なぜ彼らがそうなるのかの根っこの部分を、俺は他の取材で知ることになるのだが、ともかくその日、梶村智子さんにつきあってもらってアテネ随一の観光地へ足を伸ばした俺は、その古代的精神の中心地でひとつも解決していない問題の根の深さ、同時にそこに関わろうとする人たちの苦悩のようなものを知り、かすかに足を引きずりながら少し宿舎で休もうと地下鉄の駅へ向かうのだった。
そして夜、今度はMSFギリシャの面々から興味深い話を様々聞くことになる。
難問の前でギリシャ市民がどのように対応しているかを、次回ははっきりと思い出すことにしたい。
いやその前に、現在カタール航空ドーハ発羽田行きQR813で帰国の途に着いている俺は、少し先に智子さんに起こる心の変化を予言のように語っておかねばならない。
彼女はMSFの活動をもうひとつ続けることにし、ナイジェリアへと旅立つのだ。
(つづく)
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう