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ボブ・ディラン受賞の驚きと、村上春樹の機が熟した2つの理由 - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 2016年10月14日 16時30分

<毎年ノーベル文学賞の筆頭候補とされながら、今年も村上春樹氏の受賞はならず。しかし国際社会が「複雑系」へと変化する中で村上文学の価値はさらに高まっている>(写真:村上作品は各国言語に翻訳されている)

 それにしてもボブ・ディランの受賞には驚きました。アメリカでもそれほど予想はされていなかったので、NBCの朝のニュースでは速報が遅れたぐらいです。ただ、「現代最高の詩人」だという事務局の説明には納得できるものもあり、やがて世界でも受け入れられていくと思います。

 村上春樹氏に関しては、今回も見送りということになったわけですが、以前2013年にノーベル文学賞が「アジア枠」に回りそうだということが言われて受賞への期待が高まったことがありました。ですが、この年の場合も結果的に賞は中国の莫言氏の方へ行ってしまったわけです。

 これを受けて、私は「村上文学というのは、そもそもの本質がノーベル賞には馴染まない」つまり「『コミットメント』を拒否し、この世界全体への違和感に正直になることから『デタッチメント』という生き方を表現」した村上文学というのは、「世界的な権威などとは無縁であることに価値がある」、そんな主張をしました。

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 要するに、別に受賞できなくてもいいではないかと申し上げました。それから3年が経過しました。この間に、時代の状況はかなり変わってきたように思います。日本だけでなく、世界的に人々の意識に変化が生じ、時代の持つ意味とか課題というものも変化してきました。そんな中、村上氏の文学の持つ意味も少し変わってきたように思います。

 一言で言えば、村上文学はノーベル賞を受けてもいい、機は熟した、そのように思うのです。今回はダメでしたが、受賞にはかなり近づいているのではないかと思います。そこには、2つ理由があります。

 1つ目は、この世界に距離を置く「デタッチメント」という生き方の意味です。村上文学が日本で読まれ始めた1980年代から、人気が世界に拡大した2010年代までというのは、経済成長の結果として生まれた「豊かな世代」が、経済成長に「コミット」して上の世代が作ってきた世界への違和感を持ちはじめた時代でした。

 その違和感が、村上文学の持つ「この世界への違和感」とシンクロする中で、世界的に爆発的な人気を獲得してきたのだと思います。ですが、そうした読まれ方は悪く言えば「豊かさの帰結」としての貴族性であり、一歩間違えば高等遊民の思想に近いものとなる危険をはらんでいました。



 日本のある時代においては「就活」の中で、「村上春樹のファン」を自称する学生は「評価しない」という会社があったそうですが、その良し悪しは別として、経済成長へのコミットという生き方とは、村上文学の持つ「デタッチメント」というのは、相性は悪かったわけです。村上文学の本質がそうかという点は別として、そのような読まれ方がされた時代だったのでした。

 ですが、現代は違います。日米欧をはじめとした先進国では、その経済は新しい段階、すなわち知的な創造力が求められる時代になってきています。企業共同体などの集団に「コミット」するような前世紀的な思想ではなく、一人ひとりが世界の現状と変化に距離を置きつつ冷静な見通しを持っていく、そのような生き方が実現されなくては、全体の成長も不可能という時代に突入しているのです。部分的には中国の社会もその段階に入りつつあります。

 それは村上文学が保守本流になり、時代に追いつかれたということではありません。村上文学は、さらにその先へと走り続けています。ですが、村上文学の持っている「デタッチメント」すなわち、この世界に距離を置くことから生まれる、個人の自立した姿、無自覚な依存を拒否する生き方というのが、現代はますます重要な考え方になっている、そのことは間違いないと思うのです。

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 第2の理由は、紛争とその解決という問題です。2009年にイスラエルで行われたエルサレム賞の受賞式で、村上春樹氏は「卵と壁」というスピーチを行いました。また、2011年の福島第一原発事故以降は、村上氏は原子力の平和利用への反対という立場を明確にしています。

 この2つの動きについて言えば、あらゆる対象に「デタッチメント」を貫いてきた村上氏が、パレスチナや反原発運動に連帯するという、単純な「コミットメント」の立場に移動した、つまり妥協や屈服をしたのだという感想を喚起したのかもしれません。

 ですが、私は違うと思います。まず、イスラエルの「壁」ですが、これは万里の長城や、ベルリンの壁、あるいはトランプの夢想する「メキシコ国境の壁」とは根本的に違います。二つのエリアを一本の線で分ける壁ではないのです。元来はパレスチナ国家の領土である西岸地区に、イスラエルはロシアなどで迫害されてきた新移民を入植させたのですが、その入植地はアラブ人の居住区の中に点々と入り組んだ形で混ざりあっているのです。

 その「壁」というのは、複雑な「入れ子構造となっている」その入植地をテロから守ると称して作られた複雑な壁であり、その撤去を行うには西岸地区における両民族の共存を可能にする厳格な法体系と、共生のルールがなくては成立しません。



 また「卵」というのも単純な話ではありません。インティファーダというと、パレスチナ人が卵や石を投げる平和的な抗議というイメージがありますが、実際は火炎瓶や自爆テロも伴っています。これに対するイスラエル側の行動も実弾射撃から戦車隊の投入へとエスカレートしています。そのような複雑な紛争を解決に導くには、「一方が善で他方が悪」だというような原理主義的な思想ではなく、故シモン・ペレス氏のような粘り強いリアリズムが必要なのだと思います。

 エネルギー政策も同様で、原発に対して最初から否定する態度も、また依存を前提に行動する態度もどちらも合意形成能力には乏しいわけです。目に見えない放射線に対して人間が本能的に抱く危機回避行動を甘く見ない一方で、絶望的に資源のない国家が、温室効果ガスの排出抑制という地球規模の使命を果たすためには、どんなエネルギーの「ミックス」が適正なのかは、極めて複雑な議論を要求します。

 現代の社会的課題、国際的な紛争というのは、そのような「複雑系」として存在します。例えばシリア問題がまさにそうであり、中国の一部企業の破綻処理などもそうだと思います。そのような社会において、「一方の立場にコミット」してしまう態度では、もう問題解決が不可能になっています。そのような時代にあって、世界に対して距離を置く「デタッチメント」の思想というのは、別の意味での重要な価値が出てきていると思うのです。

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